一日一笑。
何年も前、
学生のころだったと思うけれど、
道ですれ違った人が着ていたTシャツに、
『一日一笑』と書かれていた。
『一日一生』は聞いたことがあった。
「一日を一生のように生きましょう」とか、
「一生は一日の積み重ねだから、一日いちにちを大切に生きましょう」
というような意味だ。
じゃあ『一日一笑』ってどういう意味だろう。
僕は勝手に「一日、一度でもいいから笑おう」っていうあいまいな考え方をした。
けれど、あながち間違っていない気がする。
「笑うこと」は、「一日を一生のように生きる」くらい大切なことだと思う。
常に笑顔でいる人は、「いつも笑っている」という印象が残るし、
常に笑顔でいる人には、笑顔になれることがまわりから集まってくる。
そのことがなんとなく感覚でわかっていたし、
そのほうが自分の気持ちも穏やかになることがわかっていたから。
それに、
自分が笑顔になれれば、自然とまわりの人たちも笑顔になれる。
ということは、
不機嫌な気持ちを表に出していると、まわりも同じような空気になってしまうということだ。
口調に出たり、
態度に出たり、
「ああ、この人今日機嫌悪いんだな」と悟られるようなこと。
僕はそれが本当にニガテで、
なるべくそうはなるまいとしてきた。
そこで「一日一笑」という言葉があらわれる。
この言葉を念頭に置くだけで、
「なにか笑える、楽しめる会話をしよう」
「なにか楽しいことを見つけよう」
という、無意識の目標めいたものができて、
結果的に自然と笑えることを見つけやすくなったりする。
一日いちにち、
その繰り返しで生きてきたけれど、
やっぱりどうしても笑えないときがくる。
日々の生活にハンドルの「遊び」のような余裕がほしいけれど、
だんだんガチガチに固まってくる。
社会的に混乱が広がりつつある今、
これまで以上にみんなで助け合っていかないといけないのに、
何かあれば心ない言葉を投げかける人たちがいる。
そのことに注意をすると、「言論の自由だ」なんだという。
確かに言論は自由だ。
けれども、自由というのは「何をしてもいい」ということではない。
言論は自由だけれど「そう言わないほうがいい」ということだってある。
スパイダーマンであるピーター・パーカーのおじ、ベンは言った。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
と。
大いなる自由にもまた、大いなる責任が伴うものなのだ。
手紙、電子メール、書籍にSNS、
文字化した言葉は何かしら他の人に読まれる可能性がある。
その言葉には必ず、
自分が発言したという「責任」が伴う。
言葉の向こうには、必ず人がいる。
そのことをみんながわかっているだけで、
世界も今よりやわらかくなるし、
心のハンドルにも遊びが生まれると思う。
もちろん、笑顔も。
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