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右乳と私

ずっと共闘してきた味方が物語終盤で突然悪の組織に寝返ったときの失望。
もしくは、
長年信頼し尊敬し、さらに自分のことを評価してくれていると信じきっていた上司から突然左遷を言い渡される絶望。
しこりを見つけたあの日から、右乳に対する私の思いはこんな感じであった。「裏切られた」、一言で言えばそんな気分である。
思えば、息子を産んだ産院で、同時期に入院していたお母さんの中で私だけ母乳が出なかった。ほかのお母さん方が「おっぱいが張っちゃって」と微笑む中、私だけデキの悪い生徒のように助産師さんに乳をしごかれていた。
忌々しい。母乳が出ないだけに止まらず、あまつさえ癌まで作るなんて。癌細胞は自分が作り出した細胞であって、外から入ってきたウイルスや細菌ではない。元は真っ当に私の身体を構成しようとしたはずの一部。私は細胞レベルでこの右乳に裏切られたことになる。
風呂場で下から持ち上げる度、触れる塊。塊をまさぐると、ザラっとした硬い豆を感じる。こんな乳、要らない。役に立たないどころか、害でしかない。

初めてしこりに出会ってから2ヶ月半。別れの日を待ち望んでいた。
それでも、入院の前々日、一応は右乳を写真に納めた。上半身を脱ぎ、息子の上半身も脱がせ、2人で半裸でツーショットを撮った。ピースは違うと思い、左腕に息子を抱え、右腕は乳がよく写るようハーイと高く掲げた。撮れた写真を見ると、産後太りが抜けない逞しい身体がそこにあった。今から乳房を失う女の儚さは皆無で、むしろ若さ溢れる力士のようだと嫌気がさした。写真に納めたところで、右乳が惜しくなることはなかった。シャッターを切った夫の方がよほど切な気な顔をしていた。

手術前日の夕飯を最後に絶食になった。私は入院してからそれまで出された食事はほぼ完食し、絶食前最後の食事では自分で売店で買ったパフェまで平らげた。手術に対する恐怖はなかった。その頃には主治医の腕をネットの口コミなどから信頼していたし、本当に一刻も早く右乳と別れたかったのだ。君には失望したよ、もう必要ない、と何度思ったことかわからない。
唯一気がかりなのは、本当にリンパ節転移がないかどうかだった。MRIではリンパ節はキレイだったらしいが、撮影から二月近くが経とうとしていた。その間に転移していたら?術中センチネルリンパ節生検といって、事前に薬を注射して色付けした、癌がもっとも早く到達するだろうリンパ節を切って行う検査がある。手術中の検査で転移が見つかったら、リンパ節をごっそり取られることになる。それによる後遺症も恐ろしいが、何より癌が進行している事実を突きつけられるのが怖かった。
個室だったので、心置きなく夜遅くシャワーを浴びた。忌々しい右乳をチラと見る。こいつを洗ってやるのは今日が最後だ。触れてみると、やはりしこりはあった。そうだよな、あるよな、やっぱり、もうこの先の人生にこいつは連れていけない。そう思うと、暗がりの中でポツンと取り残されている右乳の姿がハッキリ脳裏に浮かんだ。要らないんだ。でも、それでも…
私は右乳を両手で包んだ。
「いままでありがとう。ごめんね。またね」
そう声をかけた瞬間、今度は三途の川の向こうで、右乳が中空にポカリと浮かんで私を待つ姿が想像された。いつか、できれば遠い遠い…遠い将来、私がその川岸に立ったとき、そうやって右乳は私を迎えてくれる気がした。
惜しくはない、けど、愛惜しい。
右乳に対する自分の本当の思いに気づいた。

