【現代ホラー異聞録 山神の血印 ~おはなしの集う山~】(6話目/全10話)
山の怪 6
石原は気がつくと実家に駆け込んでいた。
イワナいっぱい釣れた? と、呑気に聞いてくる母親にダメだったと答えて風呂場へ直行した。
着ていた服はすべて脱いで水を溜めた洗濯用のバケツに入れた。
スマホは投げ入れる寸前で迷った。もし誰にも助けを求められない状況でまたあんな事があったらと思うと、使えなくなるのは嫌だった。
しかし、このまま持っているのも怖い。とりあえず、ビニール袋で密閉し水に沈めた服の下に押し込んだ。
明日、市街地に戻ってすぐに機種変したら捨てればいいと思った。
シャワーを浴びて頭のてっぺんから爪先まで念入りに洗った。
ふと思いついて、母親が使っているバスソルトを体にかけた。塩が入っているから何か効くかもしれないと思った。効果はわからないが、いい匂いがした。
母親に疲れたと言い訳して自室に籠もった。
六山の変わり果てた顔が頭に何度も浮かんで吐き気がした。
わけがわからない。理由を教えて欲しい。意味を説明をして欲しい。
しかし、今からまたあの山へ行く気はしない。六山の家で待っていれば萩沢が来るかもしれないが、六山のあんな姿はもう見たくない。
萩沢はアパートへ帰れと言った。今すぐ帰った方がいいんだろうか。
だが、一人っきりで夜を迎えるのは怖かった。実家なら両親がいる。せめて今夜一晩はここにいたい。一人きりになりたくない。
きっと、明日になったら何もかも解決しているはずだ。
堀田のおばさんも治ったと言っていた。勇郎だって大丈夫だ。明日、勇郎の様子を見てから帰ろう。
石原はそう決めて布団に潜り込んだ。
早朝から歩き回っていたせいで眠気はあったが、夢に見たらと思うと眠れない。スマホがあればゲームをして気を紛らわせることができる。しかしあのスマホに触るのも怖い。
仕方なくベッドに横になったまま、何も考えず寝ていようと思った。だが、考えないようにしようとするほど瑛茉や勇郎の姿が頭に浮かんでくる。そのたびに飛び起きて意味もなく部屋の中を歩き回ったり、頭を掻きむしったりしていた。
やがて夕食の時間になり、母親に呼ばれた。
父と母と三人で他愛ない近況を話した。石原はさりげなく子供の頃の思い出話をして、自分が生まれたのはこの家に引っ越す前だったのか後だったのかを確認した。
何の意味があるのかわからないが、萩沢は気にしていた。何か大事なことなら知っておきたかった。やはり石原は両親がこの家に引っ越して来た後に生まれていた。
二人は懐かしそうに思い出話を混じえて、石原の幼い頃の話をしてくれた。その最中に家の電話が鳴った。
石原は不安になった。悪い知らせのように思えた。
朗らかに電話に出た母親は、すぐに声のトーンを落とした。大変ねとか、今年は続くわねとか神妙に相づちを打っている。
石原はぶり返した恐怖と不安で居ても立ってもいられなかった。母親が電話を切ってすぐに聞いた。
「何かあったの?」
「それがねえ、甁子さんのところのおばあちゃんが亡くなったんだって。ほら、一昨日、行方不明のお知らせ来てたでしょ」
話を向けられた父親が、ああ、と頷く。
「認知症になってたみたいなんだけど、山に入って迷ったらしくて、さっき見つかったみたい」
「山ってどこの?」
「久具根だって。ほら、あの古い神社があるっていう、あんたたちが今日釣りに行った六山さんとこの隣の山」
石原は悪寒に震えた。
「あ、あのさ、前に今年は他に何人か続けて亡くなったって言ってたよね。その人達も、山で迷ったのかな?」
