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酒と私とトラウマと~ウィークリーパクリタキセル①~

「この次の抗がん剤はね、そんなにキツくないから。ここまで来たら後は楽だよ!」
最後の「赤い点滴」(エピルビシン。「赤い悪魔」と呼ばれることも)を吊り下げながら担当の看護師さんが晴れやかに言った。
色とりどりのウィッグで「武装」し、化学療法センターで毎度七五三の子供のようにチヤホヤされたお陰で、私は「抗がん剤やめたい」と思うことなくddEC最終回を迎えた。確かにキツかった。息子を抱き上げられない日が何日も続いたし、夏場だというのに投与後6日くらいは風呂にも入らなかった。が、そんな重い副作用も今回キリだというのに、私は看護師さんほど晴れやかな気持ちにはなれなかった。
「あの、次からやるパクリタキセルって…アルコール入ってるんですよね?」
「そう!でもビールで言うとコップ一杯くらいかな(ウィークリーパクリタキセルの場合)」
コップ一杯のビール…
私はぼんやりとお酒の記憶を反芻した。

19時の居酒屋はまだまだこれから場が暖まる、といったよそよそしさを感じさせた。それともここが個室だからわからないだけで、この柔らかな明かりを透かす障子の向こうには、ワイワイガヤガヤ、週末の熱気が溢れているのだろうか。我々の職業は必ず個室で飲む。どこに「お客様」の「関係者」が潜んでいるかわからないから。個室を取っても尚、普段の互いの呼称は封じ、「◯◯さん」、「◯◯先輩」などと慣れない呼び名を使う徹底ぶり。
まだ新型のウイルスの影も形もなかった昔、我々教職員はこうして密やかな酒宴の席を設けていたものだった。
7年ほど前の夏のある日、私は「1学期お疲れさま会」に出席していた。教員一年目、学年部で催す初めての飲み会だった。それまでも個人的に催される飲み会には幾度か呼ばれていたが、私は当時実家から1時間半かけて通勤していたことを幸いと断りまくっていた。当時の私の職場には「家族会」なるものがあり、面倒見良くノリの良い中年教師が三次会、四次会にも笑顔で付いてくるような若手を集め定期的に会を開いていたようだった。就職したばかりの頃は私のことも「家族」に引き入れようとしてくれていたが、中心の中年教師以外の有象無象とはどう考えても反りが合わないと察し、のらりくらり逃げ回っているうちにとうとう誘われることがなくなった。始めはそんな自分の壊滅的な社交性を恥じたが、「あんな集まりに出ないと仲良くなれない人たちとなんか仲良くしなくていい」という先輩教員(40代独身女性・駅前にマンション購入)の言葉に吹っ切れた。私は中高運動部だったくせに体育会系のノリに耐えられず(卓球部だからかなぁ)、突然が当然の先輩の招集に駆けつける根性もなければ、気持ち良くにこやかに太鼓持ちする愛嬌もなかったので若手女性職員にしては珍しく一瞬でチヤホヤされなくなった。一方、中高大バスケ漬けだったという同期の女性は一瞬で「家族会」に加入し酒漬けになっているらしかった。
とにかく、いつもは先述の40代の先輩教員S先生にピッタリと寄り添いあらゆる同僚の陰口を叩いてるような陰キャ全開の私だったが、S先生も参加するという割りとオフィシャルな集まりだったため「1学期お疲れさま会」には泣く泣く参加することになった。だいたい15名ほどで構成された当時の学年部(2学年だった)のうち半数以上は出席しているようだった。小さい子供を持つ女性以外は当然参加という空気があった。
「じゃあ飲み物頼みましょうかー?」
全員が揃ったのを確認し、先輩教師の一人が明るく声をかける。今思えば注文を取る等の雑用は最年少の私の役目だったのかもしれないが、数ヵ月前までノンサー大学生だった私が酒の席の暗黙のルールなど知るはずもなく、私はお酒を飲むべきか飲まざるべきかで手に汗握るほど緊張していた。他の参加者たちはビールを中心にときどきカシオレやウーロンハイが混ざる程度でどうやら基本アルコールを注文するらしい。仏頂面の陰キャのくせにこういうときは空気を読むのに必死になる私である。覚悟を決めた。
「RONI木(旧姓)さん、何する?」
正面に座った和製KONISHIKIのような学年主任が問うた。
「あ…じゃあ私は……ジントニックで」
「渋いねRONI木さん!」
学年主任は何重にもなった顎肉を震わせて笑った。
思春期の頃洋楽カブレになってから、ビリー・ジョエルのピアノ・マンの影響で私はジントニックを好んだ。いや、好んだ…は嘘で、味だけで言ったらカルーアミルクやカシオレの方が好きだったが、「若い女のくせにジントニックなんか頼んじゃう私」が好きだった。つまり和製KONISHIKIの「渋いね」という反応は背筋がゾクゾクするほど狙い通りだったのである。24歳の私は書いてて悲しくなるイタい陰キャ女であった。
全員の飲み物が到着し(当然この辺の配膳も私はぼんやり見ているだけだった)、和製KONISHIKIが粗びきポークウインナーが連なったような手でジョッキを掲げた。
「じゃあ皆さん、1学期お疲れさまでした!」
カチャリカチャリと近いもの同士でグラスをぶつけ合う。ジントニックの鋭い気泡たちをスッと口に含む。よく慣れた酸味と苦味が慣れない酒席で強ばった喉に流れていく。
1口…2口…その辺りで、両耳から背中にかけて、じっとりと気だるいモヤのような何かがしがみつく。鼓膜に一枚、薄膜の蓋を張られたようにのっぺりとした血流を感じる。やっぱり、ダメか。ダメにしても早い。お冷やをほんの数滴口に含む。よくわからない根菜を煮付けたものをほんの一欠片口に含む。今ならまだ間に合う。もうお冷やでいこう。