2021年4月14日午前8時。手術当日の朝。看護師に連れられ、私は入院病棟内の狭い部屋に通された。「処置室」と書かれたそこは、本当に何らかの処置ができるのかと疑うほど小さく清潔で、白いベッドとカーテンが寝起きの目に眩しかった。
上半身を脱ぎ、ベッドに横たわると主治医が現れた。
刹那、いつも冷静で動きのない主治医の表情が色を変えるのを私は見逃さなかった。主治医が私の一糸纏わぬ乳房を見るのは、この朝が初めてだった。主治医の目は一瞬だけ見開かれ、時が止まったような気がした。
「手術をする場所にマーキングします」
主治医はいつもの淡々とした口調でペン先を乳房に着地させた。その様子に、さっき顔色が変わったのは気のせいだったのかと思っていると、
「再建は考えてないんだっけ?」
と聞かれた。
「まったく考えてないです」
今日もう、この右胸の膨らみとは永遠に別れる。その覚悟は変わらない。私はハッキリ答えた。主治医は続けた。
「今はとにかく、癌が怖いから、早く取ってしまいたくて再建なんて考えられないよね。だけどいつか、再建したくなる日が来るかもしれないね」
それは恐ろしいほど静かな優しい口調だった。やはりあの時顔色が変わったのは気のせいではなかった。若いうちに乳房を失うことへの底知れない同情が、その口調にはこもっていた。そして何より、「癌が怖いから」と主治医に看破されていたことが、私の心を苦しく、しかし温かくさせた。前向きに、明るく、絶対生きたい気持ちがぶれない患者に見えるよう頑張ってきた。そうしないと自分が折れそうだった。でもその影にあるどこまでも暗い恐れを主治医はわかってくれていたのだ。私が本当に主治医を信頼したのはこのときだった。

個室に戻ると、私は早速パジャマとブラのボタンを明け、鏡の前に立った。右の乳房の、内側下。ほとんど乳輪と接する位置に、点線で丸が書かれていた。なんだか可笑しくて、鏡越しにその姿を写真に納めた。これが本当に本当に、最後の写真。さようならと心で唱えつつ、私はボタンを閉めた。

手術は15時の予定だった。早まる可能性もあるため、13時ごろには付き添いの夫が現れた。「万が一」も想定して、私の目が覚めるまで夫は院内拘束である。入院して以来なので夫に会うのは2日ぶりだった。夫は重そうな仕事鞄を提げたまま個室に現れると、すぐにテーブルセットに置いてあったファッション誌に目を止めた。入院した初日、付録目当てで売店で買ったものである。
「優雅だね」
夫は茶化すように笑った。雑誌を読むほど余裕がある私の様子に安堵したようだった。
「職場で奥さんが癌って言うと、みんなすごい顔をするよ」
夫は転勤してまだ2週間だった。5月で29歳になる夫。その若さで、妻が癌。しかも乳飲み子までいる。新しい職場での夫の第一印象がどれだけ悲劇的なものか想像すると胸が痛んだ。私はその痛みを悟られぬよう、そりゃそうだよねと笑った。

13時半頃看護師が現れ、手術が早まったから支度をするよう言われた。事前の説明で、手術室には必要なもの以外にスマホとお守りも持っていけると聞いていた。私は「お守り」をスマホのケースに付けていた。癌になってから、神を信じなくなった。仕事を愛し、他人の子供に自分の時間や思いを全て捧げてきた。最後まで誰一人取りこぼさずに卒業させた。結婚も出産も後回しにしてきた。そしてやっと自分の子を持ち、公私ともこれからだった。そんな人を癌にするのなら、神など私の方から見放してやる。だから私は手術の成功を祈りに行くこともなかったし、お守りも買わなかった。
私の「お守り」は、息子の写真が入ったストラップだった。たった3cmほどのプラスチックケースの中で、生後3ヶ月の息子が笑っている。お宮参りの家族写真を撮った際に、写真館がサービスでくれたものだった。神の助けなど要らない。この子と生き長らえるためなら、私は私の力で何でも乗り越えて見せる。

