息子にがんセンターを紹介された日の話
起きてすぐ、微かな苛立ちと緊張を感じていた。この動悸は…?そうだ、今日は面談だ。眠る息子の白い頬。こんなに愛らしいのに、彼は問題児なのか。鬱々と支度をした。
1歳半健診であまりに落ち着きがなかったため保健師にマークされた息子は、保育園申し込みをきっかけに個別の面談に呼び出されていた。
市役所に着くと、担当者が来るまで窓口に座って待つよう促された。ものの数秒で椅子を滑り降りたがり始めた息子と格闘していると、数分後に先日の電話の保健師が現れた。真っ黒なワンレンボブの、笑顔が温かな中年女性だった。対する私は天パが爆発したピンクヘアである。
「お待たせいたしました!すみませんねぇ、わざわざ来ていただいて。ではさっそくお話を……。坊くん!こんにちは!こんにちは!」
もう査定は始まっている。まだ「こんにちは」を習得していない息子は少したじろいだだけだった。私の気持ちは沈んだ。
「人見知りしてるかな?これ見て?キリンさん。キリン。こっちはライオンさん。ライオン」
保健師はところどころ絵柄の剥げたキリンとライオンの形をした積み木を息子の目の前で揺らした。キリンは確かにわからない。でも、ライオンなら普段は「ガオー」っていうのに。息子はもじもじと黙ったままニヤニヤしていたが、衝立の向こうに別のサイコロ状の積み木があるのを認めると目の色を変えて立ち上がった。
「これね、これもほしいよね」
慌てて保健師が差し出す。しかし息子は渡されたものが只の積み木だと知ると、身を乗り出して様々なものを触りたがった。感染症対策用のビニールを引っ張り出したところで、
「場所を変えましょうか!飽きちゃうよね!」
と保健師は慌てて席を立った。
「すみません……」
私たちは3畳ほどのキッズスペースに移った。場所変えも空しく、息子は私と保健師の隙を突いてキッズスペースからひらりと飛び出すと、裸足のまままだ新しい官舎の端から端までをケタケタ笑いながら疾走した。横目で見ると息子と同じくらいの歳の女の子が、窓口のイスにお澄ましして座っている。私は靴下のまま息子を追いかけながら、「これはダメかもしれんね」と覚悟を決めた。案の定、様々な話の最後に保健師は、まるで昼間の通販番組のように「そこで今日はお母さんに1点お勧めしたいことがございまして」と切り出した。と同時に差し出されたチラシは、やはり発達相談のチラシだった。
「こちらの臨床心理士さんと話して、坊くんがどういう個性を持っているのかお話ししてみると良いかもしれません」
どういう「個性」?ことの本質を覆い隠すような言い方に私の神経はまたしてもザラついた。
「あぁ、はぁ」
私は気のない返事をした。
「といっても深刻な話ではなくて、まだ2歳ですし、いくらでも発達には凸凹がありますからね」
「凸凹」……これも良く聞く言葉だ。
「なので、坊くんとどう接してあげるとお母さんにとっても子育てがやりやすくなるか心理士さんとお話しすることで、お母さんも安心できるかなと思います」
「あなたのためを思って」というやつか。私が安心?私は家で息子と二人、我々なりの穏やかなコミュニケーションを取りながら暮らしている日常を思い返した。
「私は気にしてません。この子はこの子のペースで成長してくんだろうなと思います。それに自分がこういう病気なんで、生きてるだけでまぁ良いかと思います」
私はここまで一気に捲し立て、一呼吸置いた。
「ただ、今は私と二人きりなので私は何も心配していませんが、これが私の手を離れて保育園で生活するとなるとわかりませんよね」
結局はそこなのだ。いま、力一杯元気一杯生きる彼を、私は親だからそのまま受け止めてあげられるけれど……もしも園で、息子のこのヤンチャ振りが他の子供を傷付けたら?という懸念はやはりあった。保健師は私の言葉に胸を撫で下ろしたように見えた。
「そうなんです。こちらとしても発達相談センターや園、保健師が連携してどうしていくのが坊くんにとっても良いのか知っておく方がいいですからね。その方が安全にお預かりできますしお母さんも安心されるかなと」
「……わかりました。行ってみます」
私はガサガサの解像度でなんやかやと印字されたそのチラシをようやく受け取った。
「お母さんのため」…やめなよ、そういう建前。自治体にいる問題行動が予測される子を把握しておきたいんでしょう。それは貴方たちが働きやすくするためだろうし、もっと言えば第一にこの子本人のためでなければ意味がない。「お母さんのため」?そう言われて有り難いお母さんっているのかな。
面談と、その後の家までのタクシー移動(息子はタクシー内でもあらゆる物に触れようと暴れまわった)に精神を消耗し、息子を抱えたままベッドに倒れ込んだ。だいぶ愚図っていた。もう昼寝するに違いない。靴下は嫌いだからさっさと脱がせて、オムツ替えて寝かそう。私も眠い。息子が眠るように暗示をかけながらズボンを脱がせていると、押さえ付けられるのを拒んで反り返った息子の足に何かがポコっと顔を出したのが眼に入った。
今の何?