そう。私は、下戸であった。
嘗てはザルだった。赤玉ポートワインを2本くらい一人で空けて、さらに缶チューハイも何本か飲めた。
でもある時、家族全員が寝静まる中、海外ドラマを見ながらやめられないとまらない系のスナック菓子をツマミにチューハイを煽っていたところ、不意に激しい動悸と吐き気に襲われた。嘔吐恐怖症でギリギリまで吐くのを我慢する私だが、このときばかりは観念して便器の前にしゃがんだ。しかし、しゃがんだ途端動悸は目が眩むほど強くなった。嘔吐への緊張感が限界に達したのである。吐くに吐けず呼吸ばかり浅くなる。座っていられなくなるのも時間の問題。私は這うように階段を登り自室のベッドに転がり込んだ。浅くなる呼吸に死を意識して混乱していると、眠り込んでいたはずの祖母が私の部屋のドアを開けた。
「やだちょっと…大丈夫かい…?」
「ちょっと!救急車呼ぶ?!」
当時寂れた歓楽街でホステスをしていた母も知らない間に帰ってきていた。
私はよくわからないまま人生で初めて救急搬送されることになった。
オレンジの服を着たガッシリした男たちに毛布を巻いた板のようなもので運び出され、「ゆっくり息してー!ゆっくり!」と半ば怒られながら病院に向かった。到着後も看護師から「ゆっくり息して!それしかないから!」と叱られ、私はこんなに苦しいのになぜひたすら叱られてるのだろうと惨めな気持ちでいっぱいになった。
ただの過呼吸。そう診断された。夏の始まり。ハタチになったばかりのことだった。
当時私は不安障害で大学を休学中で、この件を受けて毎食後の安定剤を更に増やされることになったのだった。

このことがトラウマになったのか、私は「すごく仲が良い友人とサシ」か、「好きな男との情事の前」でないと酷く酔うようになってしまった。つまりよほどテンションが上がっていないと飲めない身体になってしまったのだった。