手術室は白かった。なんとなくドラマなどのイメージで、手術室は緑色だと思っていた。
「思っていたのと違いますね」
私は友人の新居に招待された人のような口ぶりでオペ室の看護師さんに話しかけた。
「そうですかぁ?あはは」
オペ室の看護師は全体的に明るく、大学サークルを思わせた。患者をリラックスさせるためにこのような人たちが配置されているのだろうか。
「お守りがあったら、握って手術台に行ってくれて良いですよ。なんかありますか?」
「お守りっていうか、ストラップなんですけど」
私は息子の写真が入ったストラップを見せた。
「あら可愛い!持ってっていいですよ!」
まだ20代の母親が、生まれて間もない子供の写真を握って癌の手術に臨む。これが映画なら涙をさそう場面だが、看護師さんは底抜けに明るかった。そして私も、こんな効くお守りは他にないよなぁ、と謎の自信と高揚感すら覚えていた。
手術室には主治医の姿がなかった。代わりにメガネをかけた細身の医師が私を手術台に固定した。この人は誰なんだろう?ていうかあの俳優に似てる。名前は思い出せないけどそっくり…などと思いながらも、さすがに手術台の上では口を利く余裕がなかった。
「ドキドキしてますね。ゆっくり息してください」
モニターを見ながら看護師さんが言う。
主治医は来ないのだろうか。ふと横を向くと、大きな画面に私の右乳らしきMRI画像が写し出されていた。一人の医師が後ろ手に手を組み、ぼんやりと画面を眺めていた。あれが主治医だろうか。
確認する暇もなく、手の甲に鋭い痛みが走った。麻酔の針が刺された。陣痛でも叫ばなかった私である。痛みには強いと思っていたが、想像以上にその針は痛かった。
「眠くなるお薬入りまーす。一緒に数数えてください。いーち……」
「いーち……」
とにかく手の甲の痛みから逃れたい。早く意識を失いたい。願うように数を数えた。
不意に、視界がぼやけた。そうかと思えば、突然ものすごい力で押さえつけられるように、ぐぐっと目蓋が落ちてきた。
私の記憶は、そこで途切れた。

背中のずっと下の方で、車輪が忙しなく回る感覚で目が覚めた。
「……さーん、今お部屋まで行きますからねー……」
その声を聞くと、私の視界はもう一度ぼやけてやがて真っ白になった。

ハッキリと目が覚めたのは、個室のベッドの上だった。私はいろんな管に繋がれているらしかった。上半身があちこち痛む。どこが一番痛いのか、どこが何故痛いのかよくわからなかったが、自分がとてもぐったりしているのはわかった。
外はすっかり暗くなり、山の向こうだけが微かにオレンジ色を残していた。時刻は17時過ぎだった。手術時間は予定通りだったのでは?ということは、リンパは無事だったのでは?いや、ぬか喜びはやめよう…
そんなことを考えていると、夫が現れた。夫は「起きたの?」とだけ言うと、ペンダコの厚いザラついた指で私の頬に2回触れた。
「リンパはどうだった?」……聞こうとしたが、喉がうまく開かない。手術中に挿入されていた人工呼吸器の影響で、声が出なくなっていた。
何とかして聞き出せないかとヤキモキしていると、
「じゃあ仕事に戻るね」
と夫は出ていった。え?もっと心配しないの?これでもう退院まで会えないのに??
あまりの呆気なさに呆然とした。が、一瞬で恐ろしい想像が駆け巡った。
もしかしてリンパに転移していたのでは?それが気の毒でここにいるのが辛くなったのでは?夫は私がリンパを心配しているのを知っていた。なのに何も言わないのは……。
麻酔のせいか、この恐ろしい想像のせいか、突然吐き気が込み上げた。
夫と入れ替わるように主治医が現れた。
「お、目が覚めたね」
主治医はいそいそとベッド横まで来ると、私の膝をポンポンと2回叩きながら、
「リンパ大丈夫だったよ。リンパ大丈夫だったよ」
と早口に小さく2回繰り返した。
「よかったです……」
私はほとんど吐息に近い掠れた声で答えた。
よかった、食い止めたんだ。すごいな。…右乳への感謝が溢れた。
主治医が去ってからも、ポンポンと膝に触れられた感覚が残っているような気がした。あのポンポンに、「リンパ節転移はなかった」という情報以上の思いが、優しさが、こもっているのを感じた。


手術から今日で1年が経った。
失った右乳のことを書こうと思ったら、なぜか右乳の始まりを思い出した。
小学校4年に上がる前の春休み。家族でディズニーランドに行った。ドナルドダックの家かなんかの手すりから身を乗り出したとき、鈍い痛みが乳首に走った。不安になり、その場で母と叔母に報告した。
「やだぁー!じゃあそろそろ大きくなってくるかもね!」
そんな、あのときの2人の、私の女性としての成長を歓迎するキャピキャピとした声を思い出す。
もう二度と会えない懐かしい人との思い出を振り返るように。
あの日から20年、確かに私のここに、あの子はいたんだね。
哀しくはない。惜しくもない。ただ、確かにあった、という事実が愛惜しい。
結局私は、再建を考えていないままである。何の未練もなく、むしろ恨みすらした右乳だった。けれど、私の右乳はあの右乳だけ……そんな妙な思いがあるのだ。







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