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入院の日

今日のようなひたすら明るい青空だった。春の行楽日和とはこのこと。
お出掛けしたくなるようなお天気の中、その日の空の色と同じような明るいブルーのスーツケースを引きずった母を従えて、私はがんセンターの入り口を、胸を張ってくぐった。胸を張らなければ何かに負けそうだった。
「おはようございます!付き添いですか!」
係員が爽やかに問いかける。
「いえ、私が入院です!」
爽やかに答える。できるだけ明るく爽やかでいなければ何かに負けそうだった。
2021年4月12日、私は右乳房全摘手術を受けるために入院した。
人生で2回目の入院だった。


初めての入院はお産のためだった。
お産は壮絶だったが、お産とはたぶんどんなに健康体でも壮絶なものであり、「これは無理かもしれないな…」と思うほどの苦しみは3時間くらいだった。安産だった。
2020年10月28日に息子は産まれた。
秋の橙色の西日の中で、「知り合ったばかり」の息子を照れくさいようなよそよそしい気持ちで世話をする。こんな私が、他人の人生を始めさせてしまった。大きなプレッシャーと、確かな幸福。
私にとって「入院」はそういう記憶だった。
その半年後に、癌で入院するとは知らなかったから。


「運が良ければ4月上旬だね」
「運が悪ければ?」
「ゴールデンウィーク明けになっちゃうかもしれない。でもコロナで受診控えが起きてるからね、いつもよりは随分早く手術が受けられるんですよ」
そう言われていた私の手術は4月14日になった。
上旬ではない。でも、4月中ではある。
運が良くも悪くもない。
結婚して1ヶ月で息子を授かったものの、結婚して約一年後には乳がんが見つかった。
良いんだか悪いんだかわからない私の人生らしい手術日程だった。


入院の日までは慌ただしかった。
夫が転勤したため、引っ越し準備と入院準備が重なった。
そのストレスもあり、私は買い物に走った。
「入院に持っていくものは全部新品が良いの」
毎日届くダンボールに辟易する夫に私はそう宣言した。
現代医療を信用していないわけではないが、全身麻酔から醒めない可能性はゼロではない。つまりこの入院の間に私の人生が終わる可能性もゼロではないのだ。そんな重大な局面である。気に入ったもの以外は目に触れたくない。
スーツケースを買い、パジャマを買い、コップを買い、抱き枕がわりのぬいぐるみを買い…買い物自体は楽しかったが、常に最悪の事態は頭から離れなかった。
スーツケースは、フラミンゴのようなピンクの可愛らしいものが欲しかった。でも。もし私がもう帰らなかったら…?今回の手術を乗り越えても、近い将来病魔に完敗してしまったら…?スーツケースは安い買い物ではなかった。いずれ息子も使えるように、爽やかなライトブルーのものを選んだ。
海外旅行用の、自分の腰よりも丈の高い大きなスーツケースだったが、「お気に入りの新品」ですぐいっぱいになった。


入院の日の朝。母に送ってもらうため、母の家に前泊したのだが、目が覚めたら夫はもう出勤していた。
隣には一斤の焼きたてパンのようなふわふわでコロコロとした息子が目を開いてこちらを見ていた。
息子は当時5ヶ月。歯茎の奥底にうっすらと半透明な乳歯が覗いていた。私が退院する頃には、この歯はすっかり姿を現すのだろうか。10日程の入院だが、赤ちゃんは10日でもどんどん成長する。そして私のことも忘れていくだろう。
母は息子をとんでもなく可愛がっているし、息子もまだ誰が誰だかわかっていない。息子が寂しがる心配はなかったが、だからこそ私の寂しさは行き場なく増していった。
何度も抱き締め、何枚も写真を撮った。泣きはしなかった。泣いてしまったら何かに負けそうだった。
家を出る時間の20分前に愚図りはじめ、寝かしつけたらほどなくして目を閉じた。起こさないようそっと扉を閉めた。寝ていてくれて良かった。起きている息子に見詰められながら家を出るのは辛すぎるだろうから。


