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夜の世界を知らなくちゃ

 少し怖いけれど知りたいこと、それは夜の世界の人たちのこと。
子供の頃、商店街には昼間は閉まっているお店があることを知っていた。その裏路地が夜になると、紫やピンクの看板が出て輝きだす。
「ここは何のお店屋さん?」母に聞いても教えてくれない。教えてもらえないと知りたくなる。夜になるとその扉は開いた。お店から出てくる、おしゃれをして短いスカートをはいた女の人は、化粧をしない素朴な母とは違う種類の女性だった。
そのうちに水商売という仕事があると聞いて、秘かに憧れるようになった。
艶やかな女の色気を巧みに使う夜の女は、きっと、人生経験が豊富で、世の中の裏も表も知っている。嗅覚が鋭くて強い女だとあたしの想像は膨らんだ。
 酸いも甘いも噛み分ける。そういう女になりたい!

私は十八になるのが待ち遠しかった。新聞の折込で入っている求人紙で、女の子の絵のついているフロアレディ募集のお店が乗っているってことはチェック済み。紙を引っ張り出し、高校の定期券で通える駅の範囲のお店に絞る。
 キャバクラでも自給があまりに高いところは危険だと思ったので、それなりのところにしよう。それでも、今まで私がアルバイトをしていた弁当屋の時給八百円と比べれば倍以上の時給だ。服に困った。いとこの結婚式で一回だけ着たロングのワンピを引っ張り出した。ダサくないか不安だけれど、サラサラした生地の服はこれしかない。伸ばしている髪を下して、前髪を横に流す。
 求人で見つけたのは、都会過ぎない駅の店。道幅の狭い路地を行き、コンビニの隣、電話で案内された雑居ビルを見上げ「アゲハ」という看板を確認して四階まで上がった。いよいよ夜の世界の大人たちに会えるって気持ちで。ドアは空いていて、水色の壁紙の店内と白い小さなテーブルが見えた。
「こんにちは、面接の電話を入れたものですが」
「はいはい」 
 そう言って出てきたグレーのスーツでオールバックの店長さんが、私をじーっと見る。
「いくつだっけ?」
「十八です」
一瞬、間があった。
「一八歳かぁ。箸が転がっても笑える年頃でしょ」
「そうなんですか?」と答えた。
「こちらへどうぞ」
店長の後をついていく。カウンターを通り過ぎるときに、灰皿を拭いている背の高いボーイのお兄さんにも挨拶。
「高校は辞めちゃったの?」
「はい、中退しました」
私は、一年の二学期に高校を辞めようかと思っていたことがある。退屈な授業や窮屈な学校生活が、時間の無駄に思えたからだ。でも、クラスメイトと作品を作ったり、絵をかいたり、バンドを組んだりして、創作にのめり込んでいるうちに三年生になった。あと五カ月で卒業だ。
「そうなんだ~。何で、キャバで働こうと思ったの~?」
「社会勉強をしたくて」と思っていたことをそのまま口に出すと
「そんな子はじめてだ」と面白がってくれた。それから「アユちゃん、社会勉強だって!」と店長さんは、勢いよく振り返った。奥のソファーでくつろぎながらケータイをいじっているお姉さんは「マジで~ウケる!真面目な子だね」
と髪をかき上げる。アユさんはピンクと黒を組み合わせた服が似合うお姉さん。ヒールを脱いで、長い足をソファーに乗せていた。スカートがめくれて黒いガーターベルトが見えちゃってる。私はドキドキしてしまう。
「明日から出勤できる?」
どうやら面接は受かった。
「はい、よろしくお願いします」
「源氏名はどうしよっか?」
 源氏名。夜だけの名前。
「考えていなかったのでお任せします」
 ボーイくんの命名で『ハルカ』になった私は、お店のシステム、セット料金、延長料金、飲み物と食べ物のメニュー、本指名、場内指名、ヘルプ、同伴、アフターについて店長さんから説明を聞く。夜の世界の人って話してみるまで怖いと思っていたけど、綺麗なお姉さんも、オールバックの店長さんも眉毛の細いボーイくんも怖くなかった。