すかさず足首を捕まえて内側に曲げると、くるぶしの直ぐ下に、もう一つのくるぶしのような、くるぶしより一回り小さい球状の突起が現れた。触れるとやはりくるぶしくらい固い。骨?パッと反対側である右足も捕まえ、足首を内側に曲げる。姿を現したのはくるぶしだけだった。くるぶしの下は確かに固い。でもそれは斜めに走る何か別の骨だった。自分のくるぶしにも手をやる。自然と痛いくらいの力が入る。やはり私のくるぶしの下も、斜めに固い感触に触れるだけだった。
この突起は、この子の、左足の、くるぶしの、下にしか、ない。
私はスマホのカメラを起動し、息子の左足を捻った。暴れてなかなか上手く行かなかったが、何度目かで確かにくるぶしの下にポコっと何かが隆起している様を写すことができた。
これは……しこり?「しこり」という言葉が頭に浮かぶだけで、心臓に嫌な苦しさが走った。でも、「あのとき」のものとは違うような気もした。あのとき自らの右乳から探り当てたそれは、もっと歪で、ザラリとしていた。気味の悪い細かいトゲトゲを指の腹に感じたのを今でも覚えている。息子のそれはただただ丸い。そういう、左右非対称の骨の奇形があったのではなかったか。それは遠い見聞の記憶なのか、私の希望的観測が作り出した虚像なのか…。
私は撮影した写真をTwitterに投稿し、母に送り、夫に送り、毎月330円払っているのに久しく利用していなかったアスクドクターズに送った。たくさんの人に見てもらえば、誰かがきっと、「それは◯◯で私にもあります」とか「それは△△でうちの子供にもありました」とか言ってくれるのではないか…。思った通り、Twitterでは何人からか「ガングリオン」という言葉が届いた。聞いたことある。何かプクッとした液体の塊だったような……。さらにアスクドクターズでも、回答してくださった3人の医師が3人ともガングリオンではないかと書いてあった。
「病院に連れていきたいんだけど」
という私に対し、「忙しいんだけど~」というのが口癖の母は、珍しく「はいよ」と二つ返事をした。身体にできる、丸く、固いもの。それは母にとっても、少なからずトラウマになっているのではと察せられた。
掛かり付けの小児科に電話すると、小児科や内科で診られる症状ではないという。整形外科を受診するよう勧められたので、市内の大きな総合病院の中の整形外科に行くことにした。
T病院はアレルギー外来や神経内科も備えているが、地元では「整形外科ならT病院」といわれる有名どころであった。自分の経験から大病院=紹介状必須だと思っていたが、T病院に看護師として勤めていた親戚に電話してみると予約無しで外来を受け付けているということだった。
16:04。午後診療が開始したばかりのT病院は既に混んでいた。
エントランスは観葉植物や水槽で患者の気分を和らげようとしているらしかったが、それでも「総合案内」があったり会計が自動支払機だったりと、私をそわそわさせるには充分な設備が整っていた。こういう病院に、私も月一で通っている。だが、明らかに部活で怪我してしまったような松葉杖をついた中高生くらいの男子を見て、ここはあの病院とは違う、必ずしも「死」が想起される場所ではないと思い直した。それどころか、ほぼ毎日誰かが体育や部活動、さらには昼休みのレジャーですら負傷していた嘗て勤めていた高校を思い出して懐かしさまで感じた。
ここでも息子は午前中の市役所同様落ち着かなかった。私と母とが二人がかりで見ていても隙を見つけて走り出し、車椅子の女の子や杖をついたおばあさんの横をほぼ掠める近さで駆け抜けた。私は一瞬で息子が他の患者を突き飛ばし慰謝料または治療費を支払うことになる未来を憂慮した。
