【現代ホラー異聞録 山神の血印 ~おはなしの集う山~】(8話目/全10話)
異変 2
「ひいいいっ! 嫌だ! なんで! なんでだよ!」
床に手の甲を叩きつけ、押しつけて擦った。自分の手が痛いだけで、指が取れた感触は無かった。
がくがく震えながら手の甲を見ると、手首まで出てきた子供の手が石原の手にしがみついていた。
「わああああ!」
腕を振り回しながらキッチンへ駆けた。
左手で握った果物ナイフの切っ先を子供の手に向けた時、親指側の手首にぽつりとある茶褐色の薄いほくろに気付いた。
六山も同じ場所にほくろがある。石原は勇郎の手だと思った。
子供の頃、仲間外れにされてぐずっていた自分の手を引いて、たくさんのオモチャがある勇郎の部屋に招いてくれたあの手だ。
「なんで」
小さな指先がぎゅっと力を込めてくる。
恨んでいるんだろうか?
でも、見捨てたわけじゃない。
「だって、なにもできねえじゃん、俺は! どうすればいいんだよ! なにか出来たかよ! 俺のせいかよ! 俺がイワナ届けようって言ったからかよ! でもお前が彼女できたなんて自慢するから! しかも霊能力持ってるなんて変な女でさあ! だから助けようとしただけなんだよ!」
「えー、ひどーい」
また瑛茉の声が出てきた。しかもくすくす笑ってる。
「うるせえ! 勝手にしゃべるな!」
「でもさあ、イサくん自慢してないよね? 事実を報告しただけでしょ?」
「うるさい! 黙れ!」
「うらやましかったんでしょー? 君は見た目も性格もフツーのつまんない男なのに、自分より背が高くて顔も良くて家もお金持ちでめっちゃくちゃ可愛い彼女までできちゃうようなイサくんと親友だなんて、惨めだよねー」
「違う! うるさい! 黙れ!」
勇郎に一番知られたくない事を笑いながら言われて許せなかった。
これ以上、何も言わせたくなかった。
両手で握ったナイフを大きく開けた口へ突っ込んだ。
切っ先が唇を抉り上顎を削ったが、それ以上奥へは届かなかった。
手の甲から生えた手が石原の顔を掴んで押し止めていた。
勇郎が止めてくれているように思えた。
「ほらあ、そういうとこだよー。イサくんはいつでも君を大事にしてるのに、君は自分のことばっかりだもんね」
くすくすと笑う声は左から聞こえた。
顔を上げると姿見に映った自分の左頬に口があった。形が良く柔らかそうな女の口。顔のパーツがぐちゃぐちゃに乱れていた勇郎の顔を思い出してぞっとした。
「イサくんとお揃いがいいんでしょ?」
口の下に目が現れた。楽しそうに微笑む女の目だ。
「やめろ! 出てくるな!」
血まみれの口で叫び、左手で持ったナイフを女の目に突き立てた。ぶちゅりと嫌な手応えがあった。
「うわ、最悪。イサくんはそんなことしなかったよ。だから君はモテないんだよ」
「うるせえ! 化け物にモテたいなんて思ってねえよ! 消えろ!」
ざくざくと女の口を切り刻んだ。
床についた右手の上で子供の手はバタバタと暴れていた。やめてくれと言っているような気がしたが、無視した。
顎に出てきた鼻もそぎ落とし、右頬に出てきた目も潰した。
痛みは無かった。やっつけてやったという高揚感で笑えてきた。
「ひ、はははっ! なんだよ、たいしたことねえじゃん、化け物! ざまあみろ!」
口の中に溜まる血を吐きながら笑っていると、ぽんぽんと膝を叩かれた。見ると右手の甲から生えた手が何かを訴えるように叩いていた。肘まで出てきている。
見慣れた六山の手だと思うと、不思議と怖くはなかった。
「勇郎、あの、俺さ、本当に見捨てたわけじゃねえんだよ? わかるよな?」
小さな手がぎゅっと膝を掴んできた。同意してくれたと思った。
その手に石原の顔から流れた血がぽたぽたと垂れた。
「あ、ごめん」
シャツの裾で拭いてやろうとしたが、血は吸い込まれるように消えた。ぽかんと開いた口からまた垂れた血もやはり消えた。
左手で幼い六山の手に触れようとしたが、素通りした。
触れることはできないが、血は消えていく。わけわかんねえな、と思って石原は笑った。
「意味不明過ぎるって。まじ。つうかさあ、俺、明日からどうすんだよ、これ。手が三本ってありえねえだろ。顔もさあ、こんな怪我してちゃ客商売なのにさあ」
「気にするような顔じゃないでしょ」
瑛茉の声がした。びくりと震えて鏡を見たが、顔にはいない。
「ほんとにあんたは怪我ばっかりして」
母親のため息まじりの声がした。下から聞こえた。左右それぞれの太腿に唇の形が見えた。夏用のカーゴパンツの薄い生地の下で二つの唇が話している。
「人の顔めちゃくちゃにしてさあ。そういうとこだよ、全然優しくない。だからダメなの」
「あんたは勇郎くんみたいに何でも出来るわけじゃないんだから。真似ばっかりしないでよ」
「ってかさ、旭うざくね? あいつなんでこっちが好きなもんの話するとソッコー真似してくるわけ?」
「あぁー、わかる! そういうとこ有るよな。服とか音楽はまだいいけどね、モノマネっていうか、しゃべり方とか? そういうのもやるよな、アイツ」
「ウケ狙ってんのかな、あれ?」
「知らねー、つか面白くねえ」
