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ddECと私②

妊娠した時、喜びよりも恐れが大きかった。いわゆる待望の妊娠ではなかったからかもしれない。子どもの頃から神経質で、少し気が滅入ることがあると生理が1週間ズレたり逆にいきなり不正出血したり、到底丈夫ではなさそうな自分の生殖機能にずっと自信がなかった。私は恐らく不妊だ。そう思い込んで生きてきた。だから結婚した時、後々どうせ不妊に悩むのだからと、すぐに妊活に入った。しかし初めての妊活で、私は妊娠した。
馬鹿なことだとわかっていて言うが、私は不妊に悩む覚悟をしておきながら、母親になる覚悟はしていなかった。子育てが不安であるというより、私以外の誰かの人生を、私の選択で強制的に始めさせてしまうということに重圧を感じた。そのプレッシャーの重みは、腹の重さに比例してどんどんズッシリとし、いざ息子が産まれ腹が空になっても、軽くなることはなかった。ただ、腕の中でモソモソと動く赤ら顔の彼を見て、母になる覚悟ができていなかった私でも、きっとこの子がこれから十数年…あるいは何十年かけて、私を「母親」にしてくれるのだろうと思った。
息子が産まれてからずっと、私は彼を「他者」だと思うことを心掛けてきた。尊重すべき他者。自分とは別の人格を持った他者。私の付属品ではない、彼自身の人生を持った他者。他人様の人生を、私の勝手で始めさせてしまった。だから私は彼が自立するまで彼の人生に責任を持つ義務がある。
母として子を愛しく思う気持ちよりも、私はこういった使命感に燃えていた。それは私が、母から人生の序盤は猫可愛がりされていたのに、思春期を迎えて可愛い盛りを過ぎたら途端に放任されてしまったという苦い母娘関係で育ったせいもあると思う。私は母のようにならない。ペットのように可愛がったりしない。息子は可愛がる対象じゃない。責任を持って彼が彼の人生を大事に進んでいけるよう、陰ながらやれることを全部やってやりたい。

癌は、そんな大層な決意に燃える若い母親のことでさえ、お構いなしに襲う。
息子との十数年、数十年など無いのかもしれない……それを知ったときの絶望は今でも嫌になるほど生々しく思い出せる。

2021年6月2日。初めての抗がん剤から一夜明けた朝だった。
目が覚めて、意識がハッキリするより先に、自分が昨日確かに抗がん剤を打ったことを思い知らされた。喉元から胃にかけて、ギトギトした質の悪い油がまとわりついているような悪心。起きた瞬間から車に酔っているようだった。身体を起こそうとすると、水に濡れた衣服でも着ているかのように重い。デカドロンがほしい。私はあの可愛らしい5角形の錠剤を恋する相手のように思い出した。夫も息子もまだ寝ている。日ごろ朝御飯や夫の弁当を作らない悪妻の私は大抵8時過ぎに息子と同時に起床していた。しかしこの日、目覚めたのは6時過ぎ。そうか、私はこのまとわりつくような悪心に起こされたのか。とにかく薬を飲もうと夫や息子を起こさぬようベッドを抜けると、頭から肩にかけてグニャァ…というダルさを感じた。めまいとも取れるその感覚に悪心が余計に増す。
愛しのデカドロン始め諸々の薬をラムネ菓子のようにまとめて一気に口に放り、飲み下す。あまりたくさんの水を飲むと喉に上がってくる感覚があるので、私には最小限の水でより多くの錠剤を飲み込む悪癖がある。薬を飲むと、気持ちだけはいくらか落ち着いて、頭も少しクリアになった。冴えた頭で考える。
うん、この悪心を抱えながらマトモに育児をするのは無理だ。咄嗟のときに素早く動くこともできないだろうし、オムツを変える度に吐き気を堪えることになる。もっと完璧に副作用を抑え込まなければ。
Twitterの影響で、抗がん剤の副作用対策には様々な吐き気止めがあるらしいと勘づいていた。さらに私に処方されているアルプラゾラムという安定剤が、副作用対策の頓服としてはあまりメジャーではないことも何となく気づいていた。
主治医は「抗がん剤は気持ちが悪くなると最初から決めつけてるからその通りになる。自分で自分を気持ち悪くしちゃってる」なんて精神論のもとに安定剤を出しているけれど、すべての副作用が「病は気から」とは限らない。ちゃんと吐き気そのものに特化した薬がほしい。もらおう。
私はがんセンターに電話をかける決意をした。決意、というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、悪心を抱えたまま人と喋っていると、徐々に喉を締められていくようにどんどん吐き気が出てくる。手短に話せるよう台詞を用意しておくのはもちろん、悪心が軽い時間を狙って電話をかけなければならないのである。どこかに電話をするというたったそれだけの日常の一コマさえ、念入りに準備をしなければ不安で仕方なくなる、そういう身体になってしまったのだ。