 駅前通りを知ってる子が歩いていた。予備校の帰りらしい。クラスメイトだけどあまり話したことがない子だし、何を話していいかわからないから声をかけなかった。受験勉強か。私は一足先に社会に出て勉強するわ!同級生よりちょっとだけ大人の世界へ飛び出そうとしてういる自分が頼もしい。ワンピの裾をたくし上げ、駅の階段を一段飛ばしで駆け上がる。
ほんとのこと言うと、塾や予備校に通える子、お母さんに栄養バランスの整ったお弁当を作ってもらえる子、語学留学する子、夏休みに親と海外旅行に行く子、高価な洋服を買ってもらえる子が羨ましかった。
 母子家庭だからと遠慮して、私はケータイだってねだってない。うちにお金がないと知ったのは、中学一年生の時に「テニス部に入りたい!」と母に伝えたとき。入部案内のプリントを見た母に「ラケットやユニホームを買うお金がない」そう言われたときだった。
 中学校でみんながケータイを持ち始めたとき「ケータイ持ったって、中学生にそんなに急な連絡って必要?」って思った。みんなメールで告った告られた。そんな話をしていた。それまでの友達との手紙のやり取りや秘密の交換日記の時代は終わって、私は一人置いてかれてしまった。
私は物分かりのいい子。長女だから我慢しなきゃ。
ほんとうは、ただのかっこつけ。甘えられないだけだった。そのため少しひねくれた。
お金がなくて一番困るのは、行きたいところに行けないことだった。高校のクラスメイトがお年玉やバイト代を四十万も貯めていた。そのお金でピースボートに乗るという。その子がとっても羨ましかった。私のバイト代はいっこうに貯まらない。自分や妹たちの食費や生活費に消えていく。バイトで残った食材を頂いて、弁当に詰めて高校へ通う。

 私には見たいものがたくさんあるのだ。夜の仕事でお金を貯めよう。 
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「ハルカちゃんおはよう。ハンカチとか持ってきたね。オッケー」
店長さんは更衣室のロッカーの横の、ドレスを指差した。
「今日はここにあるものを着ればいいよ」
 どれも肩紐が細すぎる。
「ブラの紐が見えてしまうんですけど」
「今時そんなことを気にするんだ!」
と驚かれた。見えるのが恥ずかしいというか、私はブラを二枚しかもっていない。それも綿の生地。
胸の小さい私にはブラジャーにコンプレックスがある。母にブラを買って欲しいとどうしても言えなかったのだ。中三になってもブラをしていない私に、心配した友達が「おっぱい垂れちゃうよ」とスポブラのお下がりをくれた。垂れるほど膨らんでないのだけど、ありがたく装着した。高校生になってからは自分で買って、手洗いして干していた。母に見られて「安っぽい」と馬鹿にされたことがある。そのエピソードが恥ずかしいのだ。
 
更衣室にあった黒のドレスを選んだけれど、スースーして落ち着かない。伸ばした髪で胸元を隠す。
「おはようございます」
サングラスからブーツまで全身黒い服のお姉さんが出勤してきた。
「愛ちゃん、今日から働くハルカちゃん。時間あったらお化粧とか教えてあげてくれるかな」
 店長さんが声をかけたお姉さんが、サングラスを外して私の顔を見る。
「了解~」
 私はチラチラと愛さんの顔だちを見る。高い鼻と厚い唇。まったく夜が似合う不健康な美しさがあった。愛さんみたいにセクシーで美人だったら、女ってことに自信満々だったら、どんな人生なのだろう。

