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一人旅

 サラの行動力を吸収した私は、イラク戦争の反対運動に一生懸命になり、授業をサボっては国会議事堂前やアメリカ大使館へ通う日々を過ごしていた。
その時に出会った大人たちの一人、70年代にヒッピーだったハルさん。ゴールデンウィークの連休は、ハルさんを頼って鹿児島へ行くことにした。そこから屋久島へ行こう。
 いつか映画で見た屋久島。屋久杉は千年も生きている樹を見たいな。 
 仕事帰りにさっそく登山道具を買いに行き、アウトドアショップで、リュックと、カッパと、トレッキングシューズなどを張り切って揃えた。社会人になった私の楽しみは一人旅だから。 

憲法記念日、飛行機で飛んで鹿児島駅で待ち合わせ。車で迎えに来てくれたハルさん。素敵な服を着ていた。古い着物を使って、洋服を創作する仕事をしている。
若いころフーテンであちこち旅をしていたと話していた。だから、あたしのひとり旅も応援してくれる。

 ハルさんの家は、コンクリート作りの二階建て。テラスがある大きな窓から外へ出るとすぐに海の砂浜だった。
あたしは反射的に、裸足になって「ヒャッホー」という気分で海に向かった。きれいな海があったら入らずにはいられない。桜島まで泳いでいけるのかな。
「ハルさん、いい所ですね」
「そうでしょ。景色がいいから、この家が気に入ったの。夕飯は、海の幸があるから、海で遊んだら上がっておいで」

ハルさんのパートナーのトクさんが帰ってきた。真っ黒に日焼けしたトクさんは「七つの海を航海した漁師」と言うカッコイイ自己紹介。
囲炉を囲んで、カツオと刺身と芋焼酎のおもてなし。
「漁師さんて命がけの仕事ですよね」
「一五から船に乗ってんの。勉強嫌いだから、親父に船に乗るんだって言ってさ、それから気がついたらこの歳よ。ほら、あれが今まで航海した海」
トクさんが指差す方を見上げると、大きな世界地図が張ってあった。立ち上がって近寄ると赤いマジックの点がたくさんの印がついていた。
「船でどこへでもいけるんですね」
「そうだ、海は繋がってるんだ」
 私はしばらく地図を見ていた。
 
「鶏の刺身持ってきたぞ~」 
途中から宴会に加わったのは近所のおじさん。私は初めて見る桜色の鶏の刺身をつまむ。
「明日はどこ行くんだ?」
トクさんが私に聞いた。
「屋久島に行きたいんです」
「あれ、GWに屋久島に行くもんじゃないよ、観光客ばっかりだよ」
 近所のおじさんが言う。
「僕、屋久島に住んでいたことがあるからよく知っているんだけど、人間を見に行くことになるよ」
「そんなに混むんですか」
「そりゃそうだよ、人間渋滞」
「人間渋滞なんて、嫌だな」私はがっかり。

「そうだ、森の星祭りに行っておいで!」とハルさんが言った。
「お祭りがあるんですか?」
「そうそう、毎年やってるの。今年は熊本の牧場でやってるみたい」
「どんなお祭りなんですか?」
「音楽祭だよ。若いときはそういうのに行ったほうがいいよ。経験が大事だからさ!」
ハルさんは、いいことを提案したと言う顔をしている。そんなに薦めてくれるなら、今回は、そのほうがよさそうだ。
「友達のヒロヤって男の子が行ってるから、連絡してみようか」
ハルさんはそういって話を進める。
私は、芋焼酎の酔いがまわって一番先にギブアップ。ハルさんのミシンが置かれた仕事部屋で眠った。

次の日、晴天だった。屋久島も天気がいいのかな?と頭をよぎったけれど、昨日の話しを思い出した。
「おはようございます」
「ヒロヤが、駅まで迎えに行くって」
なぜかハルさんのほうが張り切っているけれど「今回は、そのほうがいいのだ」と突然の予定変更に、私は新鮮な期待をし始めていた。ハルさんのお友達であるヒロヤくんを頼り、開催地の熊本を目指した。

