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仮説のつくられかた【エビデンスを使う④】

この記事は仮説ってのはどうやって作られるのかってことについて、極限までくだらなく語ってみようっていう記事です。

仮説をつくるときの思考っていうのは、難しく言うとアブダクション推論っていうんです。
ですが、そういう風に難しい方向に考えようとすると、仮説をつくる思考をアブダクション(誘拐って意味が一般的です)っていう不思議な名称で呼びはじめた、パースっていうおじさんの論文が待っています。
パンパースをはいて待ってたおじさんが誘拐されたのは不思議な仮説っていう論文、じゃないですからね。念のためいっときますけど。

これは理解すんのが、やったら難しい論文として知られています。

なので、アブダクションを理解するには、まず、パースの論文は読まないってことが一番大事なことです笑 うちの子は、メリーズでしたからね。
私は図書館でパラ読みして止めました。人生は短し、アートは長しですから、無駄なことはしてられません。

仮説をつくるときに、いっしょに考えておきたいのは演繹っていう思考方法です。なんでかっていうと、演繹とか帰納っていう思考と仮説をつくるって思考はちょっと被る(かぶる)んですよ。で、帰納と仮説づくりを混同してまちがってても、あまり困ることはありません。なので、この記事では触れません。

だけど、演繹と仮説づくりがごっちゃになると、自分も周りも困るんですよ。

どうしてそういう風に考えたいのかなっていうのが謎な、うんこみたいな結論を、形式的には演繹っぽいしゃべりかたで「~ってことは~じゃん」っとかいって、周りをげんなりさせてる現場ってありますでしょ。ゆりやんレトリィバァの、下ネタやんが面白いのってその下敷きがあるからですよね。

仮説だったら、「~から~のように考えてみたが」みたいな形式になります。

ここらへんの違いがわかると、仮説づくりのことがわかったような気になります。

三流教員、演繹について大いに語る
演繹っていうのは、A=B、B=C、∴A=Cだっていうように、数学の証明みたいな考えかたなんです。ですから、そのとき出発点になるA=Bは正しいこと、真っていえることじゃないとダメです。間違った公式からは間違った答えしかでないでしょ。
たとえば、僕はいいやつにちがいなくて、いいやつはモテるんだから、ぼくはモテるはずだっていう、いろいろ間違っているDT三段論法は、出発点からまちがっているわけです笑 
”僕”は、真にはなりようがないですからね。僕が僕じゃないときなんて山ほどありますから。

それに対して、仮説をつくるっていうのは、一つ以上の要素を考慮して、「これらをもとにすんだったら~と考えてしまおう」という推論形式です。

あちぇちぇー、は仮説?
『言語の本質』って、最近話題になった本のなかに、アブダクションだったり、演繹っていうのを考えるうえで、かっこうの材料がありましたので、要約して紹介します。

トイレのドアを「開けて」を覚えて「あちぇちぇー」と言えるようになった赤ちゃん👶。おかしの袋も「開ける」であることに気づき、みかんを剥いてほしいときも「あちぇちぇー」。

今井むつみ・秋田喜美(2023)『言語の本質』中公新書.p181-182

なんかかわいいですね。
おっさんがミカンもって、あちぇちぇーとか言ってたら、殴り倒したくなりますけどね。
要するに、あかちゃんは、「開けて」っていう言葉は、「ふさがっているものを開放する」ときに使うんじゃないかってルールを帰納的に見出して、それをミカンでやってみたってことです。 
このとき、👶は
 ・「開けて」のルールは~ってことなんじゃないか
 ・みかんでもいけるんじゃないの
って2段階の推論を経て「あちぇちぇー」に至っているわけです。

つまり、仮説形成(アブダクション)って、簡単にいうと、対象の暫定的なルールとか説明を見つけ出したり、それにもとづき展開をしていくプロセスのことをいうみたいです。

著者はこういう👶の思考を、アブダクション・仮説形成として、言語の習得のうえでかかせない、人間特有の能力だっていってます。

ところで、👶は、自分のみつけたルールが絶対に正しいとおもって、あちぇちぇーっていったかもしれませんね。それなら、演繹かもしれないっていう見方もできるんじゃないですかね。著者は最初から、赤ちゃんのそういう思考はアブダクションだっていう知識を前提として論じてるわけだから、それはいいとして、結果が正しければ演繹で、間違っていたから仮説ってもんでもないでしょう。
こんなふうに、演繹と仮説づくりってのも、境界は曖昧なんじゃないですかね。