マザーズバッグに忍ばせたグミや母のスマホに入ったパズルゲームなどでなんとか息子を待ち合いイスに繋ぎ止めていると、不意に息子の名が呼ばれた。まだ若そうな看護師が私が提出した問診票を持って現れた。
「どこのことですか?外側ですよね?」
看護師はそういうと、私が左足の外側に◯印を付けた人体の簡略図と息子の足とを見比べた。
「ここです。ここを反らすというか、曲げると出てくるんです」
私が持ち上げた息子の足を看護師が受け取る。何度か角度を替えて、ようやくあの球体が浮き出ているのを認めた。
「これですね……なんだろう?動かないな。固いですね」
ポコっとした箇所をじっくりさすりながら看護師は怪訝な顔をしていた。
「いつからあったんですか?」
「わかんないです。気付いたのは今日です」
私の返答を看護師が人体図の横に走り書きで書き留める。
「痛がってはない?」
「たぶん。痛がってないと思います」
また書き加える。そして看護師は顔を上げた。
「これを一度先生にお見せして何科か決めますね。整形外科なのか外科なのかはたまた形成なのか……」
「……はい」
外科といえば乳腺外科になってしまった私にはそれぞれが何を診てどう違うのかはわからなかった。ただその3つのいずれも、乳腺外科よりは命に関わることはないだろうという楽観があった。
しばらくすると、院内放送で息子の名が呼ばれた。母に荷物を預け、診察票が入ったファイルと息子とを抱えた。案内された番号の部屋には、「整形外科」と掲げられていた。なんだ、結局整形外科か。
現れた医師は白衣ではなくよく医師が着ているVネックの半袖シャツだった。歳は40半ばか。黒々としたソフトモヒカンのせいかパッと見は体育会系に見えたが決して愛想が良いとは言えず、黙って息子の足首を触診する瞳からはインテリらしい神経質さが伺えた。
「お写真を取ってみましょう」
特に何の見解を述べるでもなく、医師はそういうと看護師に何やら専門用語でレントゲンの手配をさせた。
私と息子はレントゲン室の前に案内された。「放射線科受付」と書かれていた。レントゲン室の前でも何とか私や母の手を振りほどこうと身を捻る息子を見て、こんな子が本当に正確なレントゲン写真に写ることができるのだろうかと案じた。一方で、午前中からずっと暴れまわる息子を公共の場で押さえ付けていた疲労もあって早く息子を放射線技師に預けてしまいたいという思いもあった。
息子を迎え入れた技師は思ったよりずっと若かった。さらっとした黒髪に色白な顔、マスクをしているから全貌はわからないが笑いジワが優しげな男性だった。こんな状況下で己の浅ましさに苦笑するが、正直この技師は私の好みで、一日の疲労が少し軽減するようだった。究極の疲れの中で好みの異性を見て癒されるのは最早動物的な生存本能のような気がした。
「では両足のお写真ですね。こちらに息子さんを寝かせてください」
病院特有の、青とも緑ともつかない曖昧な、でも確実にこちらを不安にさせる細長い寝台。こんなところにこんな小さな息子を乗せることになるとは…。息子は寝かせた瞬間から上体を起こして抵抗し始めた。私は心の中で技師に「手強い相手ですよ……頑張って」と念を送った。
息子を残し、鉄扉の前のソファに腰かけた。疲れた。レントゲンか。X線、だっけ?あの小さな身体にどのくらい影響があるんだろう。私は自分が毛布でキュウキュウにくるまれて白く分厚い筒の中を行ったり来たりする数十分のことを思い返していた。あれはPET-CTであって、レントゲンとは違う。それでも、あの筒の中の気の狂いそうな不安を、今息子も感じているのではないかと思うと胸がキュッとした。