鹿児島から熊本は遠かった。電車を乗り継ぎ、一度乗り過ごしやっと着いた。
待ち合わせをしていたヒロヤ君は、東京から来た十九の私を、珍しそうに見ていた。というか、デニムスカートから覗く私の素足をよく見ていた。
「こんにちは、遅れてすみません。よろしくお願いします」
「ベラさんから連絡あったから 大丈夫だけど、おっちょこちょいなんだね。車はこっち」
 彼の車はプジョーのオープンカーだった。私は後部座席にリュックを置いて助手席に座る。
「とりあえず、出発するね」
スピードを上げると風があたしの髪をなびかせる。汗が乾いて気持ちいい。
車内に流れるフランスギャルのBGMが、女の子を乗せる時はいつもこの曲なのだろうと思わせた。
 
 ヒロヤ君は二十三で、障がい福祉の仕事をしている。
「障がいのある人たちが通う作業所で、木材を使った製品を制作しているんだよ」
「素敵な仕事ですね。どんな製品を作っているんですか」
「お皿とか小物入れとか」
「私もボランティアで支援学校の子供たちと関わってきましたよー。」
 そんな話をしながら進み、車は右も左も樹に囲まれた陽の届かない山道に入った。
「もうすぐ着くよ。なんかさ、ドラックとか流行っているけどやったことある?」
 ヒロヤくんは唐突に聞いてきた。
「職場の人間関係が上手くいってなくて精神安定剤なら飲んでます」
「それなら、嫌なこと忘れて楽しみたいね。ボンって聞いたことある?」
「知らない」
「こっちではマリファナのことボンって言うんだ」
つまりヒロヤ君はマリファナがある、と言いたい訳だ。私は一人前になるには、そういう経験しておきたいと思っていたので、よし来た!と嬉しく思った。友達に「私、マリファナ吸ったことあるよ」って顔ができる。そういう年頃。

「良かった暗くなる前について駐車場の入り口が解らなくなっちゃうから」
ヒロヤくんが左にハンドルを切ると、道が開けた。
 山の中の牧場。地面に生えている草以外は何もない広場に車を止める。
開けた空から西日が睫毛に反射して、あたしは目をチカチカさせながらヒロヤ君について行くと、色とりどりのテントが並んでいた。大人たちは、椅子に座ってビール片手にのんびり過ごし、子供たちは裸足で草の上を駆け回り、パンツで相撲をして負けた子が転んで泣いていた。キャンピングカーからにんにくを炒める匂いをさせてパスタを食べている人たち、集まってヨガをやっている人たち、インディアンのテントにいるインディアンみたいな人達の間を通り過ぎ、彼の弟と仲間の居る場所に着いた。
「はじめまして。東京から来たとんぼです。鹿児島に来たのに屋久島行くのをやめて、こっちに着ちゃいました」
リュックを下ろしながら挨拶。
「おー絶対こっちの方が楽しいよ、とんぼちゃんよろしくね」
そう言って五人の男の子たちに迎えられた。ヒロヤ君の弟以外みんな少し年上の男の子だった。あたしはもう、男性と話すのにギクシャクしない。キャバクラで修行してきた甲斐があった。しっかり免疫が付いている。
「九州の旅どう?」
「温泉がたくさんあっていいですね。電車を乗り継げなくて温泉に入ってきました」
「温泉好きなん?」
パーマをかけた男の子がお茶とクッキーをくれた。
「クッキー食べる?」
「それ、変なの入ってるクッキーやろ?」
 タンクトップの男の子が聞く。
「きのこ入り」
 きのこって何だろう?と思いながら私は受け取った。
「俺、ハマーよろしく」
「どうしてハマーなの?」
「日本人なのに変でしょ?」
「ハマーっぽいよ」
「そうか?」
「浜本だから」
「言わんでええ」
 ツーブロックで、上を結んでちょんまげにしてる人がハマー。
みんなも自己紹介。セイジくんと、ナオヒロくんと、ヒロヤくんの弟のトモキ。一度じゃ覚えられないけど。
「こっちで何か美味しいもん食べた?そろそろメシにしよう」
縦にも横にも大きいセイジくんがそういって、靴を履いて準備を始めた。
「バーべQするからさ。地鶏が美味いよ」
 短髪で眼鏡のナオヒロくんがクーラーボックスを指さす。
「おれ、肉屋で働いてるの。今日、昼間に食べようとしたらカッチカチだったんだ。もう食べごろやろ」
バーベQセットの中に炭を並べて、火はハマーがおこした。あたしは米袋に入った泥つきの葱の皮をむいた。
「野菜は葱だけ?」
あたしはナオヒロ君に聞いた。
「そう、バーベQだもん」
炭火でじっくり焼いた地鶏は塩コショウだけでおいしかった。葱は丸焼きにしてそのままかじった。

