過去の名ボカロ曲をレビュー part2(+コラム:色々な音楽を聴くこと)

(今後も近況報告的に前置きでコラムっぽい何かを書いていきたいなと思います。長さは適当で)

最近モンゴルの音楽をよく聴いています。近年のモンゴル勢の中で特によく知られているのはThe Huでしょうか。

匈奴ロックと名乗り、伝統的なモンゴル音楽を踏襲しつつダイナミクス溢れる広く現代的な音は世界的ロックバンドとしての風格さえ感じます。

モンゴルのポップスを漁っていると、こういったいかにもモンゴルらしいものであったり、例えばモリンフール(馬頭琴)やホーミーといった要素がありつつも、非常に洗練されたサウンドと上手く融合していて新鮮な面白さがあります。

そして当然のことながら、別にモンゴルらしさがあるわけでもないシンプルなポップスもたくさんあります。


さて、モンゴルという国、地域の音楽を聴くとなるとどういう心持ちになって、どういう風に聴くことになるでしょうか。恐らくほとんどの人にとっては未知の音楽であると思われます。モンゴルらしさを期待するでしょうか?そしてモンゴルらしさとは何か?ワールドミュージック/エスニックな要素を期待したり、もしくはそれを全く裏切るような要素があれば、意外で面白いと思ったりするでしょうか。

何の心持もないというならそれはかなり眉唾であると言わざるを得ません。
設問がモンゴルではなく、例えば国内の沖縄民謡だとどうでしょうか。さらに地域に限らない要素を考えていくと、流行りの音楽はどうか、twitterのRTで流れてきたlo-fiはどうか、そしてボカロ曲はどうでしょうか。

例えどんな音楽でも無意識で聴くというのであれば、(意地悪な言い方をすれば)それは無意識という心持があるということです。人間が社会で生きている以上、必ず何処かで音楽と接点があります。日本でなら学校で合唱曲を嫌々歌ったりとか、CMやアニメやゲームなどのBGMとして聴くとか…。その中で積み重ねられた音楽に対する先入観を失くすのはどう考えたって不可能で、誰でも一度は音楽を何かに結び付けて聴いたことがあると思います。その時点で無意識は意識的に聴くことの対比でしか無く、何らかの心持によって無意識を得ていると言えます。

そもそも、色々な要素を意識しないこと自体あり得るのかかなり疑問です。単純な曲としてピアノソロの曲を聴くとすると、既にピアノという物のイメージが音楽への評価に対する影響は避けられません。それだけで無く、ピアノの種類とか、コンサートホールの音響なのかスタジオか部屋かデッドなのかとか色々と…。もっとシンプルにしてサイン波だけの曲を聴いて…と考えていくと、そんな形にした曲を評価してどうするんだという根本的な疑問が浮かび上がります。もちろん世の中にはそういう曲も全然ありますが…。

自分も含めた多くの音楽好きは、流行や再生数など音楽とは関係無い(ように見える)要素を排して、純粋に音楽の良さを評価することを無邪気に良いことだと思ってしまいます。しかし結局何処かで必ず音楽に留まらない要素が混じって来ます。その閾値を何処に置いているかの話でしか無いですし、その閾値の決定自体もだいぶ恣意的にならざるを得ません。

そうして完全な純粋は無理やなという結論になったとして、ではそれぞれの要素をどう感じていくかということを考え始めます。

ここで今回このコラムの特にメインのテーマとして考えたいことに関する思考実験をしてみましょう。
最初に紹介したようなモンゴル音楽を聴いている時に、では伝統的な音楽か、それともグローバルのバイラルチャートで聴けるような普通のポップスか、それとも伝統を上手くポップスに落とし込んだ曲、それぞれをどう評価するでしょうか?

モンゴル人がモンゴルらしいことをやると無邪気なぼくは喜びます。モンゴル音楽を漁っているんだからこうじゃないとな〜などとも思うかもしれません。では普通のポップスくんの立つ瀬はどうなるでしょうか?もし仮にその曲が欧米のミュージシャンによって発表されたら広く絶賛されるような曲だとしたら?“純粋に音楽の良さを評価“したいはずですよね?