しばらくして扉の向こうから、息子が愚図る声が聞こえ始めた。不満があるときの泣き方。次第にその声は大きく激しくなり、予防接種のときのようなパニックと怒りが混ざったけたたましい泣き声になった。息子の声が大きい方が、何故か私の心は穏やかになった。元気な証拠だと。
「お待たせしました~」
先程の技師が泣きじゃくる息子をしっかり抱いて現れた。素敵な男性が我が子を抱えている姿は悪くなかった。
「では診察室の前でお待ちください」
もう一人の女性技師が診察票のファイルを寄越しながら言った。
その後も息子は泣き止んだかと思うとまた思い出し泣きを繰り返した。見かねた母が自販機でりんごジュースを買って息子に飲ませ、「吸っちゃってるよ!もう哺乳瓶卒業させなよいい加減に!」と私をなじった。
泣いたり立ったりジュースをこぼしたりする息子に振り回されているうちに、再度院内放送で呼び出された。
診察室に入ると、先程のソフトモヒカンの医師がパネルに息子の左足と思われるレントゲン写真を大写しにして待っていた。
「特に異常は見られませんでした。何も写ってないです」
シャボン玉のようにコロンとしたいくつかの骨が息子の足を構成している。その外側には技師の手と思われる真っ白でスッと延びた骨が息子の足に向かって幾つも延びていた。押さえ付けないと撮れなかったのだな……私はぼんやりと技師の苦労を思った。
「骨じゃないということですね」
医師は続けた。
「じゃあ何かわからない、と…?」
「ハッキリさせるにはがんセンターで見てもらいましょう」
がんせんたー。それは、あまりにも聞き慣れた名。あまりにも通いすぎた場所。私のホーム。
「がんセンターって……でもいきなり行けないですよね?紹介状とか」
「はい。なのでがんセンターに紹介状を書いて予約をお取りします」
「あ、はい。お願いします」
何かが私の感情を固定してしまったのを感じた。看護師の「ではこちらに」という声で診察室を後にした。息子は重くて堪らないはずなのに、感触すら感じなかった。そのとき息子が暴れていたのか、大人しく抱かれていたのか思い出せない。
「ではお母さん、がんセンターの予約を取るのですが、向こうからこの日、って指定されてしまうんですよ。なので絶対にダメな日はあります?こからちょっと遠くて、車で40分くらいかかるんですけど」
診察室から一緒に出てきた看護師の涼しげだけど可愛らしい笑顔に促されて私は打ち明けた。
「がんセンター、私も通ってるんですけど、その、乳がんで。今は月1でタモキシ……薬もらいに行ってます、ホルモン療法の」
看護師は笑顔を崩さず「そーなんですか!」と返した。それは世間一般の「比較的助かる癌」という乳がんのイメージを象徴するかのような反応だった。
「で、親子関係を説明していただいて、できれば受診日を合わせてもらえると助かるんですが」
「あ、わかりました。では次のお母さんの診察はいつですか?」
「診察はなくて、薬取り行くだけですが…たぶん第一か第二火曜日……ちょっとカレンダー見ますね……あ、たぶん12月6日です」
「そうなんですね!では、そうできるかはわかりませんがお話ししてみますね」
「はい、お願いします」
長い会話だった。でも、そのとき抱かれていた息子が、降りたがっていたのか、しがみついていたのか、まったく思い出せない。
「ねぇ、がんセンターで診てもらうだって」
母に説明する私の声はいつも通り落ち着いていたが、何故か遠くから聞こえてくるようだった。