後片付けをしていたら音楽が聞こえてきた。
「あ、ジックタスクマンが始まるよ、ステージ行こうぜ」
ハマーが、「一番楽しみにしてた!ヨッシャー!」と言って駆け出した。
「今日は2日目の夜だから、一番盛り上がるよ」
皆も追っかけてステージ前まで走った。
大きなろうそくが揺らめくステージの前で、人々は、思い思いのダンスに興じる。横に揺れる人、手を左右に揺らす人、足だけでリズムをとる人、フラフープを回しながら踊る人。自由に音に乗る。
 あたしも音楽に合わせて体を揺らす。大きなスピーカーから音楽が体に入ってくる。みんなが音楽に酔っている。

 ステージはまだまだ続く。次のバンドの入れ替わりの間、DJが音楽を流す。みんなとばらばらになったので、一度テントに戻ることにした。牧場の夜は真っ暗た。目が慣れてどうにかテントにたどり着いた。
「キノコが入ったクッキー食べちゃったよ」
ハマーの犬が、クッキーを食べちゃったと慌てていた。戻っていたみんなはおなかを抱えて笑ってた。
「どっかに走っていちゃった」
ハマーは不安な顔をしている。
「そのうち帰ってくるんじゃん」
セイジ君が豪快に笑う。
「そういえばなんのキノコだったのー?」って聞いたけど、誰も答えてくれず、とにかくみんな笑っていた。

 トモキがギターを弾いて、ビートルズを歌った。英語の発音がいい。ハマーがコーラスを入れた。あたしは誰かが持ってきたジャンベを叩いた。角度が悪いと音がかすれるけど、ただリズムを合わせるのが楽しかった。草の匂いと、たき火の匂いが体に染みついていく。若者って感じの楽しい夜だ。

しばらくして、ヒロヤくんは私を自分の車へと誘った。
牧場に無造作に止められた車の間を通ってプジョーへ向かう。風が少し吹きはじめた。
アルミケースからタバコを取り出し、私に手渡す。私はクルクルと回してみた。
「自分で巻いたんだよ」
「タバコを?」
「ボン」
そう言って火をつけた。
「吸ってみ」
彼がふかしたマリファナを受け取って一回吸う。
「深く吸って」
「タバコを吸わないから、吸い方がよくわからない」
ヒロヤ君は受け取って
「こんな感じ」
私は真似をする。小さくなるまで交互に吸った。
私の体はとろとろとして、すぐに楽しくなってきた。何が楽しいのかわからない楽しさ。私は気が大きくなって、ダッシュボードに靴のまま足を乗せた。細かいことはどうでもいい感じ。気分はふわふわと安らいでいた。
運転席にいるヒロヤくんは「セックスしよう」と言っている。
私はただただ愉快で可笑しくて、この感覚を味わっていたかったから「処女だから駄目~」と断った。
彼はじっと私を見てくる。キスをされそうになった。
「喉乾いた」私はそう言って車から降りた。
出店でチャイを買ってもらって、キャンプファイヤーの近くの丸太に座って飲んだ。橙色の火の粉が夜空へ舞い上がっていく。
カルダモンが良く香る、甘さ控えめのチャイだった。大きな火の側はあっつい。ほっぺがどんどん赤くなるのを感じた。
「景色がきれいに見えるでしょ」
「うん、焚火の火の粉がすごくキラキラしてる」
遠くに見えるファイヤーダンスの炎がとてつもなく美しかった。燃えながら踊る人を照らし、暗闇の中に炎の尾を引いている。
五感が鋭くなっているのだろう。
「気持ちいい?」
「うん。ネコがマタタビでグデグデになっている気分」
「面白いたとえだね。セックスしたらもっと気持ちいいよ。したくならない?」
「ならない」
私は強気だった。
「フリーセックスって知ってる?」
「知らない」
「楽しいよ」
「ふーん」
ステージの音楽を聴いていた。幻想的な民族音楽だった。何かがビヨーンビヨーンとなっている。あれはなんていう楽器だったかな。