今回はたまたまモンゴルが例になってますが、当然日本にも当てはまることです。伝統的な純邦楽を追求する人もいれば、外国産のロックやヒップホップなどに打ち込む人もいます。ロックやヒップホップの中にも、日本に相応しい要素をうまく取り入れようだとか、本場そのままのサウンドを徹底的に磨き上げるなどの試みがあります。

ボカロにしたってそうです。初音ミクのコーチェラへの出演が決まりましたが、去年のperfume、今年のきゃりーぱみゅぱみゅを考れば(考えなくても)、いつもの役割が優先して評価され、期待されていることは明らかです。今のボカロを支えているのはそれだけではない、むしろそれではないとすら言えるかもしれないのに…。

もちろんこのことには決まった答えはありません。ミュージシャンにとって、それが単なる刷り込みのようなものだったとしても、自分の信じる音楽に邁進することは圧倒的に正しいことです。そして“純粋に音楽の良さを評価“することとは、その圧倒的な正しさに応えることくらいしかあり得ないと思っています。そこにはどんなジャンルであるとか何処の地域の音楽であるとかは、全く関係ないということはないですが(そりゃ音楽ですから)、そういう風に考えていけば楽しめる音楽の幅も広がっていくんじゃないでしょうか。全部並列に聴くのはさすがに無理がありますが。

というわけで今回のボカロレビューを楽しんでいただければ幸いです。

(2020/7/4改訂 軽微な表現の修正)


Guerrillas【巡音ルカ オリジナル曲】 作:the boor-leg mariaさん

ロックンロールが生まれてから半世紀以上が過ぎ、これまでに数々の偉人たちがロックンロールに関する名言を残してきた。その中で個人的に特に好きなのはルーリードが発言したとされる、「EからAのロックンロールのコード進行が決まった瞬間に異常な快感を覚える」という言葉。
ロックンロールは反権力を標榜しながら拡大してきた一方その音楽の根本にあるのはブルースで、それ故に伝統的なコード進行の形式がロックンロールらしさを持っているのもまた確か。このような矛盾した両面性の内、伝統側に舵を切っているといえるのがこのthe boor-leg maria。その音楽性はシンプルなリフを中心とし、単調かつある種陶酔的なロックンロールの色気をムンムンに漂わせている。しかもこの曲だけでなく、ほぼ全ての曲がこの形式を踏襲している。
かつてあるバンドが「同じようなアルバムを9枚作った」と揶揄されたように、the boor-leg mariaもまた「同じような曲を数百曲作った」と評されても不思議ではない。しかしそれでもこの決まった楽式に異常な快感を覚えてしまうのはロックンロールの魔術が為せる業。是非ともこの曲に限らず数百曲をノンストップで聴いて、その快感を味わってみて欲しい。

【鏡音リン】熱伝導【二足歩行・no8xfコラボ曲】

シンプルなコードの流れに乗せた伸びやかかつ滑らかなメロディーと、フレンチポップ風にアコーディオンが響く可愛らしい編曲がばっちり噛合った王道的ポップス。
特にサビの「大好きよ」というフレーズの単体としてはあまりにも細工の無いシンプルな良さは全くどんなレビューも意味を為さない。とはいえそのすぐ後に「目の前では言えない」と続くため、曲の中の物語としてはこの最も目立つフレーズを口にしていないという流れが何ともじれったい。主人公の主観で進行する歌詞は終始このように無邪気なようで、天真爛漫なようで素直じゃないような、まさしく鏡音リンのイメージに合致したコンセプト。
また地味に重要な役割を果たしているのはベースライン。ルートから1→3→4と跳ねるリズムに乗って軽快に動くことで、曲の明るさと心地の良いコードの流れを上手く飾り付けて、ますますポップさを演出している。
楽曲が持つ雰囲気に合わせて生き生きと纏め上げられ、3分弱の短い時間の中で細やかな息遣いが聴こえてくるかのようにドラマチック。50年代のオールディーズのように、豊かな景色を映し出すエヴァーグリーンな名作。

【初音ミク】モラトシズム【オリジナル】 作:kiyuさん

深いリバーブが作るぼやけた音像に神秘的なシタールの響きが織り成す60年代サイケデリックロックへの憧憬。イントロのダイナミックなドラムを始めとしてゴリゴリのベースなど、ハードなサウンドが押し出されながらノスタルジーに満たされた空間。初音ミクの声はか細く、オケの中に埋もれてしまっているが、むしろ溶け込んで響くその有り様は霞のように儚げにも聴こえる。
かねてより初音ミクの歌声の発声の甘いところは得も言えずサイケだと評され、アンダーグラウンドではサイケデリックロック系統の楽曲が度々登場しごく一部で根強い支持を集めてきた。その中で本楽曲は混沌とした音空間を特徴とするサイケデリアへの執着心のみならず、景色やイメージが広がるようなある種のドラマ性を持つまでに昇華した甘美なポップス。
永遠に時の中にしまっておく事は出来ないけれども、その瞬間が再現芸術とも呼ばれる音楽によって描かれたことで、動画を再生すればいつでも誤差を無視できるほどに同じ音を聴くことはできる。しかしいつでも同じ感情や感動を持つことができるわけではない。だからこそ、素晴らしい音楽との出会いと、その瞬間のことを思わなければならないのです。


次回:過去の名ボカロ曲をレビュー part3の記事

前回:過去の名ボカロ曲をレビュー part1の記事

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