「え?!なんで?!」
「レントゲン写らなくて骨じゃないからハッキリさせるためにって」
「そう……まぁ大丈夫だら」
「大丈夫だら」。あの冬の終わりも、お母さんは何度も私にそう言ったね。何の感情もなく、ただただそう思い出した。
息子は極限に飽きていた。残すは会計だけなので、母は息子を連れて外に出ると言った。時刻はもう17:30で、外を見ると漆黒の中に外灯の明かりがチラチラと瞬いていた。こんな暗いのにどこに行くのかと訝ったが、私自身少し息子と離れたかったので何も聞かなかった。
会計を待っていると、総合受付の事務員に呼ばれた。
「こちら先生にお渡しする紹介状と、息子さんの画像データです」
縦横比の違う2通の封筒を渡された。
紹介状と思われる封筒の窓を見ると、医師のものらしい名に「御侍史」という敬称が付いていた。あぁ、これ、知ってる。あの日、国語の教師ながら始めて目にする仰々しいこの敬称を、震える指でネット検索したんだっけ……
「日にちは決まりました?」
ボーッとしながら事務員に尋ねた。
「それはまだなんです。T病院とがんセンターと話し合って決めるので」
あぁ、そうだったね。それも、知ってる。あのとき、先の予定がわからないからとぐずぐず言っていた私は、「病院同士話し合って日にちを決めるので早くしてください」って看護師さんに怒られたんだっけ。真冬の小さな乳腺クリニックでの出来事だった。
「がんセンター、場所わかりますか?」
ぼんやりしていたからか事務員が私の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ、大丈夫です。私もその、がんセンター通ってるんで」
「あぁ、そうなんですか!」
事務員もやはり特に同情することもなくそれまでのテンションを保ったまま反応した。これだけ大きな病院なら、整形外科がメインとはいえ若年癌の患者を目にすることも少なくないのかもしれない。
「だから、大丈夫ですよ!行きなれてますから!」
マスクから出ているだろう目を、できるだけ半月形に細めた。
紹介状と画像データを受け取った瞬間から、固まっていた感情がぐらぐら動き出すのを感じていた。その揺らぎを気取られないよう、私は必要異常に爽やかに受付を後にした。
自動支払機の上に取り付けられたモニターによると、自分の会計まであと4人だった。会計待ちのソファに深く腰かける。どこか遠くの後方で、外にも飽きたらしい息子が騒ぐ声が聞こえたが振り返りはしなかった。母が息子を連れてくることもなかった。
診察が終わって、紹介状を渡されて、それまで押さえ付けられていた感情がむくむくと肥大して逆に私を覆っていくのがわかった。
なんだ、これ。
なんなんだ、この人生は。
決して良いとは言えない家庭環境をチャラにしたくて遮二無二頑張った。無理が祟って精神を病んで大学を休学。それでも教員採用試験に滑り込んで、天職を得たと夢中になった。その中で夫と出会い、結婚、1ヶ月も経たずに子宝に恵まれた。
私の人生は、「大変だったけど頑張ってよかったね」と評されるものになると信じていたのに。
産後4ヶ月、29歳で癌告知。それをきっかけに小2からの親友と仲違い。そして彼女を突き放した2ヶ月後、彼女は自ら命を絶った。
もうこれより落ちる所など無いと、思っていたのに。
もう無理だよ。終われよ、こんな人生。
20代で癌になって、そのせいで喧嘩して友人を亡くして、それからも日常生活を送っているけど、普通の人のフリしてるだけでだいぶイカれてしまったんだ。
そういう、強かに生きているフリももう無理だよ。