しかも、1つの要因から推論したときには、アブダクションなのか、演繹なのか、けじめがつきにくいんだと思います。たとえば、なんか推測するときって普通は、いくつかの要因を検討するじゃないですか。
コナン君に、「おじさん!口がくさいから、犯人だね!」とか言われたら嫌ですよね。
とうぜん、コナン君の推理は、仮説形成なので、犯人として一番もっともらしい人を選別していくなかでは、多くの情報をあつめて、ミルクボーイみたいなプロセスを経て、「AやBやCもあって、口がくさいとなったら、ほな、犯人はおじさんやないか!」ってやったほうが仮説の精度はあがります。

少ない材料で仮説をつくると、あちぇちぇーみたいに、ぶっとんだひらめきが得られることがあるので、発想のテクニックとしてはアリですけどね。コナン君がやってはいけません。

世の中、仮説だらけ説とエビデンスベースド
実体を扱う限り、厳密にいえば演繹なんてめったにできないんですわ。池田清彦の『構造主義科学論の冒険』では、普遍の真理(いつでもどこでも正しいこと)が成立しようがないことを論証しています。だから、演繹の前提になる「真」であるものごとなんて、ほとんどないってことです。
とりわけ、人文社会系のことについては不確実性が高いですからね、一つの何かを演繹した結果を、現実に当て込んでうまくいくってことはないはずです。

たとえ話に、私の妄想なんですけど、もしこんな医者がいたら嫌だという、荒唐無稽な話をします。

体に炎症がおきて入院した患者さんに、医者が抗生剤を入れたところ、炎症反応が下がり始めた。なので、医者は「もういいんじゃないか」と退院をさせた。ところが、患者さんは在宅で熱が下がらず、救急車を呼んだところ、別の病院に搬送され即日入院した。

大河内民明丸著 民明書房刊『あなたの知らない闇組織の正体と世界支配の計画』

仮にこんなことがあったとして、このときの医者が、「もういいんじゃないか」っていうのが仮説だってことを明確に認識していたら、退院にかんして、取る行動は
 A: もしかしたら下がりきらないかもしれないから、下がらなかったときに再入院ができる準備をする

 B:退院は時期尚早と下がりきるまで経過観察する

 C: どうなるかよくわからないけど、そんなことより早期退院をさせていかないと診療部長に怒られるので、とりあえず退院してくんねえか、わりいんだけど、と本音むき出しに言う

のいずれかでしょう。

このどれでもないって場合は、医者は、この薬を飲めば炎症反応が下がるってエビデンスを、「真」ってみなして、「じゃあ、もういいか」って演繹的に結論をだしたんじゃないですかね。あちぇちぇー、みたいでかわいいですね。もっとよく診てあぢぇちぇー!

医療の臨床推論って分野では、「仮説演繹法」っていうので、診断(仮説)をたしかめていくのに演繹法ってつかうんですけどね。患者に検証させちゃっちゃあだめでしょ。

いわゆる臨床判断なんて、ほとんどの場合、アブダクションですよ。
下の図なんですけど、エビデンスベースドプラクティスを行う上では、エビデンスとか、患者のこととか、状況(context)を、臨床のプロ(clinical expertise)として、判断してね、っていう有名な図です。

EBPにおける臨床判断(Sacket,1997)

これみれば、エビデンスを単純に演繹するのがEBPじゃないってことがわかりますよね。じゃあ、演繹じゃなければなんだっていえば、アブダクションとしかいいようがないでしょう。
いろんな要素を鑑みて、「こうしとけば、うまくいくんじゃないか」って考えるわけです。

