見出し画像

ディズニーシーのホテルで、泣きながら大学の相談をした夜のこと。

私のnoteを読んでくれた前のバイト先の先輩が、私と1対1で話してみたいと言い出した。東京ディズニーシーにあるホテルミラコスタの喫煙所で、夜中の1時頃から朝の5時まで話し続けたこの対話は、私にとってとても有意義なものとなったのでここに記しておく。

私のnoteを読むまで、先輩は私のことを「あまり何も考えていないバカ」だと思っていたらしい。普段はあまりそういうことは言わない人だが「文章がうまい」「こんなに色々考えていたとは思わなかった」と褒めちぎられた。そんなにバカだと思われているとは知らなかったが、嬉しい。夜中、部屋を抜け出して喫煙所へ行くと誰もいなかったので、私たちは端にあるソファに座って煙草を吸い始めた。

そもそもの発端は、私の、卒業を目指すより納得するまで学びたいという考え方にある。

大学には普通、終業年限というものがある。「在学期間何年以内に卒業してください」というもので、うちの大学ではそれが8年だ。私はすでに3年間在学しているので、残り時間はあと5年である。だが、じっくりやりたいタイプの人間である私にとって、まだ3年半分ある内容を残り5年で終わらせるのはほぼ不可能に近い。

大学に通い続ける意味が分からなくなり、親に辞めたいと話したこともあった。だが、辞めさせてもらなかった。どうするべきか周りの大人に相談すると「なんとかして卒業しなよ」と言われ、自由奔放な友人達に話すと「親を説得して辞めちゃえば」と言われた。どちらの言うこともよく分かるし、自分でも散々考えた。

一方で、卒業しなきゃいけない、単位を取らなきゃいけないという一般的な固定観念もあった。親は辞めさせてくれない、私は勉強ができない、旅にも出られない。私はこの3年間、八方塞がりのなかで、出口が無いともがき続けた。

楽な道を進めばいいと、周りに散々言われてきた。それができたらどんなに楽だろう。だが、自分が楽にできることは、私にとってやりがいのない、つまらないことなのだ。高校の進路選択の時も、好きだった世界史や得意だった生物は選ばず、赤点しか取れていなかったがずっと前からやりたいと思っていた物理を選んだ。高校受験も大学受験も、第一志望に選んだ学校は難しすぎて受からなかった。どういうわけか、私は選択を迫られるたびに難しい方を選ぶらしい。人生ハードモードだ。だけど、好きなことを貫き通して挑戦し続けることは、それほど私にとって魅力的に見えるのである。

好きな自分を認めてあげたら

物理の何が好きなのかと聞かれたので、私は原子論に出会ったときに世界が別物のように見えたこと、量子や素粒子論など、一見ファンタジーのような不可思議なことが現実に起こっているのが面白いのだと話した。話しながら、涙が溢れて止まらなくなってしまった。授業中に大泣きしてしまった話もした。一体どこに、黒板に答えが書けなくて授業中に悔し泣きをする大学生がいるというのだろう。「本当は物理が好きなんじゃない?」と問われ、気がつくと考えるより先に「好きです」と答えていた。そうなのだ、私はきっと、物理が好きなのだ。

そう認めた途端、心がふっと軽くなった。ぼろぼろと涙を零しながら、ああ、この涙は物理がつらくて逃れたい涙ではなく、物理が好きでたまらない涙だったんだと思った。やっと気づいた。やっと気づかされた。「ほんとに好きなんだね」と煙草を吸いながら先輩が笑うたびに、私の心は軽くなっていった。

5年間、好きなことをやれ

以前、大学を卒業できるかどうかを母に相談したとき、母は「いいじゃない。8年かけて卒業できなくても、貴方が8年かけてじっくり得たものは多分他の人よりずっと大きいよ」と言った。私は素直に、母が、卒業を目指すより納得するまでやりたいという私の考えを認めてくれたことが嬉しかった。これを話すと、先輩は「普通の人なら卒業するか辞めろと言うだろうが、それを『好きならやれ』と言ってくれるなんてやばい人だな」と言った。

物理はDVを振るってくる彼氏のようなものだ。こんなに好きなのに、痛い、苦しい。私は傷だらけだ。物理の話をするといつも泣いてしまうので、精神的にももう限界だろう。そんな私を見た上で、先輩も『好きならやり通せ』と言った。私は8年間通った上で卒業できなくてもいいと親に言ってもらっているし、したがって単位を取る必要もない。自分のやりたい勉強を自分のペースでやれる。テストは実力を確かめるためだと思って受ければいい。5年間やり通せる自信はないかもしれないけど、卒業するために頑張れと言われているわけではないのだから、気負わずに好きなようにやればいいんじゃないか、と。私もそう考えたことはあったが、実行には移せていなかった。先輩は、やってみればいいじゃないかと笑って言った。周りの目など気にしていたってしょうがない。普通の人間の意見なんて聞かなくてもいい。自分に嘘をつかずに、心が向かう方へ進めばいいのだ。

部屋に戻る途中、4つ前の記事『普通じゃない私が、普通の人間になりたかったと思うのは本心だろうか』の最後で私は「人間失格の称号」という表現を使ったのだが、これはどういう意味かと聞かれた。人間は社会的な生き物であり、何らかの生産活動によって社会に貢献することで初めて大人の人間になれると私は思っている。だから、何も社会に生産的な行動をしていない私は人間失格なのだと、部屋へ向かうエレベーターのなかで解説をした。そしたら「お前は人間なのか?」と笑って言われた。「普通じゃない人間が普通の考え方してんじゃねえよ」と。

先輩は、私の話がつまらなかったり、本気じゃなかったりしたらさっさと切り上げて部屋に帰るつもりだったらしい。結果的に私には、彼を喫煙所に留まらせ4時間弱も話し続けるだけの面白さがあったようだ。それも嬉しいことだが、本当にありがたいのは、こんな自分の話を真正面から聞いてくれる人がいるということである。こうして自分の気持ちを吐き出して、自分が思っていることときちんと向き合うことができたのはこの人のおかげだ。

今回、一晩中私に付き合って話を聞いてくれた先輩には本当に感謝したい。また、共に宿泊し、2日間のディズニーシーを充分すぎるくらい一緒に満喫してくれた先輩方にもお礼を言いたい。私は友達が少ないので、誘ってくれたり遊んで頂けたりすることは本当にありがたいことだと思っている。彼らもまた、私が大切にしたいと思っている人たちだ。これからも定期的に会って、遊んで、色んなことを話したいと思う。

──*──*──*──

一昨日と昨日、前のバイト先の先輩たちと泊まりがけで遊んでいたときの話です。朝、集合直後に私の大学の話題になり、この前の春学期に単位を5つしか取れていない事を話したら、散々ネタにされて、あだ名が『5単位』になりました。まったくひどいと思いませんか。

楽しい仲間たちがいて、私は幸せです。




読んでくれてありがとうございました!!右下のいいねボタンを押して出てくる言葉は、私の好きな各国のことわざです。 しんどいことも多いですが、気長に、気楽にやりましょう〜。