Twitterのことを思い出した。そうだ、息子のくるぶしの話を投稿したんだっけ
開くとリプライは増えていた。読む気にもならなかった。そもそも、意味あるのかな。私の病気の話をするアカウント?どうでもいいよな、そんなもの。
私は感情に任せてもうリプライに返事もできないし息子はがんセンターに紹介されてしまって限界だという内容のツイートをした。
プロフィールを開いて、しばらくリプライできない旨をプロフィールにも書こうかと思った。そこに書かれているのは私の乳がんのサブタイプだった。悪性度やリンパ転移の有無まで、術後病理結果を詳細に書いてある。グワッと怒りが沸いた。いったい、それがなんなんだ?どうでもいいだろ私の乳癌なんか。私は一生懸命取捨選択して推敲して書いたプロフィールをすべて消去した。
その数分間で、30人くらいフォロワーが増えていることに気がついた。もうリプもしないし辞めるかもと言っているアカウントを何故今からフォローするんだろう。これから私は、投稿するとしても厭世的な……もっと言えば遠慮無く希死念慮を晒した投稿しかしないかもしれない。そしてその手のツイートは、闘病アカウント内では迷惑になることも知っていた。減らそう。もうこれまでのフォロワーさんにも嫌な思いばかりさせるかもしれない。だってもう私は、生きたいとは思わなくなってしまったのだから。私は「フォローしてても良いことないですよ」という旨のツイートも追って投稿し、スマホを閉じた。
仮に、息子に万が一のことがあって、もし私の病巣が1つ増えるのと引き換えに息子の病巣が1つ消えるとしたら、私は、この全身が転移巣まみれになっても構わない。
私は馬鹿だった。「いつまで息子の成長を見届けられるんだろう」そんなことばかり考えてきた。いいんだよ、見届けなくたって。例え私が明日死んだとしても、息子がその先も健やかに生きていけるならそれでいい。他に望むものなんかない。
がん患者には、「癌になったのが家族じゃなく私でよかった」という殊勝な人もいる。私は違う。誰かに代わってほしいとずっと思ってきた。母でもいい、夫でも…だって息子と一緒にいたいのは誰より私のはずだから。
そんな私が今、息子が助かるなら自分はどうなってもいいし、どうなってもむしろお釣りがくると本気で思っていた。
会計を終えて外に出ると、いつのまにか小雨が外灯の明かりを反射してキラキラ舞っていた。
アパートに着いて玄関を開けると、すでに事情をLINEしてあった夫が「あーありがとうございましたー」と母に礼を言いながら出てきた。母は息子を夫に渡すと、「じゃあまたね」と早々に引き返してきた。母と入れ替わる形で玄関に入るそのとき、母が私の肩を2回しっかり叩いた。
「大丈夫だから。なんもないよ」
私は黙って扉を閉めた。
夫の顔を見て、マスクを外すより先に涙が溢れた。夫を見て安心したのではない。母に肩を叩かれて、あの冬の記憶が鮮明によみがえった。がんセンターでどんどん検査が進み、「もう絶対癌に決まってるよ」と泣きじゃくる私の肩を、母はさっきと同じように強すぎるくらい強く叩いた。さっきと同じように「大丈夫だから」と言いながら。私は何をしているの?ここは袋小路なの?
「つらい」
と呟くのが精一杯だった。夫の前で泣く私を他所に息子は玩具で遊び始めた。
「もう、何がつらいって、あの病院に行って、坊にもあの緑の診察券が出て、今度は坊も一緒に説明のビデオ見せられて、もうそれが嫌。つらい」
泣いても泣いても止まらなかった。癌告知までの地獄の日々。それをまた繰り返すのか。よりによって今度は息子が?そんなことある?
