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人は意外と/079

今日のコラムは必ず最後まで読んでほしい。

SNSで発信する
noteにコラムを書く
文章を書くスタンスがまるで違う。

SNSは、情報を提供するというスタンス。言い換えると(おこがましいが)、教えるという感じ。

noteに書いているコラムは、「自分はこう思う。あとは皆さん各々解釈してね」というスタンス。言い換えると(これもまた更におこがましいが)、気づきを与えるという感じ。

SNSで発信するとき、「Webライターは今後SEOライティング以外も身につけた方がいいかも? 知らないけどねー、ははは」というスタンスだと、その発信は基本的に伸びない。

「こうだ!」とは言わないまでも、「こうした方がいいと思うよ」くらいは言わないと、SNSにおいては発信の価値は低くなる。
インフルエンサーは極論をかましてくるので、主張が弱いと埋もれてしまうからだ。

一方、コラムは違う。
いろんなコラムニストや批評家が言ってたのだが、コラムは「それを読んだ読者が、何かしらの気づきを得る」必要があるらしい。

(コラムの定義は人それぞれ全然違うため、別の定義もあると思うが、僕はこれがピンと来た)

これはSNSの発信と何が違うのだろうか?

コラムは「押し付けない」「読み物として面白い」ことが求められるのかな? と思った。たぶん。
その場合、「教える」というスタンスだと不自然だ。あくまで「僕はこう思う」という主張を、読者が読みたくなるようなエピソードを交えて書く。そして、あとは読者に委ねる。

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さて、ここまで読んで違和感をもった読者はいるだろうか?

このコラムは2ヶ月前に書かれたものをほぼコピペした。

毎日僕のコラムを読んでくれている人の中でも、気づいた人は少ないと思う。「ん? なんか既視感あるな」くらいかなと。

何が言いたいかというと、自分のコンテンツはたいして読まれていないということ。「現代人が1日に触れる情報量は江戸時代の一年分、平安時代の一生分」とも言われる中で、自分のコンテンツが人々の目に留まり、更にそれを覚えてもらうことは奇跡と言っても過言ではないのだ。

発信活動をする上で、この考えは非常に重要だと思う。

自分のつくったコンテンツが誰かに見られているのが「奇跡」だと思うと、なかなか手は抜けない。サボった分だけ相手に伝わる。
逆に魂を込めたコンテンツなら必ず誰かに評価される。ニッチなジャンルだとしても、少数には必ず響いているはず。

まさにコンテンツ is キング。
魂を込めよう。

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