 愛さんは私の髪を巻いてくれて、メイクをしてくれた。そして、キャバ嬢の心得を教えてくれた。
「大事なのは、お客さんの求めているニーズを把握すること。まずは、相手にテンションを合わせること。楽しく飲みたい人なのか、ゆっくりお話ししたい人なのか、キャバ嬢を口説きたい人なのか。相手によって自分のキャラクターを変えればいい」
「そんなに器用なことができるようになりますか?」
「ここでのプロフィールを考えておくといいよ。プライベートのことをいろいろ聞いてくる人も多いから。その場の思い付きだと後でボロがでるよ」
「はい、考えます」『ハルカ』の設定が必要なのだ。
「会話は、キャッチボールっていうでしょ。話を聞いたらかならずリアクションする。興味を持っていますよ、話を聞きたいですよって。指名をもらって、お客さんにアゲハのリピーターになってもらうのがキャバ嬢の仕事。指名してくれたお客さんを大事にしてね。私はお客さんのプロフィールをこうやってノートにまとめてる」
夜の女性にしか見えないけれど、学校では心理学を勉強しているという愛さん。こってりとしたネイルの指で、愛さんのノートをめくって見せてくれる。
「名前と、生年月日。趣味と、どんな話が好きか、家族、仕事、好きな食べ物、嫌いな食べ物とかね、会話の中で情報を集めて書き込んでる」
「ハルカも名刺を作りな~一枚あげる」と渡してくれた名刺、半透明のプラスチック素材からデザイン「椿 愛」の書体まで愛さんの完璧さが表れていた。
愛さんにお世話を焼かれて、私はとても嬉しかった。 

夜八時。開店前の丸いテーブルには焼酎とグラスと灰皿がセットされた。朝礼で自己紹介。 店内が少し暗くなりBGMが流れ出した。オープンの時間だ。
キャストは入口近くで並ぶ。
「いらっしょいませ」
お客さんが入ってきた。しばらくして
「愛さん一番テーブルです」とボーイくんに呼ばれてピンヒールを履きこなした愛さんが立ち上がる。私は愛さんのお客さんってどんな人だろうと、薄暗くなった店内をちらりと覗く。スーツを着た穏やかそうな男性だ。

 愛さんの席にヘルプで呼ばれた。失礼のないように緊張しながら愛さんの隣に座る。フルーツとお菓子の盛り合わせが置いてある。
「仲村さん。ハルカちゃんは今日が初めてなの」
「ハルカです。よろしくお願いします」
「よろしくね」
「今日は愛さんに、髪の毛を巻いてもらったりメイクしてもらったんです」
「愛、こう見えて面倒見いいんだよ~」
愛さんは自分のことを可愛らしく名前で言う。
「そうだったっけ」
仲村さんがからかう。
「そうだよ~」
愛さんの細い肩が、少しだけ彼に寄る。
愛さんは会話をしながら、グラスの水滴を拭いて灰皿を交換する。その所作が美しい。
「何か飲む?ハルカちゃんも一緒に頼んで」
「ありがとうございます」
あたしは嬉しいというより、申し訳ない顔をした。
愛さんがボーイくんを呼ぶサインを出す。
「愛スペシャル二つ」
そのサインの仕方がまたカッコいい。

 アゲハの厨房にはママと呼ばれるおばちゃんがいる。お酒やおつまみ、お菓子やフルーツを盛り付ける、ちょっとした厨房のシンクと冷蔵庫に挟まるようにママが小さくなって丸椅子に腰掛けている。
「はじめまして、ハルカです。宜しくお願いします」
「あら、新人さん。ミキから聞いてるよ。何かあったら相談しなね。私も昔、ホステスだったのよ」
 ママはその昔、銀座のクラブのナンバーワンだった。
「でも、さんざんいじめられたわね。アゲハは大丈夫、みんな優しいから」
「いろいろなことを教えてもらっています」
「ハルカちゃん、高校はちゃんと卒業するのよ。ミキは保育士の学校辞めちゃったんだけどね。アゲハで頑張るって言って。それなら、本気で頑張りなって応援してるんだよ」
 ママの娘のミキさんは愛さんとナンバーワンを競っている。ミキさんの妹も在籍している。姉妹は連携プレーを発揮することもある。
ママと娘たちの関係は何もかもオープンに見えた。夜の仕事のことはもちろん、恋愛のこと、性のこと、ママは娘たちを応援している。
恋愛の話、性の話を、あたしは母としたことがない。そういう話はタブーだった。思春期に変化していく私を認めないようなところが母にはある。
 恋愛も、セックスも未経験な私は男性の心理やかわし方、駆け引きがわからない。そこを見抜いたお客さんに、言い寄られる。
セクハラをしようとするなお客さんのことをママに相談した。娘たちのこともお客さんのことも、ママは人間というものをよく理解しているのだと思う。だから、ナンバーワンにもなれたんだろうな。
私は友達の親を観察するのが好きだった。大人と話すのも好きだし、友達がどういう親に育ててもらって、今の姿があるのか知るのが好きなのだ。
私が高校生だってことはお見通しで、ママはなんだか魔女みたい。