そのタイミングは、昼過ぎに訪れた。デカドロンも効いていて、息子は昼寝をしていた。今しかない。私は初夏の厳しくなり始めた日差しを背に、窓辺でダイヤルを押した。
電話は交換手から化学療法センターの看護師に繋げられた。聞いたことのあるような無いような声が「どうされました?」とハキハキ問いかける。そんな看護師さんとは対照的に、手短に済ませなければというプレッシャーから私はしどろもどろになりながら訴えた。
「あの、吐き気が強くて……」
「昨日抗がん剤打ったんですよね?吐き気を止めるアプレピタントというお薬と、デカドロンというお薬が出てますよね?」
私は些かムッとした。出てるし飲んでる。そして効いてる。でもこれらの薬が、次の抗がん剤までの2週間分処方されているわけじゃないのだ。これらの頼れる強い吐き気止めがなくなってしまったあとも、私は育児を続けなければならないし、それは24時間営業だ。イライラなのか悪心なのか、競り上がってくる胃を深い呼吸で抑え込みながら私は続けた。
「それはあの、もらってるし飲んでるんですけど、それが切れたあとが……一応アルプラゾラムも飲んでるんですけど……」
「吐いちゃったりしてますか?」
「吐いてはないです。吐くほどではないんですがテキパキ動けないですね。だから吐き気止めの頓服を増やしていただきたいのですが…子どもの世話をいつも通りやりたいんです」
遂に一番言いたいことを言えた安心感からか、私の競り上がっていた胃の腑はスーッと引いていった。よし。これで明後日のジーラスタのついでに吐き気止めをもらえる。…しかし受話器からは、これまでのハキハキしたテンポの良さが消え失せた重々しい言葉が帰ってきた。
「厳しいようですが、いつも通りの生活ができるとは思わないでください」
言葉を失った。時が止まるようだった。何も返せないでいると、看護師さんは「厳しいようですが」という言葉通り厳しい口調で続けた。
「お子さんは大事ですが、今はお母さんご自身の身体が一番大事です」
「あぁ……まぁ……そうですよね……」
身近な人の手をもっと借りるようにと言い残し、看護師さんは電話を切った。
悪心も、だるさも、めまいも、何も感じなくなった。凪いだ心の奥から、痛みが沸いてくる。スマホを握りしめたまま、滲み出す涙を感じて動けなくなった。白熱の陽光を浴びて、眠る息子の頬が丸く輝いていた。穴が空くほど、その頬の白さを見つめた。
私は抗がん剤を舐めていたのだ。癌を舐めていたのだ。
オカアサンゴジシンノカラダガイチバンダイジ…
子どもを一番大事にするのがお母さんじゃないの?そんな当たり前すら通用しない。自分より子どもを一番大事にするはずのお母さんが、お母さん自身の身体を一番大事にしなければならないという、この遣る瀬ない異常事態。あぁ、私はもう普通のお母さんじゃないのだ。子どもを差し置いて自分を大事にせざるを得ない身体を持ったお母さんなのだ。子どもを一番に大事にすることすら許されない病を今、私は抱えているのだ。そしてこの光の中ですやすやと眠る彼は、そんなお母さんを持って産まれてしまったのだ。
彼の人生に責任を持つ……等と大言壮語を唱えていたくせに、どこのどんな母親でも当たり前にできると思っていた「自分より子どもを優先する」ということさえ叶わない親になってしまった。人並みの親であろうとすることすら、命と引き換えになってしまった。悔しさ、むなしさ、情けなさ、罪悪感が襲った。
でも私はその更に奥のものにも気付いていた。それは安堵だった。私はまず私を大事にしていいという安堵。いつも通りに育児ができない自分を責めなくていいという安堵。この恐ろしい病に徹底的に向き合っていいという安堵。
そして安堵する自分がまた許せなくて、滲むままにしていた涙をこぼれさせた。