就職して3ヶ月。「こんなに楽しいことして更にお金までもらえるなんてホントに良いの?!」と思うくらい教師という仕事に惚れ込んでいた。働いてさえいれば、狙ってる男とベッドの脇で飲んでいるときくらいのテンションでいられた。だからたぶん、職場の飲み会ならイケる。……そう思っていたのに。
誤算だった…と細い呼吸で吐き気を逃しながら安易に酒を飲んだ自分を呪った。私はとにかく体調不良を気取られないように和製KONISHIKIやその他の同僚の話を「美しく見せる用の笑顔」を浮かべながら洋菓子店の店先の人形のようにひたすらコクコクと相槌を打って聞き続けた。
だがそこはさすが教師である。相手の顔色を読むのはもはや職業病。ほどなくして和製KONISHIKIのメガネの奥の小振りで真っ黒な瞳が怪訝そうに瞬いた。
「RONI木先生大丈夫?なんかすごく顔赤いけど」
私はしどろもどろになった。
「あー…なんか飲めるときと飲めないときがあって…緊張してると酔いやすいのかもしれません……なんかクラクラしてきて……」
「そうなんだ?なんか烏龍茶とか頼む?」
「あぁ、はい、ありがとうございます」
帰って良いって言ってくれ……。なんで?なんで後一歩気が回らないの?
今すぐにでも駅に向かって歩きたい。夜風に当たりたい……とイライラしていると、私が飲んでいたジントニックに斜向かいから日に焼けた骨張った指が伸びた。
「じゃRONI木ちゃんコレ飲まないね?」
え、とも、はい、とも答える間もなく、ジントニックはまさに「ひょいパク」といった早さで黒焦げのゴールデンライオンタマリンのような男の口内に流れ去った。
いいいいいひぃぃいいぃあぁぁあぁあああ……頭の中を声にならない声が巡る。若いといっても当時は24になったばかり。当然、間接キスが!!!などと騒ぐ生娘ではない。私はただただ「飲み切れない酒を変わりに飲んでもらう」という情けをよりによってタマリンに受けてしまったことに言い様のない恥と無念、恥辱を感じていたのである。タマリンは自他共に認める職場一のチャラ男であった。日に焼けたテニス部の顧問で、例の「家族会」のメンバーである。叱るときは容赦ないので女生徒ウケは大したことがなかったが、同僚ウケはなかなかのものだった。意地悪なお局と一夜限りの関係を持ったとか、バスケ好きの同期がタマリンの遠征先にわざわざ同行するほど惚れて込んでいるとか、女教師との公然の秘密のような浮き名が複数流れていた。要するに私のもっとも嫌いなタイプの男であった。当時私は大学最終学年時に民間企業全落ちとモラハラ彼氏によるストレスから激太りした身体がまだ戻りきっておらず、平成の好色一代男のタマリンにすら興味を持たれなかった。しかしそういう男にありがちな「ちょっかいかけるのが礼儀」みたいな勘違いから申し訳程度の誘い文句はときどきかけられていた。「喪女への情け」というやつである。そういうハンパな気の回し方も大嫌いだった。
なのに…。そんな男の本気の気遣いを受けてしまった……しかもしかも、一生の不覚、末代までの恥、情けないことに私はその軽々グラスを持ち上げた線の綺麗な黒い指先にドキッとしてしまっていたのだった……。

私はこの日以来、職場では徹底して下戸を自称した。飲み会の誘いは忘年会や学年の集まりといったオフィシャルなもの以外はすべて断り、出席しても一口でも飲むと目眩がすると言い張り頑なに烏龍茶だけを啜ることとなった。
その後は夫と付き合いだした頃に夜な夜なカクテルを2杯飲んでから眠る時期もあったが、3年生の担任になってからは仕事に一分の支障も来したくないと完全に酒を断つようになった。母方の家系が肝臓が弱いこともあり、健康のためにもちょうどよいと思ったのである。(その数年後には乳癌になったのだから何の意味もない禁酒だったのは言うまでもない。)

妊娠、出産、わずかな期間の授乳…癌になる直前の経緯もあり、私は本当に長いこと酒を一滴も口にしてこなかった。
そんな私が…コップ一杯のビールを、口からどころか血管に直接ブチ込むのだ。
ddECはどんなに副作用がキツいにしても、そうなって然るべき薬剤だし、正直何の成分からできているかよく知らないから「まぁとりあえずやってみるしかないわ!」という勢いがあった。
でもアルコールは違う。どんなものか知っているし、「ガバガバ飲めたのにいろいろあって飲めなくなってしまった」という自身の体験があるだけ、どんな苦しみが起こり得るかありありとイメージできてしまう。
怖い。ddECより、ずっと怖い。

2021年8月3日、ついにウィークリーパクリタキセルの初投与日が来た。
ウィークリーというのは、1週間に1回投与するということである。それを12回どんどん打っていくことで癌細胞を休ませる暇を与えずに叩いていこうという治療であった。もっと投与間隔を開けて休薬期間を設ける方法もあったが、主治医の長年の感覚として(つまり確かなデータがあるというわけではなく)ウィークリーの方がよく効くように思われる、ということだったのでウィークリーを選んだ。0.000001%だとしても効果を上乗せしたい。死ねない理由がある。
とはいえ、12週間連続というプレッシャーは動悸と手汗を生んだ。抗がん剤中、「吐いたら終わり」という強迫観念が常にあった。嘔吐恐怖症の私である。一度でも吐いてしまったら、たぶん私は、一気に抗がん剤が怖くてたまらなくなる。ddECは吐かずにやれたのだ。せっかく。パクリタキセルは12回もある。毎週ある。怖くなってる暇なんかない。嫌になってしまったらオシマイだ。
思い詰めた私は、パンのヒーローや電気ネズミの頬のような鮮やかすぎる赤いウィッグを被った。 