夫はただただ「つらいよね…」と話を聞いていた。つらいし、全部終わったらいいのに、と本気で思った。
「夫くん、あのさ……」
「なに?」
「やっぱいいや。今はいい」
私は病院から帰る途中からずっと考えていたことを口にしかけて辞めた。さすがに酷だと踏みとどまった。しかし夫は私が口をつぐむのを許さなかった。
「何?!言って!やだよそういうの」
何か言いかけてやめる……それは私自身が夫からされたらもっとも嫌なことだった。夫が先を促すのももっともだ。私は意を決してゆっくり話した。
「あのさ……もし、坊に万が一のことがあったら……もちろん、看病は私もやるけど、もしそれが……看病が“終わって”しまったら、もう私は仕事もやめて、治療もやめて、バイトか生活保護かなんかで、誰も知り合いのいない土地に行きたい」
「なんでよ」
「夫くんは若いし、まだ健康な人といくらでも結婚できる。子供も生んでもらえる。私は……もし坊に何かあっても、こんな身体だから5年は子供を生めないから。もう嫌なのだから。終わりにしたい坊がいなくなったら」
「そんなこと言わないでよ。やだよ」
そう答えた夫は、こんな酷な話をされたとは思えないくらい普段通りだった。怒るでも泣くでもなく、またしょうもないこと言ってるなぁと笑ってすらいるように見えた。しかしほどなくしてその表情にフッと影が射し、
「今回は僕もつらいんだよ」
と夫は諭すように呟いた。
そうだ。「子の明日がわからない親」という立場は、私も夫も同じなのだ。私の癌のときのように、私が、私だけがつらいと泣いてすがることはもうできない。
主治医の顔が浮かんだ。豊富な白髪が影を作るニヒルな笑顔と高い鼻を思い出した。主治医と話がしたい。決して「大丈夫です。治ります」などという甘美なだけの気休めは言わない。それでも、20代で乳飲み子を抱えた癌患者になった私に先生は言った。「親は子の成長を見届ける義務があります。生き延びなくてはいけない」。もう終わりだと思った私に、終わらせてはいけないと教えてくれた先生と、話がしたいよ。先生なら、気休めじゃなく、続いていく人生の現実を思い出させてくれる。がんセンターが怖くて仕方ないのに、私はそのとき何よりもがんセンターを求めていた。
とはいえ、一患者が直接主治医を電話に出してもらうことはできない。電話したとしても看護師と話すことができるだけだ。それでも、あの主治医の患者として、主治医と繋がりがある人と話がしたい。
電話番にタモキシフェンの副作用がつらいと偽って、当直の看護師に繋いでもらった。夫と息子と離れ、冷たい廊下にペタリと座ってスマホを耳に当てる。目の前には買いだめしてある麦茶のダンボールがあった。
「どうしましたか?」
看護師さんの声は、いつでも、どの人でも優しい。
「元々、タモキシフェンの気分障害が酷いんですが、実は……」
気づけば私は子供のように、びーびー泣きながら話をしていた。今日のこと、これまでの人生のこと、息子がいるから治療を続けて来られたということ、母親として治療に臨むという覚悟があったから今まで病院では一度も泣かずにいたこと、その全てが今日もう崩れてしまったこと……。当直の看護師が、乳腺外科とは限らない。そして私が知るよりずっとたくさんの仕事を抱えているはずだ。それなのに彼女は、「本当に頑張ってきたんだね」と私の話を聴いてくれた。そして最後に、「眠れるかな?眠れなかったらまた掛けて。話聴くよ」とまで言ってくれた。
私は本当に、ひたすらに素晴らしい、最高機関で治療を受けている。がんセンターへの感謝の念を新たにするとともに、それでも、どれほど素晴らしい病院だとしても、息子には通ってほしくないと改めて思った。私たち癌患者は、フェータルな立場に身をおいているから、こんなに完成された医療を受けられるのだ。
電話を終えて部屋に戻ると、先程よりも疲れた顔をした夫が息子の相手をしていた。
「落ち着いた?」
「うん」
「話聴いてくれた?」
「うん」
夫は私が幾分冷静になったのを確認すると、私を抱き締めた。
「頑張っていこうね。坊がどうなっても、ちゃんと二人で支えていこうね。それにRONIちゃんが死ぬまで別れないから」
「……そうだね、頑張る」