看護師さんとの会話を母と夫にも報告したことで、彼らのサポートは手厚くなった。そして新たに叔母もサポート要員に加わってくれることになった。
悪心を堪えながら横になり、自分以外の大人が息子の世話をする姿をただ眺めた。私はお母さんなのだろうか。子どもを抱き上げることもできないで、私じゃなきゃダメだという場面もなく、その気になれば100%傍観していることが許される。私は息子にとって、誰なの?
考え出すと滅入りそうだった。主治医の言葉を思い出す。「子どもがいる以上、親としては何がなんでも生き残らなければなりません」
そう、私は、この先もお母さんでいるために、今お母さんを休む。

3日目にジーラスタという白血球を増やすための薬を打ったとき、看護師さんは吐き気のピークは恐らく今日までだと言った。
「後はどんどん回復していって、その繰り返し。続けられそう?」
「はい。悪阻に比べたら吐き気止め飲んで良い分楽ですよ」
私は昨日しどろもどろ電話をかけた人間と同一人物だとは思えない頼もしさで笑った。悪阻、という言葉を敢えて出したのは、息子の世話がままならず風前の灯となっていた母としての矜持を何とか取り戻すためだったのかもしれない。もっと言えば、「私は今こんなふうにがん治療をしてるんですけどね、実は帰れば一児の母なのです」と、誰にともなく言い聞かせたかったのかもしれない。一番は、自分に。

6月15日、2回目のddECを打つ日が来た。血液検査を済ませ、ひんやりするアルコール綿を抑えながらスマホをチェックする。投与した日から毎日副作用をスマホにメモしていた。看護師さんにはああ言われたけれど、一応ダメ元で主治医にも吐き気止めをお願いするつもりだった。ジーラスタの看護師さんが言う通り、確かにあの日からだんだん体調は上向いたが、「すごく具合が悪い」から「ちょっと具合が悪い」になっただけで、息子の世話をするスピードが亀のようであることは代わりなかった。ちょうどこの前日に息子が初めて捕まり立ちをし、嬉しい反面今後の育児が更に大変になることを憂いていた。副作用を確認し、これは言おう……これも一応……これはいいか……等と考えていると呼び出し受信機が鳴った。