「フリーのお客様、五名。ミキさん、愛さん、ナツキさん、アミさん、ハルカさん、付きます。お願いします」
ボーイさんに呼ばれ立ち上がる。
「あのリーマンたち金曜日に来るよね。営業しても指名してくんないんだよな」
ミキさんが口をとんがらせて言う。
「会社が近くらしいよ」
愛さんがゆっくり立ち上がった。
「あのデブおやじ、触ってくるから嫌なんだよね。誰が付くの?」
ミキさんがボーイくんをつつく。
「ミキさんお願いします」
「え、ヤダ。私、あの若い人がいい」
「ミキさん、お願いします」
「最悪~」
と言いながら、席に着いたミキさんは笑顔だ。さっきまでのミキさんを知っている私は感心した。
ミキさんの付いた丸いおなかのおじさんが、ミキさんの肩や腰に手をまわす。「ミキちゃんかわいいー」といってハグする。ミキさんは、優しく叱ってセクハラをかわす。私だったら太刀打ちできない。私が付いたのは、五人の中で一番地味な人。ボーイさんもキャラに合わせて人選してくれる。
「はじめまして、ハルカです。よろしくお願いします」
「こんばんわ」
 自分のグラスをお客さんより低くしてカンパイ。

 ある日の雨の日、お客さんが少なかった。三番テーブルにナツキさんのお客さん、六番テーブルにアユさんとカオリさんのお客さんのグループ、フリーのお客さんが数名。
「ねぇ、あの客もうついた?一番テーブルの。あの人、話し方が変じゃない?」
 愛さんは怪訝な顔で待機テーブルへ戻ってきた。
「あーそうそう、変だった」
ミキさんが答える。次は私の番だった。ボーイの後について席へ向かう。
 愛さんが変だと言った佐々木さんは、話出したらマシンガンのように次から次に言葉が出てきて止まらないという人だった。そして、吃音があった。私としては、のべつ幕なしに話しをてくれるから楽だった。私はふんふんと頷いて、リアクションを返す間もない。早口の彼の話で自然に笑っていた。
次の日もまた雨だった。待機席で友達になった大学生のアミとおしゃべりをしていると、ボーイ君がニコニコして近付いてきた。 
「ハルカさんご指名です」
「え、私ですか?」
 私はボーイ君を見上げた。
「昨日、フリーで来たお客さんです」
「ハルカおめでとう!」
 隣に座っていたアミが笑った。
 誰だろう?私は、心当たりがないまま席へ向かった。 ソファーに座っていたのは佐々木さんだった。
「こんばんは、びっくりしました。また来てくれたんですね」
 初めての指名は照れくさくもあったが嬉しい。私は素直に喜んだ。
きっと、愛さんみたいな綺麗なお姉さんやミキさんみたいな派手なお姉さんより、私みたいなの方が話しやすいんだろうな。と思った。
私は、手帳に「佐々木さん・マシンガントーク・三五歳くらい」と書いた。

