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普通じゃない私が、普通の人間になりたかったと思うのは本心だろうか

さっき、友人に車で大学から駅まで送ってもらった。私も彼女も留年していて、好きなものも価値観も普通とちょっと違う、「一般的」とは言い難いコンビだ。

車内で、「普通の人間なんてきっとつまらない」という会話になった。普通に進学校を出て、普通に大学を卒業し、普通に大手の企業に就職して、普通に暮らす。きっと私たちには耐えられないほどつまらないねと笑い合った。私たちは良くも悪くも普通にはなれなかった。「君には価値があるよ」と私が言うと、「褒められた」と彼女は笑った。私は「そうしないと、自分を肯定できないから」と笑って返した。

のだが、最後に放った自分の一言がブーメランのように戻ってきて心に引っかかり、友人と別れて駅構内を歩いてホームに向かい、最寄り駅まで電車に乗り、自転車を家まで漕いで、玄関のドアを開けるまでずっと、その言葉を頭の中で反芻していた。

「そうしないと、自分を肯定できないから」。さっきの私は、同じような境遇にある友人のことを肯定することで、自分自身を肯定した。そういうやり方でしか、自分を肯定できないと言った。日頃意識していなかったが、私は私のことを素直に受け入れていないのだと、少しショックだった。

小さい頃から、天然だ、不思議ちゃんだと周囲の子たちに言われて育った私にとって、『普通』は嫌でも意識させられるものだった。自分がどれくらい普通から離れているのか、考えても分からなかった。誰よりもマイペースで、頑固で、自分のやり方を譲らない私のような人間が簡単に社会に馴染める訳などなかった。団体行動が一番苦手で、ひとりでいる時間が一番自分をさらけ出せて好きだった。

私は自己肯定感は悪くない方だ。器用だとか長所があるとは思わないけれど、自分のような人間には会ったことがないので、実は私って凄いのではないかと密かに思っているし(あいたたた)、本音では「社会に馴染むことってそんなに大事なの?」とも思っている。それでも、どこかで『普通でなくてはならない』という固定観念に縛られている自分がいるのだろう。だから、周りに合わせた無難な生き方をしない自分を責めて、先の発言に繋がったのだと思う。

今では、浪人や留年を繰り返すなかで、一般的な人生から少しずつかけ離れ始めているな、ということを自覚した。自分の性格上、会社に入って仕事をすることはおそらくできないことは分かる。それでもどうにかして人間社会で生きていかなければと、焦りは日増しに強くなる。ああ、やっぱり普通に生きていれば、こんなに自分が悩んだり、家族や周りの人に迷惑や心配をかけることもなかったのにと思ってしまう自分がいる。どこかに、確実にいる。

私にはもう23歳で大学を卒業して就職することはできない。周りの人が私に言う「貴方は普通じゃない」が、必ずしも良い意味ではないということも分かっている。このままでは人間失格の称号に向かって突き進むだけだし、すでに30歳までのカウントダウンは始まっている。前だと信じた方向に向かって、祈りながら進むしかないというのは、なんともつらい。

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ここまで読んでくれてありがとうございました。まだまだ拙い文章ですが、久々に自分が書きたかった文が書けたような気がします。普通について考えているとき、新海誠監督の作品『言の葉の庭』で、ユキちゃん先生が言った言葉を思い出しました。

「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんだから」

普通だと思ったものも、じっくり見てみるとそうじゃなかったりして、自分は言うほど皆と変わらないのだと思うことがよくあります。自分の周りの人のことをよく知れば知るほど、みんなどっかちょっとずつおかしくて、だからこそ面白くて、素敵だな、と感じさせられます。

読んでくれてありがとうございました!!右下のいいねボタンを押して出てくる言葉は、私の好きな各国のことわざです。 しんどいことも多いですが、気長に、気楽にやりましょう〜。