大きなライトブルーのスーツケース。それにすら収まらなかったものを入れたボストンバッグ。
がんセンター駐車場から母はスーツケースを持ちたがった。まだどこも切ってない身体だ。50代の母より20代の私の方が力があるはずなのに。
だけどそれでもスーツケースを持ちたい母の気持ちはよくわかる。私もまた、一人の母親だから。
子が自分にはどうにもならない次元の困難に直面したとき、親なら自分ができる範囲のことはすべてしたくなるだろう。
私は母がしようとするすべての親切を黙って受け入れることに決めていた。

病室は二人部屋だった。ドラマで見るような真っ白な部屋ではなく、全体的に柔らかなグレージュだった。ベッドに腰かけ、母と二人で看護師の説明を待っていると70代くらいの老女が入ってきた。
「◯◯です。こんにちは」
同部屋の患者さんであった。挨拶を返しながら、優しそうな人で良かったと安堵した。しばらくすると老女はまたどこかへ出ていった。
それを見計らったように母が思いつめた顔で口を開いた。
「ねぇ個室じゃなくて大丈夫なの?」
個室にするお金なんかないと口にしようとすると、それより早く母が続けた。
「個室にしたら?お母さん払ってあげるから」
個室は1日10,000円。10日以上入院するかもしれない。でも、「大丈夫なの?」と言われると、途端に不安になった。
「じゃあ個室にする」
ファミレスでメニューを決めた子供のようなぶっきらぼうな口調になる。10万を越える金額を母に払わせる気まずさと、母を思って遠慮するという余裕がない自分への苛立ちが私の口調を幼くさせた。

個室には大きな窓があり、日差しに照り映えた白いシーツが爽快な気持ちにさせた。窓際にはテーブルセットもあり、専用のシャワーとトイレもあり、二人部屋との差に驚いた。日々の育児に疲弊していたこともあり、この部屋で10日も過ごせると思うと気づけばワクワクしていた。
やっぱり個室にして良かったねなどと母と囁き合っていると、看護師が現れた。
施設のことやPCR検査の説明を受けたあと、話は手術のことに移った。
胸を取るということについて、同じ乳がん患者でもその感情は様々である。私はというと、とにかく癌が恐ろしく、そんな恐ろしいものが巣食った乳房には何の未練もなく、早く取り去ってしまいたいという気持ちが強かった。手術に関しても、全身麻酔から無事に醒めるかどうかは多少気がかりだが、お産の記憶がまだ新しかったからか、多少の痛いことは乗り越えられるという自負があった。
そういうわけで私は職場の会議と同じように、大事なことは聞き漏らさないように、想像の範囲内のことはちゃんと聞いていると見えるように、看護師の話に落ち着いて相づちを打っていた。
「以上になります。何か気になることとかありますか?」
全くない。早く手術を受けたい、それだけ。
そう意気込んでいたら、それまで窓際のテーブルセットで大人しくしていた母がおずおずと口を開いた。
「あの、痛いんですよね…手術の後って」
笑われる――――咄嗟に一緒に笑う準備をしたが、看護師さんは優しく
「そうですねぇ…でも痛み止がお出しできますからね」
と答えた。その優しい物言いで安心させようとしているのが、私ではなく母であることは明らかだった。
何を言っているんだろう、母は。右の乳房を根こそぎ取るのだ。29年間この身体にしっかりと根を張り、それなりに揺れてきた肉塊を。痛くないわけないだろう。それでも生きられるなら、取る。覚悟が決まった私にとって、母のこの発言は愚問でしかなかった。
昔からこういう余計な一言を挟む母だった。その度に笑ったり呆れたりしてきた。
けれど私はこのとき胸が締め付けられた。なぜ、今なんだろう。なんで親になってしまってから、こんなことになったんだろう。親にさえなっていなければ、母のこんな愚問は昔のように笑ってバカにして忘れることができたのに。だけど私はもう、知ってしまった。親は子を思えばバカにならずに居られないことを。
母との関係はよくない。だからこそ、母に想われるのが苦しかった。