 店長さんにケータイがないと営業ができないからと言われて、お給料で携帯電話を買い、はじめてメールが来たのは佐々木さん。
ケータイが光った。
「今何してるの?」
ポチポチ、変換、ケータイの画面に文字を打った。
「夕飯を作ってるよ」
メールがパタパタ飛んでいく。すぐに返信がポストに届く。
「夕飯何にした?」
「回鍋肉」
味噌をみりんで溶いて、ショウガとニンニクをすりおろした調味料にお肉をつけてある。
「俺にも作って」
「もっと上手になったらね」
「了解」
「今日は仕事だったの?」
 先に中華スープを作ろうと、ケータイを置いた。お椀で四杯分の水をはかり鍋を火にかける。家にある野菜、人参、白菜、葱を千切り。回鍋肉のキャベツと人参と玉ねぎも切っておく。
「雨だからまな板作ってた」
湯が沸いたので白だしを入れて、千切りの野菜を入れる。
「まな板を作る仕事なんだね。私は料理好きだから一枚欲しい!」
「大中小どれがいい?」
 中華鍋に油を敷いて強火で人参と玉ねぎを炒める。火が通ったら一度、お皿にあける。キャベツだけを炒めて、またお皿にあける。油を足して、つけておいた豚肉を焦げ付かないように炒め、ピーマンを加えさっと火を通す。お皿の野菜を中華鍋に戻して鍋を振る。
 中学の部活帰りのジャージ姿のままで、妹がスープとご飯をよそってくれた。スープにはごま油を垂らす。小学生の弟はアニメを見ている。
「一番大きいのがいい。今のまな板小さくて、野菜切るとすぐ転がり出るから」 
さっきも葱を輪切りにしたら転がり出た。
「次に会うとき持って行く。ハルカは同伴できるの?」
 母が夜勤だから、妹と祖母と四人でご飯を食べる。回鍋肉はお肉が柔らかくなっていて好評。食べ終えて妹も私もケータイをいじる。
「同伴いいよ!」
「じゃ、次の出勤の時に同伴しよう」
「いいよ。楽しみにしてるね」

 夕方、駅構内の待ち合わせ場所に彼の姿があった。
「こんにちは」
明るいところで会うのは変な感じだ。
「散歩しよう」
 そう言って佐々木さんは駅を出てスタスタと歩き出した。
 商店街を抜け、大通りに出てしまった。どこへ行くのだろうかと思ったら、駅から少し離れた住宅街へ着いた。
「ここに何があるの?」
薄いピンク色の家の前で立ち止まる。
「ここ、俺が作ったんだよ」
佐々木さんは誇らしげだった。自分が手がけた家を見せてくれたのだ。佐々木さんは、まな板屋さんではなく大工さんだった。

 休日はカラオケのバイトと言って夕方家を出る。豚汁と、ポテトサラダを作っておいた。妹たちにはちゃんとご飯を食べてもらいたい。
母は、今日もイライラしていた。「疲れた、疲れた」とため息をついている。そして私に八つ当たりをする。夜勤の後は特にそうだ。私はその八つ当たりがとても辛かった。離婚してから三人の子供を育てるため、職業訓練校でヘルパーの資格を取り、近くの特別養護老人ホームで働いている。
私が夜中にキャバクラで働いていることに気付かない。私が本当は何をやっているか、何を考えているか、何に悩んでいるのか、関心を向ける余裕が母にはない。母のイライラを受け止めなくてはいけない私は、自分のことを母に話すとことを諦めてしまった。
母の働く特別養護老人ホームの仕事は一体どれほど大変なのだろう。私は、母の仕事を知りたいと思い、施設にボランティアで行った。

 母の働く老人ホームは四階建ての大きな施設。利用者さんは百人以上。一階に事務所や浴室、大きなホールがある。二階と三階が介護度一から三の部屋で、四階がそれ以上と認知症の重い人の部屋。仕事の前に母が案内してくれた。
 デイサービスでのボランティアとして入った。デイサービスは、利用者さんが外から通ってくる。朝、送迎車でやって来たおじいちゃんおばあちゃん。お風呂に入りたい人は体温を測って早々に浴室へ向かい、足腰が元気なおばあちゃん達はおしゃべりしながら体操をしている。私は体温計を回収してお茶を出す。
 職員さんが大きな模造紙を持って来た。鉛筆で絵が下書きしてある。
「今日は何を作ろうかね」と、おばあちゃんたちが集まって色紙を広げる。「手を動かしてるとボケないど」「細かいことすると頭の体操になるべ」色紙をちぎってのりで貼る。小さくて可愛いおばあちゃんと「何色がいいかな」とお話ししながら私も色紙を選ぶ。「昔はこんなにきれいな色の紙はなかったな、千代紙を集めて大事にしとって使えなんだ」おばあちゃんの子どもの頃の話しを聞きながら、お昼までにお月見の絵が半分できた。
午後は、将棋をやる人、編み物をする人、歌を唄う人がいて、私は料理をしたい人たちと、おやつの蒸しパンを作った。