仮説のつくられかた
ところで、どうしたら要素を総合させた仮説がみちびけるかっていう問題意識も出るでしょう。
でも、さきの、あちぇちぇーの例のとおり、仮説なんて、赤ちゃんにもできちゃうわけだから、どうやってやるのかって考えるより、われわれの日常を後ろ向きに振り返って、どうやって作られているのかってことを考えればいいでしょう。

日常における、仮説づくりの例では、冷蔵庫をあけて、じゃがいもをみて、にんじんをみて、たまねぎをみたらへんで、「今日は、カレーかな・・」とかっておもったりするのも、仮説づくりの一つといえますが、この例をつかいつつ考えます。

仮説をひりだす条件
私の研究分野の例で、もうしわけねえこってすが、ソーシャルワークのある大御所の研究者が、現役のころ、生前の河合隼雄にむけて「さまざまな研究知見を融合させて、ソーシャルワークの科学化を目指したい」という主旨のことを提言したところ、河合は、「どうやって融合するんや。その媒体とか媒介とか。」ってツッコミをいれた、っていうエピソードがあります。

この話は、いろんな研究っていうのと、先のたとえのカレーの素材を、アナロジーで対応関係をつくれば、融合するときの思考は、仮説づくりと似てるって考えられるでしょう。

それで、どうやって仮説がつくられるのかっていう説明は、媒体と媒介のことが説明できればいいっていうか、河合隼雄は納得させられるってことですよね。

このお題は、思考の内容を、物理的なアナロジーで答えるクイズみたいなもんです。
とうぜん、媒体と媒介のボックス内には、思考内容がはいるわけです。

さあ、みんなでかんがえよー。
結論として、まず一言でいえるのは、媒体とは「問い」なんじゃないのってことです。

それから、媒介は「問いへの答えにつかえるじゃん」ということにまつわる思考で、媒介となる思考の種類は多彩としかいいようがないんじゃないかと思っています。ミツバチもおるし、クマバチもおるよってに。

たとえば、さきの冷蔵庫の例で、カレーがでてきた背景には、「簡単に作れて、ガツっと食えるもんねえかな」っていうコンビニエンスな問いをもって眺めたりしているわけですよね。

このとき、肉がなくって、じゃあタラがあるから、タラカレーでいいやって思考なら、あり合わせでまにあわせる思考法であるブリコラージュが各素材をつなぎあわせたり、素材の活用性を見出すための媒介的思考っていえるんじゃないでしょうか。
肉がない、それから、ターメリックもないから、これは買わなきゃっていう、規範的なカレーをつくるって問いにこたえるための思考だったら、レヴィストロースのいうところの、エンジニア的思考っていえるでしょう。


ほかにも、直感的思考とか、創発的思考とか構造的思考とかいろんな、イキリーマンが好きなビジ本にのってそうな思考が媒介になる可能性があります。
ただ、それらはいずれも、問い、の俎上(そじょう:まな板の上って意味です)での思考で、それにのせちゃえば、赤ちゃんでも自然に仮説って作れちゃうってことですからね、媒介的思考のあれこれについては、ここでは、あまり考えても、しゃあないって気もします。「直観的思考、発動!」とかできないですからね笑 コントロールできるのは、問い、だけです。


まとめ
アイデアをたくさん作る人、ものごとのいろんな活用性を見いだせる人って、いつもいろんな問いを頭に走らせてるのかもしれませんね。

エビデンスベースドのときには、問いってのは、臨床疑問っていって、媒介は、図をみるとわかるようにClinical Expertiseってことになるんじゃないでしょうかね。

このアブダクション推論って、帰納的に発見したルールを演繹して出力するっていうようなプロセスでありながら、帰納ではないし、演繹ではない、っていう論理展開なので、あたまがごちゃごちゃになるんです。

そんなわけで、この記事も、部分的にまちがっていたりする可能性があります。申し訳ねえこってすが、いったんこれで、アップしちゃいますが、そういうところをみつけたら、修正します。
なんで、急ぐのか? 「アブダクション」っていう本の改訂版が明日、出版されるので、それを読んだら、また、あたまがごちゃごちゃになって、いつまでたっても、アップできなくなるからです笑

【写真】国立病院機構のMSWへの研修講師として、ひさしぶりに本部にいきました。











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