「あーでもこうやって暇潰しのネタ提供してくれっからいてもいいけど、うぜーよな」
「わかる」
「それな」
ゲラゲラと笑う高校時代のクラスメイト達の声は腹から聞こえた。
怒りよりも激しい羞恥と屈辱感で頭に血が上った。
中学までは地元のメンバーがほとんど持ち上がりで同じ顔ぶればかりだったが、高校では違った。
六山ともクラスが分かれたことで、長年置かれていた自分のポジションを変えたいと思った。
仲間外れのよそ者では無く、六山のおまけでも無く、石原自身を見てくれる友人を作ろうとした。
クラスメイトに積極的に話しかけて交友関係を築き、休日に一緒に遊びに行くグループも出来た。
話題に乗るために、誰かがハマってると言ったものはジャンル関係なく手を出して話を合わせた。
対等な仲間達と毎日楽しく過ごせるのが嬉しかった。
だが、大学に入ると付き合いは薄れた。同級会やグループの集まりへの誘いもほとんど無かった。
自分が空回りしていたことは何となく察してはいた。それでも、高校時代のあの楽しかった思い出のすべてが、自分の独りよがりだったと認めたくはなかった。
「うるせえ! 化け物! 黙れ! 黙れ! 黙れ!」
太腿を突き刺し、腹を切り、しゃべり続ける幾つもの口を抉り取った。
「バカにしやがって。ちくしょう。なんなんだよ、なんで俺ばっかり、俺が悪いのかよ! ちくしょう!」
「よそ者だからだよ。印を入れなくちゃ」
「そうね。印があれば勇郎くんみたいになれるかもね」
「肝心なとこがズレてんだよな」
「そうそう、印を入れなくちゃ、本当の仲間じゃないよな」
頭の中に法被の背中に書かれていた印が浮かんだ。
あれのせいか。
あれが無いからこんな事になったのか。
だったら入れてやる。借り物じゃない。本物の印を入れてやる。
ナイフを右の太腿に突き立て、頭の中にはっきりと浮かぶ印を刻もうとしたが、右手から生えた六山の手が肩まで出てきて腕を突っ張り、ナイフが届かない。
「なんだよ! 邪魔すんな! 邪魔なんだよ! 俺、知ってるんだからな、勇郎! 何でも出来て何でも持ってるみたいな顔してさ、お前だって高校の時は一人だっただろ!」
六山とは登下校で顔を合わせていた。六山がクラスに馴染めていない事には気づいていた。教室で一人で過ごしているのを見かける事もあった。
いつでも石原の保護者のように振る舞い、地元では家ごと一目置かれている上の存在であるはずの六山のそんな姿から石原は目を逸らして何も言わなかった。
六山のプライドを傷つけるような気がしたからでも有るが、自分が優位に立てたような気がして、少し気分が良かったからだ。
「わかってんだよ! どうせ俺はクズだよ! 人真似しかできねえバカだよ! だからってそこまで俺のことハブることねえだろ! おれもまぜろよ! じゅんばんだろ! てもあしもいらねえよ! はなしをするんだ! おれのはなしをするんだ!」
左手でナイフを振り上げ、自分の右手首へ突き立てた。
がつがつと何度も突き刺し、抉り、右手を切り捨てた。
吹き出る血を浴びながら勇郎の手がバンバンと床を叩く。怒っているように見えた。
だが、右腕ひとつで何が出来る? 何も出来ない。
石原は、笑いながら自分の左の腿に印を刻んだ。一本一本しっかりと丁寧に、決して消えないように深く刻みつけた。
出来上がった血塗れの印を見た石原は、ほっとした。
これでもう大丈夫だ。仲間外れにはならない。
「おはなしをする! はなれない! ずっと、ずっと! みんなでじゅんばんに!」
石原は笑いながら叫んだ。
千切れた右手から生えた腕がバンバンと床を激しく叩く音が鳴り響く。
インターホンが鳴り、ドアがドンドンと叩かれた。
「警察です、悲鳴が聞こえたと通報がありましたが、大丈夫ですか?」
ドアの向こうでバウバウと激しく吠え立てる犬の声がした。
床を叩いていた六山の腕が石原の右手を引きずりながらドアへ飛びつき、鍵を開けた。
鍵の開く音と同時にドアが開いた。
真っ先に飛び込んできたのは、犬だった。
茶色い大型の犬が真っ直ぐに石原へ突っ込んで来て、首に噛みついた。
痛みはなかった。脱皮するように石原の意識がずるりと肉体から引き抜かれた。犬は石原の意識を咥えたまま突っ走り、壁を突き抜けていった。そのすぐ後ろを、石原の右手を咥えた白い中型犬が追いかけてきた。
アパートの方から、警官達が慌てて救急車を手配する声が微かに聞こえた。
石原の意識を咥えた犬は地面へ飛び込み、石原は何も見えなくなった。
しかしすぐに視界は戻った。
輪が見えた。
煙のような白い霧の向こうで、何十人もの人々が輪になってゆらゆら揺れている。
手足はない。胴体と頭だけの体で互いに支え合うように肩を寄せ合って話をしている。
それぞれの人生の出来事や、思いや考えを延々と語っている。
石原はその輪を上から見下ろしていた。
いったい何が起こっているのかわからなかったが、自分もあの輪に迎え入れて貰えると思った。
だが、背後から誰かが自分を掴んでいる。犬猫の子を掴むように首を掴まれていて、向こうへ行けない。
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