看護師さんが去ると、母は財布を取り出した。
「テレビカード買ってあげるよ!」
入院中、テレビだけではなく冷蔵庫も洗濯機も通称テレビカードと呼ばれるプリペイドカードを使って利用するということだった。1枚1,000円。1枚で冷蔵庫なら2日持つかどうかという話だった。
母と券売機に行くと、母は1,000円札を入れてはカードを取り出すのを繰り返した。何回かやっていると、券売機は突然緑のランプを点けたまま動かなくなった。
「なにこれ!お金入んないじゃん!」
「こんなに連続で買いに来る人いないからじゃないの?!看護師さん呼んでこようか?」
このときばかりは流石に母に呆れて辺りを見回していると、券売機がまたなんとか稼働し出した。
計5枚、母はテレビカードを寄越した。
母が帰ると、私はペラペラのテレビカードを枕元の引き出しのさらに奥の貴重品ボックスにスルリと入れて鍵をかけた。

母がいなくなり一人になるとようやく落ち着いた。入院初日のこの日はコロナの検査だけで、陰性だとわかれば後は何もないという。息子が産まれて以来こんなに何もしなくて良い日はなかった。充実した売店、広い庭園もある。陰性がわかったら何をしよう。私は浮き足だった。
静かにワクワクしていると、看護師さんが現れた。
「コロナはね、陰性だって」
「あぁ、良かったです」
私はさらりと愛想笑いをした。
看護師さんは2人連れで、一人は40代始めくらい、もう一人は自分より若そうだった。
「ちょっとお話ししてもいいですか?」
そういいながら年配の方の看護師さんがベッド横に来た。
「あちらはこの4月から就職したばかりの新人なんですよ」
新人さんは固い笑顔で頭を下げた。途端に、私が散々面接指導をし、泣きながら看護学校合格を勝ち取った教え子たちと彼女とが重なった。
「そうなんですね!頑張ってくださいね」
自分の声が数段明るく、そして何より「教師」になったのを感じた。背筋が延びた。就職して2週間、まだ20代で赤ちゃんがいる癌患者に出くわすのも初めてだろう。私が辛そうにすれば、「可哀想な患者さんに会った」という暗い記憶が彼女にこびりついてしまう……教え子もいつかこんな初々しいナースになる。そう思うと、今思えば不必要なほどに新人ナースに気を遣ってしまった。
「何か不安なことってある?」
年配の看護師さんが穏やかに問いかけた。なるほど。今から私は「心のケア」をされるんだな。瞬時に察して身構えた。私は努めて明るく爽やかに、でも嘘がないように、
「息子がまだ小さいのでいつまで生きられるかは不安です。でもほんとそれだけです。胸に執着ないですし」
と笑った。私がどんなにカラリと笑っても、看護師さんのしっとりとした姿勢は変わらなかった。
「おっぱいは?あげてたの?」
「私全然母乳出なくて!2ヶ月とかで断乳したんですよ!だからしこりに気づいて」
私はだから本当に乳房は要らないと胸を張った。
そんな私に看護師さんが続けた。
「そう…。じゃあ病気に気づけたのも、ある意味息子くんのお陰だね。それだけじゃない。ミルクもちゃんと飲んでくれてよかったね。母乳以外受け付けない子もいる…アレルギーの子も。でも息子くんはゴクゴクミルクを飲んで大きくなってくれて、そういう意味でも息子くんに助けられているよね」
「そ、う…ですね。それはほんとに、そう思います」
眼球に熱く、グッと圧がかかるのを感じた。危ない。私は看護師さんとは反対側のテーブルセットを見詰めた。泣いてはいけない。新人さんに暗い気持ちになってほしくない。これからという春なのだ。何より今泣いたら、何故だろう、もうこの病気には勝てなくなる。そんな気がした。
なんとか泣かされることなく、私は開放された。

庭園に出ると、すっかり西日の時間だった。春の淡い日差しに木々や池がキラキラしていた。
手術は明後日だ。こんな胸とはもうおさらばだ…
私の頭の中に、耳を塞いでしまいそうになるくらい、「三文小説」が流れてくる。
子供が産まれてすぐ、20代で癌。陳腐な、安易な悲劇。まさに三文小説のような人生をいま、生きている。
私は西日と、再び熱くなった眼球を厭うように瞬きをした。

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