身を離すと、夫がメガネの向こうに指先を差し入れて涙を拭っていた。夫が泣いたのを見たのは、私が息子を生んだ日以来2回目だった。
そこで私はようやく、夫もつらいということを頭ではなくもっと全身で、そして芯で理解した。
全て捨てて逃げようとしていた。だから先に夫を逃がそうとしていた。身勝手で卑怯な自分を私はようやく正視した。そして、夫の中には逃げるという選択肢などないことも。私からも、息子からも、生涯彼は逃げないのだと、深く悟った。
それなら、私ができることは?……せめて、この人の前では、昨日と同じ日常を続けていこう。また一人泣き濡れることがあったとしても彼とは、今までと同じように軽口叩きながら時に本気で喧嘩しながら、気の置けない友人のような2人でいよう。
堪えるでもなく、無理をするでもなく、私の涙は本当に止まった。
何の気なしにTwitterを開くと、30人どころか何百人単位でフォロワーが増えていた。
彼らは何を見に集ってきたのだろう。今の私に蜜の味を感じるのか。それとも本当に息子の身を案じ、私を励まそうとしてくれているのか。両方か。どちらでもよかったし、どちらでなくてもよかった。攻撃してこない限りは好きに見てくれればいいよ、と思った。嗤われていても、嫌われていても、好奇の目に晒されていても、関係ないの。私はただ、息子が健やかであってくれれば何でも良い。
そんなことを考えながらTwitterを眺めていると、突然電話の受信画面に切り替わった。叔母だった。
「もしもし」
「もしもしRONI?大丈夫?」
母から息子の今日の件を聞いたようだった。
「大丈夫ではないかな」
「だよね。でも大丈夫だと思うけどね!だって坊、今元気でしょ?」
「そうだけど、それは私だって乳癌ってわかる直前まで元気だったからね」
私は自虐を込めて笑った。
「それはまぁお姉ちゃん(母)も言ってたけど」
私は叔母の返答に目を見開いた。母が?そうか母もまた、私の乳癌のときと今日とを重ねていたんだ。母は、我が子に異変が見つかり、本当にそれが癌だとわかってしまったという流れを経験しているのだ。母とは反りが合わないし、毒親だと思ってる。だけど今日の私のように母もまた、突然自分の命の重さを塵芥より軽く感じるようになる価値観の変貌を、そして、何を差し出しても惜しくないのに何を差し出そうと願いが叶わない強烈な理不尽を感じてきたのだとしたら……。私が癌になっても、母は私に涙一つ見せたことがない。「代わってあげたい」とか、「丈夫に産んであげられなくてごめんね」などという病気の子を持つ親の常套句すら言ったことはない。母子関係が希薄だからだと思っていた。本当に?ねぇお母さん、私のいないところで、本当はどんな顔をしていたの?
「旦那は?大丈夫?」
と叔母が続けた。
「いや、大丈夫じゃないかな」
「二人してチーンってなってるんだ。まぁいいよ、明日昼間行ってやるよ。夜勤の入りだから」
「うん、ありがとう」
叔母は介護施設で働いている。元気な人だけど50過ぎで夜勤のある体力仕事は楽じゃないはずだ。
電話を切り、もう一度込み上げそうになった涙を今度は無理に引っ込めた。
私は、癌の私が一番つらくて頑張ってると思ってきた。
癌で死ぬかもしれないのは私なんだから、私が一番可哀想だと信じていた。
でもそれは正しかったのか。
息子がこうなってみて私は初めて「患者家族」の立場を思った。
妻に加えて、息子も失うかもしれない夫。
娘に続けて、孫も病魔に冒されているかもしれない母。
今私は、息子がまだ検査の段階というだけで世界が終わったと感じているのに、実際に妻または娘が癌だと突きつけられ、更には孫または息子にまでその可能性を示唆された母や夫の絶望は如何ばかりか。
私は自分自身が癌な「だけ」じゃないか。
告知から1年と8ヶ月、私は始めて自分の癌が怖くなくなった。
今はただ、私が、「日常」を送ろう。癌に「その先」があると身を持って知っている私こそが、平生でいよう。せめて家族の前では。
そして息子が何でもないとわかったらその先は、命続く限り、「“それ”でも息子は生き続ける」という事実を、何よりの宝として暮らそう。
そんなことを考えた、息子2歳1ヶ月の記念日だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?