 それからも何度か、母の職場の老人ホームへ足を運ぶ。
母の働く四階は、話で聞いていたとおり寝たきりの人が多い。入所するとレクリエーションが少なくなる。デイサービスのような楽しみも少なく、ただ時を過ごしているという感じがした。
フロアを車いすでぐるぐる回っている人。テレビの前に置かれているだけの人。座れない人は一日ベッドで過ごす。昼夜が逆転してしまい、夜になると動き出す人がいるという。「家に帰る」と言って、施設から出ようとする利用者さんを夜勤で見守る。
 デイサービスのように一緒に作業をすることがなく、私は会話の糸口を見つけられずにいた。食事のとき使うおしぼりをたたんでいたら、じっと見てくるおばあさんがいたので、「一緒に畳みますか?」と声をかけてみると「なんで私がそんなことしなきゃいけないの!」と怒られたので悲しくなった。
母は決まった時間になると利用者さんのオムツを交換し、朝昼晩の食事を介助し、入れ歯を洗浄し、入浴のためにベッドから車椅子に乗せる。職員はみな忙しく、余裕はない。利用者さんがどんな個性のある人かは重要ではなく、全てが一律の対応になってしまう。
 あるヘルパーさんが食器をガチャガチャさせて、「早く食べろよ」とイライラ音を立てはじめた。母曰く、「あの人は昔の考えの人」利用者さんに対し面倒見てやっているんだよ、という態度のその人は、次から次に口へ入れて、お椀をスプーンで鳴らし早く食べてとせかす。利用者さんへの言葉遣いも、聞いていると文句を言ってやりたくなる。母も彼女とケンカをしたという。母の大変さ、少しはわかった。

 アゲハで働いていると、いろんな人と話せる。話す機会のない種類の人たちと。お客さんは勿論、女の子たちもそう。
フリーターのマキさん、ギャルのラムちゃん、ネイルの専門学校に行っているユウコさん、最近出産したというカオリさん、元ヤンの雰囲気が残っているナオミさん、谷間が見えるフェロモンむんむんのナツキさん。
待機しているとき店の女の子達の話を聞くことが、アゲハで働く楽しみの一つ。
大学生のアミはいつも明るく、笑うと整った白い歯がきれいに見える。豊かな髪で、ふさふさの睫毛も自前の彼女。私には無いものをいろいろと持っている。
「アミはさ、明るいし、派手だし、すごく輝いてるよね」
私はアミの隣に座る。
「どうしたの?ありがとう」
今日のアミは赤いロングドレスを着こなす。
「私なんか、何もないかキャバで働いてると申し訳なく思ってくるんだよね。愛嬌ないし、ホントに面白いことじゃないと笑えないし、お客さんの自慢話にすごーいって言えないし」
「飲みの席が好きじゃなさそうだよね」
「うん、一人で静かに映画見たり本読んでいるほうが好きだから」
「そんな感じだよね。場を一緒に楽しめないと、そういうのって伝わるから、お客さんも楽しくないよね」
「よね」
「でも、キャバ嬢っぽくない所がいいんじゃない?」
「そうなの?」
「そうだよ。ワイワイできないところが清楚に見えるから。そういう落ち着いた子が好きな人もいるでしょ。指名取れてるし、そのままでいいじゃない」
確かに、こんな私でも何人か指名してくれるお客さんはいる。アミはネガティブな事をポジティブに変換する力があるな。