「これは打てないね」
椅子に座るか座らないかのうちに、主治医が言い放った。
「えっ」
動揺する私の前に、主治医は血液検査の結果を差し出し、小学生以来ついぞ目にしなかった懐かしの赤青鉛筆でいくつかの数字に線を引いた。
「肝臓の数値がこんなに上がってる。これじゃとても打てない。今週は無し」
まさか。血液検査の結果や体調によって抗がん剤が打てないことがある……いわゆるスキップの存在は知っていた。でもそれって、抗がん剤を何度か重ねて徐々に身体が弱ってからのお話じゃないの?私まだ、1回しか打ってないよ?
「え、じゃあ、どうするんですか…」
消え入りそうな声で尋ねた。
「肝機能を戻す薬を出します。それを飲んで様子見て、まぁまた来週ですね」
私の治療は、強い抗がん剤を短いスパンでどんどん打って、癌細胞を休ませないことに意味がある。何も打たずに1週間?それは癌細胞にはバカンスじゃないか。私の頭の中で、身体の至るところにムクムク育つ紫色のイガグリのようなイメージが湧いた。
「えっ。大丈夫なんですか?そんな、1週間あけちゃって」
「あくまで補助治療ですから。これが打たないと命に関わる状態だったら、この数字なら無理に打ったかもしれないけど。延命のための治療じゃない。再発予防です。だから安全を取りたい」
補助。再発予防。これらの言葉に少しホッとした。抗がん剤が命綱、という状況ではないのだ。私の戦いにはまだ先が用意されているのだ。それでも、今後肝機能が戻らずに結局中止になってしまったら?私の悪性度の高い癌は必ずまたのさばり始めるだろう。先生だって言ったよね?「無治療だと大変危険」って……。
訴えようと思っていた副作用のことなどすべて忘れ、私は懇願するような口調で聞いた。
「肝機能を戻すために、私は何をしたら良いんですか…?」
「えぇ?」
意外な問いだったのか、愚問だったのか、主治医は少し茶化すように笑って答えた。
「動くと抗がん剤が回りすぎちゃって良くないんですよ。なるべくゆっくりしてください」
それはあまりにも、心当たりのありすぎる回答だった。癌だからって、人並みの母でいられないのは嫌だ。看護師さんに叱られて尚その思いは消えなかった。体調が戻ってくればくるほど、私は家事に育児にがむしゃらになっていたのだった。「ちょっと具合が悪い」身体を引きずって。なんて愚かなのだろう。せっかく治療をしているのに、自ら未来を捨てようとしているみたいだ。息子との数十年、何十年先を、私は母親としての矜持などというもののために無意識に捨てようとしていた。
抗がん剤を打てない不安、がん患者の癖に動き回ってしまった自分への後悔、叱ってくれた看護師さんへの申し訳なさ。様々な感情が迫る度、私の眉は頼りなく震えた。主治医の前では泣きたくなかった。告知をされても、片乳になっても私は、「でも頑張ります!」と笑うタイプの患者だったから。
「副作用はどうですか」
私の荒ぶる心中を知ってか知らずか、主治医は淡々と聞いた。私は気付けば、スマホにメモったことではなく、あの日看護師さんに電話をしたこと、「お母さんご自身の身体が一番大事」と叱られたことを打ち明けていた。
「それはその看護師の言う通りだねぇ…。今は非常事態だし。でもそんなことで悩むなんて副作用軽い方だと思うよ」
「確かに」
途中まで読みかけてそのままの闘病記を思い出した。そうだ、便器を抱えてトイレで寝る人だっているのだ。私は癌になったくせに、まだ自分の身体を過信している。その「丈夫さ」を傲っている。なんて馬鹿なんだろう。私を生かすために去っていった右乳にも申し訳ない。
ぐるぐると多種多様な自己嫌悪で疲れ果てているうちに診察が終わった。
「じゃあまた来週」
「はい、ありがとうございます」
どんなときでも「でも頑張ります!」と笑ってきた。同じ笑顔を何とか作り、主治医に会釈をした。立ち上がった私に主治医が一言付け加えた。
「この1週間は、育児に専念できますよ」
変な質問をして茶化すときとは全く違う、目尻の下がった、西日のような笑顔だった。
「はい、そうですね」
笑顔で答えた私の声は、湿気を含んで揺れていた。喉の奥がキュッと痛む。もちろん、それは副作用ではない。

私が抗がん剤をスキップしたのは、これが最初で最後であった。明らかに白血球が減り、「次回は絶対打てないよ」と宣言された時でさえ、私の白血球は驚異の回復力を見せ、減薬はしたもののもう立ち止まることはなかった。
「細胞が丈夫なんですね」
「癌になったのに?」
「それは関係がないんですよ」
「そうですか、あはは」
私にも自然な笑顔が戻った。


先日、息子に産まれて初めての水遊びをさせた。
窓もない薄暗い賃貸の風呂場。ぬるま湯を10cmだけ張って、水鉄砲やらバケツやらを放り込んだ。
息子は初めての水遊びなのに、どんなに顔に水がかかっても泣かない。
刺激が足りないのだろうかと、私は一緒に湯船に入り、太い足を踏み鳴らした。どぽんどぽんという音と共に高く跳ねる飛沫に、息子の歓声が上がる。
不思議だ。この足の重さは、水の抵抗、それだけ。1年前の鉛のような副作用の重さとは別物なのだ。
私には身体がある。だからこうして去年はできなかった水遊びをやってやれる。去年は夏が来たことさえ遠い世界の話のようだったのに。
水に濡れた私の太ももを、息子が不思議そうに舐めた。私と息子、別々の人間で別々の人生だけれど、この夏は今こうして重なっている。
失った季節を彼と共に取り戻す日々が始まる。



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