前記事にも書いたが、真っ赤なウィッグを見た主治医はあからさまに引いていた。いつもはどんなカラーウィッグも好奇心とからかいが混ざった愉快そうな表情で迎えてくれたが、このときばかりは「やりすぎだねぇ……」と苦言を呈した。
「怖すぎて…。パクリタキセルが」
「そうか、それが貴女の感情表現なのね」
あぁ、そう。そう。バレてしまった。オシャレではない。これは武装。
黙り込んだ私に、主治医が笑い飛ばすように言った。
「80歳位の人も打ってるから大丈夫だよ」
そうか。
20代で癌、こんな悲劇はないと思ってたけど…高齢なら高齢で、できない治療や危険な治療があるんだ。
こんな若くしてなってしまった。なら、この若い身体を利用しない手はない。
診察室を出る頃には、こんな恥ずかしいウィッグで来たのを後悔する程度には私は冷静さを取り戻していた。

化学療法センターの看護師たちは如何なるウィッグも否定しないよう心掛けているのか、私の真っ赤な髪とそれに合わせた真っ赤な眼を見て「東京ビッグサイトにいそう!」とはしゃいだ。時に人は否定される以上に虚しくなる言葉があるものである。
いつもの担当の看護師さんが点滴を持って現れた。点滴を用意しながら、改まった口調で話し出した。
「実は私、学生に戻るんです」
「えっ」
「明日から半年、学校に通うんですよ」
「半年?!じゃあ……」
「そう、RONIさんの担当は今日まで」
看護師さんはにこやかだったが、その眉は申し訳なさそうに下がっていた。私の突飛なウィッグをはしゃぐことなく丁寧に褒めてくれる人だった。妙に落ち着いていて理知的な人だった。そんな人だから、更なる高みを目指して学び続けても何もおかしくない。
「そうなんですね!学生生活、楽しんでくださいね!」
20代であること、0歳の子供がいること、いわゆる毒親育ちで頼る先がないこと…初めて会った時、神妙な面持ちで私の話を聞いてくれた。でも下手に同情することはなく、私が取り乱すことなく喋る姿や、ウィッグを楽しみたいという思いなど、前向きな部分をいつも褒めてくれた。貴女がいたから、嫌にならずに半分まで来たよ。だから気持ちよく、明日から、学びたいことを学んでほしい。
アルコールへの恐怖も忘れて、私は看護師さんの明るい未来を願った。

……が、点滴も後半になると、アルコールは確かに私の身体で主張し始めた。あの、鼓膜にもう一枚膜が張る感じ。のっぺりとした何かに後ろへ引っ張られる感じ。懐かしいモヤモヤがじわりじわりと侵食してきたことに気づかないわけにはいかなかった。まずいな。鼓動も早まる。だだ、ナースコールを押すまでの不調ではない……というか、ここでナースコールを押してしまったら、私は戻れない一線を越えてしまう。怖いと感じてしまう。たぶん今後もずっと。
私は必死でタブレットの漫画を捲った。

なんとかすべての雫が落ちきった。アラームを聞きつけ担当の看護師さんが現れた。
「よかった。これでアレルギーなく打てるってわかったね……。この治療が終わったら、もう病院に来るのは3ヶ月に1回とかになるから。もう前ほどの副作用はないし、大丈夫だから」
そう言う看護師さんの声には、患者を安心させるのとはまた別の熱がこもっている気がした。それはどこか、私ではなく看護師さん自身に言い聞かせているようだった。私が置いていくこの患者はきっと大丈夫、治療を完遂できる、きっと…と。
よかった。彼女の前で弱音を吐かないまま、落ち着いた気丈な患者のままで居られて、よかった。さっき、ナースコールを押さなくて、よかった。
「今日までありがとうございました!」
私は爽やかに化学療法センターを後にした。

……のに。
会計を待っている間、私の頭はぐにゃぐにゃした目眩に襲われ、胸は悪心でいっぱいになった。一挙手一投足がつらい。吐く?吐くのか?と思いながらゆっくりゆっくり動くしかない。これはアルコール?ddECでも感じたことのない具合の悪さに私は静かに混乱した。
会計の人か受付の人にでも助けを請おうか?ダメだ。たぶんその記憶が次回からのトラウマになる。それに何より、こんな「一人コミケ」みたいなイカれた格好をした女が「具合が悪いんですぅぅぅ」なんて……それは……ちょっと……いやかなり……恥ずかしすぎる!!
羞恥心で吐き気を押し込めて、私はなんとか夫の迎えが来るまで持ちこたえた。
ドアを開け、崩れるように後部座席に雪崩れ込むと、
「キモチワルイ」
とだけ早口で言ってギュッと固く眼を閉じた。

そしてこのウィークリーパクリタキセル1回目は、私の中でしっかりと「トラウマ」として刻み込まれたのだった。




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