 キャバ嬢としてのプライドとプロ意識があるから、店の雰囲気が良くなるように、どの席に誰が付くのがいいのか、ボーイくんと話し合っている。前のお店では、お酒を飲みすぎて入院したという。とても頑張り屋。
この前、アミのお客さんのいるグループのテーブルに一緒についた。トイレから戻ってきたサラリーマンのおじさんが「椅子に座っても、いいっすか?」と、後ろをついてきたアミに言った。アミは大声で笑う。偉いな、本当にすごいな。アミはテーブルを盛り上げて、みんなをいい気持にさせる。おねだりして六番テーブルは延長をもらい、一緒にいた私は場内指名をもらった。
私は彼女の表情を観察して、相槌を聞いていた。目を大きく開けたり、眉を下げたりしながら「あはは、ふふふ、すご~い、面白い、ふふん」と言って、豊かな声色で答えている。コミュニケーション能力が高い人とはアミのこと。
お客さんのお帰りのときには店の外のエレベーターまで見送りにでる。アミは「今度はいつ会える?」とおじさんに耳打ち。とっても可愛い。そんなふうに言われたら、また会いに来るしかない。
ベタなこと言えばいいって解ってはいるけれど、私には言えない。喜ばせることが仕事でも、思っていないセリフのような言葉は喉からつかえて出てこない。コミュニケーション能力が低すぎる。

「同伴でお客さんとご飯食べても美味しくないんだけど、アミはどう?」
「あ、わかる」
 アミは、定食屋のメニューを見ながら口を尖らせた。時々、出勤前に待ち合わせて二人で夕飯を食べている。
「この前、お客さんにしゃぶしゃぶに連れて行ってもらったんだけど、美味しく感じないんだよね。こうやってアミと定食食べている方が美味しいよ」
「だよね。好きでもない相手だし、気を使うからかじゃない?」
アミは卵焼きを半分に分けて、私のお皿に乗っけてくれる。私はお返しに鮭の切り身を皿に乗せた。
「口説いてくるお客さんはどうしてる?」
「やりたい人ね」
「そうそう、私のこと騙せると思ってる」
「そういう雰囲気にしない事だね。私は自分の将来の夢を話して、相談して、応援してもらってるから、相手も下心出しにくいと思うよ」
アミは大学を卒業したら、小学校の先生になりたいのだ。一生懸命さと元気が取り柄のようなアミなら絶対いい先生になる。
「あなたは頼れる大人ですよね、夢に向かって頑張ってる私を応援してねって伝えてる。口説いてきたら、冗談でかわすよ。笑いに変えればなんとかなる!」
「ほんとすごいね、アミは」
「どうやって客をゲットするか、問題をクリアするか、ゲームみたいで面白いよ」
「そっか~、私はそのゲームを楽しめないんだね。佐々木さんに口説かれるんだけど、痛々しくなってきちゃって。元カノはナンバーワンのキャバ嬢だって自慢するしね」
「そんなの色恋営業じゃん」
「やっぱり気が付かないのかな?」
「うん」
「そうだよね、私、痛い人を見るの辛いな~」
食後のほうじ茶を飲んで、七時半になったので定食屋を出てアゲハに向かった。
 お店でのバレンタインデーのイベントの日。更衣室で、ミキさんが二台のケータイを使って営業電話をしていた。いつにも増してミキさんの目が輝いている。イベントごとはお客さんを呼びやすい。
「おはようございます」
「あ、ハルカちゃん。ラッピングって出来る?」
「チョコレートですか?」
「そうそう。ちょっと手伝ってくれる?」
 ミキさんはデパ地下で買ってきたチョコレートを次々と詰め替え、私は箱を包装紙で包んだ。その間にも片手で営業電話をする。
「タナちゃんのためにチョコ作ってきたんだから来てよね」
ミキさんの手際の良さ。
「約束だよ、来なかったらっせっかく作ったチョコが台無しだからね」
強気な口調。時にお客さんを叱る。そこがミキさんの魅力。
「ハルカちゃん、ありがとう助かったわ。これお礼にあげるね」
余ったチョコをもらったので、頂きますと頬張った。
 ミキさんを見ていると、自分のひらめきを駆使して、思ったとおりにお客さんを呼ぶことを楽しんでいる。そのひらめきはセンスだと思う。センスがなければこの仕事は楽しくない。料理と一緒だろう。ミキさんはどうやったらお客を呼べるか、言葉をぱっとひらめき口から出せる。
  
私はミキさんのように何にもひらめかない。アミのように客さんに元気を与えられない。愛さんのようにお客さんを上手に育てられない。私はアユさんのような女性的な魅力もない。とうとう申し訳なくなって辞めた。

ここでは夜の世界の女性を観察出来たことが何より面白かった。