「私、もう寝る」
先にテントに戻ろうとしたけれどヒロヤ君は着いてくる。あーめんどくさい。
彼はまだあきらめていない。私はハルさんの友達だから、襲われることはなかったけど、私の潜った寝袋のファスナーをあけて勝手に私の体を触ってきた。
「胸小さいね」
ヒロヤくんの声は、それだけが鮮明に聞こえた。そうですよ、すみませんね。私は何も答えずに勝手に触らせといた。 
 
 次の日、テントで目覚めると私の感覚はおかしくなっていた。気分は最悪だ。
「あーやばい」自分の心と体の不和が解った。酷く解離している。昨日あんなに鮮明だった感覚が、すべて鈍くなり自分の体を自分だと感じられなかった。
時計を見るともう十時だった。昨日は何時に寝たんだろう。
みんなまだ寝ている。マリファナってアルコールみたいに水をたくさん飲めば抜けるのかな?私は感覚を取り戻したくて散歩をしてみた。
夜は暗くて気がつかなかったけれど、舞台には大きな鯉幟が泳いでいた。今日は風が強いな。様々なテントの下で、手作りのものを売っている。お菓子や、野菜や、洋服や雑貨。瓶に入った100%のみかんジュースを買って飲んんだ。味がよくわからない。味覚も変になっている。

 男の子達が起きてきて、サッカーをして遊んでいた。ハマーが、サッカー選手の真似をしてバカをやってる。私も運動をして気を晴らしたい気持ちになったから飛び込んだ。ミニスカートでボールを追っかけてすっころんだ。みんな笑ってくれた。私も男の子たちとバカできてうれしい。セックスなんかしないで、こうやって、ただ遊んでいたかった。

それから、みんなで近くの温泉まで行くことになった。黄色いマーチとプジョーの二台で走る。
何台か前を走るトラックが山道の急カーブでゆっくりになる。丸太を運んでいるから曲がるのが大変なのだ。その隙にハマーがマーチのドアを空けて、こちらのオープンカーへ飛び乗る。ペットボトルの水を飲んで、また次のカーブで戻る。それを三回繰り返した。ハマーは元気でいい顔してる。

女風呂にはあたし一人。みんなの前では頑張ってたけど、一人になると虚ろな気分。
髪を洗っていても、身体を洗っていても、自分が何をやっているのかわからない。熱いふろに入ったら熱さを感じるだろうか?冷たい水を浴びたら戻るだろうか?あたしは体を刺激して感覚を戻そうと、行ったり来たりしてみた。
温泉の気持ちよささえ全然わからなくなってる。焦った。ストレスで解離している時より、もっと酷い。
疲れて、風呂を出た。鏡を見た。あたしはこんな顔だっけ?顔はむくんでブスだった。

みんなは広間で定食やラーメンを食べていた。
「とんぼちゃんも何か食べる?」
「お腹空いてない」
私は力なくそう答えた。ロビーのソファーでボーっとテレビを見ていた。

 牧場にはまた夕方が来てしまった。テントでボーっとしていると
「ぼんやる?」
ヒロヤ君が覗いた。
「いい」
 あたしはぶっきらぼうに答えて、テントの中に閉じこもっていた。今夜は一人で引きこもっていよう。
 しばらくすると、どこからか関西弁の女の子達がやってきた。隣のテントで男の子たちとセックスしている声が聞こえてきた。女の子は二人で、みんなと交代でやっている。みんなこれがしたかったんだ。
「おおきに~」と言って彼女達はテントを出て行った。男の子たちは嬉しそうにセックスの話をしていた。

独りぼっちで閉じこもっているあたしにハマーが声をかけてきてくれた。
「とんぼちゃん大丈夫?」
「ちょっとお腹が痛くて」
強がりな私はそう答えた。
「何か変なモノ食べた?」
「うーんわからない」
「祭りは楽しんだ?」
「うーん、ハマーは何で大麻やるの?」
「まぁ、きっかけはノリだけど、脳の使われてない部分を呼び覚ますためにやってる」
「脳の使われてない部分って、芸術的な閃きとか?」
「いやー、俺には無いね。バカしてるだけ。とんぼちゃんには合わなかった?」
「何でもないのに楽しくて、感覚が鋭くなったんだけど。私には合わないな」
「そっか、人それぞれだから無理しないで。今日の夜帰るの?」
「うん、ヒロヤ君は明日から仕事だし、私も鹿児島へ帰る」
「そっか」

ヒロヤ君と弟と私の三人はみんなに別れを告げて、暗闇の高速に乗って帰った。私は助手席でずっと寝たふりをしていた。

 明け方、鹿児島のヒロヤ君の家に付いた。
「良いもの見せてあげる」
一人暮らしの一軒家を案内してくれる。べニア板の収納をあけた。そこには鉢でひっそり育つ植物があった。
「大麻草の苗だよ」
 植物は青いライトに照らされて不気味だった。そんなに興味ないんだけどな、早く帰りたいな、と思ったけれど「元気に育ってるね」と言った。もっと目を輝かせてほしかっただろうけど、そんな余裕は私にはない。

 ベラさんの家まで二〇分くらいだと言うので歩いていくことにした。公園を過ぎると海だから、海沿いの道をひたすらまっすぐに行けばいいと教わった。
誰もいない朝の公園を通り抜けた。変な朝だ。いつもの朝なのに私の感覚だけが、とても変。しばらくベンチで休んだけれど、まだ感覚は戻ってこない。左手に桜島を見ながら、ずんずん歩いた。

ハルさんの家にたどり着くと「いい経験できた~?」とハルさんがウインクした。
「ライブが良かったですよ。それとサッカーしました」
「なんだ~、健全な遊びだね」
そう言われると、なんか悔しい。
「マリファナもやりました」
私は言った。
「よかったじゃない!」
ハルさんは満足そうだった。ハルさんが最初からそう言うことを経験させたかったんだと知った。

トクさんがスーツに着替えて二階から降りてきた。親戚のお葬式で、何日か留守をするという。
「普段こんなのしないからよぉ」とネクタイをハルさんに渡した。トクさんのネクタイを結ぶハルさんは、急に女の声になる。
「気を付けて、いってらっしゃいね」
その甘えたような声に、私はハッとした。
一人ぼっちなのは自分だけなのだ。独りぼっちだからこその一人旅だった。なのに……。

「朝ごはんに」とハルさん手作りの、酵母の香るパンを食べているうちに、涙が滲んできだ。私は一体、何のために鹿児島まで来たのだろう。ととても惨めな気持ちになった。
張り切って選んだカッパやトレッキングシューズが空しい。
 ほんとうは、そんな気持ちや何もかも、すべてをハルさんに話してしまいたかったけれど、私は人に弱さを見せることが出来なかった。  
景色を見るふりをして窓の方を向いた。膝の上にパンくずと涙をポロポロと落とした。頬の震えを止めるように、パンを噛みしめた。

来たときの道を鹿児島駅まで送ってもらいハルさんにお別れを言った。
私が「ハルさんのパン、とってもおいしいです」と言ったので、天然酵母パンのレシピを持たせてくれた。