「ああ、認知症になってたのは同じだけど、遠畑のおじいちゃんは入院中に亡くなって、茅野さんのお父さんはご自宅で倒れてたんだって」
「山には行ってないんだ?」
「山? そりゃあ二人とも猟友会に入ってたから、猟で行ってたと思うけど。この辺のお年寄りはみんな季節になれば山菜取りにも行くし。そうそう、遠畑のおじいちゃんは去年の秋頃はまだぴんぴんしててねえ、キノコ貰ったのよ。茅野さんのお父さんも年末の集まりでイノシシの肉持って来てくれてね。二人ともまだまだお元気そうだったのに、本当に、人が亡くなる時期なんてわからないものね。あんたも山に入る時は気をつけてよ。子供の頃から勇郎くんと山に行くとあんたばっかり怪我して帰ってきたんだから」
曖昧に相づちを打ちながら石原は悩んだ。
勇郎はどうなっただろう。やはり様子を見に行った方がいいだろうか。それとも自分を守るためにすぐにアパートへ戻った方がいいのだろうか。しかし、戻ったとしても不安は残る。
やっぱり明日まではいよう。明日になったら勇郎の様子を見て、出来れば萩沢さんと話をしたい。何が起こっているのか、自分は本当に大丈夫なのかを確かめたい。
◇ ◇ ◇
翌朝、石原は朝食を済ませるとすぐに六山の家へ向かった。
だが、呼び鈴を押しても声をかけても返事がない。
家族全員、出かけているのだろうか。
ひょっとしたら勇郎を萩沢の所に連れて行ったのかもしれない。そう思いながら玄関の戸に手をかけてみると、すんなりと開いてしまった。
廊下に置きっぱなしのスマホがあった。昨日、石原が置いたままのようだ。
ぞっとした。あれから誰も出入りしなかったのだとしたら、勇郎は一人ぼっちであんな状態で夜を過ごしたのだろうか。萩沢がなんとかしてくれるのではなかったのか。
「勇郎!」
不安にかられて大声で呼んだ。返事はない。
「俺だよ、入るぞ!」
靴を脱ぎかけた時、鋭い声が飛んできた。
「やめろ、帰れ」
勇郎の声ではない。昨日、電話越しで聞いた萩沢の声だと思った。リビングの方にいるようだ。
「萩沢さん? あの、勇郎は?」
「帰れ。この家も手遅れだ」
勇郎ではなく、家が? では、昨日から姿を見ていない勇郎の両親もすでにおかしくなっていたのだろうか。
「あの、でも、どうして? 勇郎は本当に」
「死にたいのか?」
苛立ったような冷たい声だった。
「どいつもこいつも、近寄るなと言えば来る。帰れと言っても聞かない。挙げ句の果てにバタバタ死にやがる。土地の者なら手を尽くす義理はあるが、よそ者の道理まで見てやる余裕はねえぞ」
石原の足が震えた。
恐怖と怒りがこみ上げた。訳がわからない事に巻き込まれてその理由を知りたがって何が悪い。当たり前の事だ。俺はここで生まれたんだからよそ者でもない。そう怒鳴ってやれたら良かったが、言葉は出てこなかった。
萩沢への怒りより恐怖の方が大きかった。死にたくないと思った。萩沢が助けてくれないのなら、この場を離れてアパートに戻って何もかも忘れるしかない。
死にたくない。瑛茉のように勇郎のように、異様なものになりたくない。
その一心で、石原は逃げ出した。
家に帰り、荷物をまとめた。バケツに入れたままの服は母親が洗濯していた。まだ濡れたままゴミ袋に入れて持ち帰った。父も母も怪訝そうにしていたが、仕事で帰らなければならないと嘘をついて実家を出た。
市街地に戻ってすぐにスマホを変えた。前のスマホは服と一緒に近くの川にこっそり捨てた。
これでいい。
後はしばらく実家に近寄らなければいい。父や母は山に入るような趣味はない。
きっとあの山が悪いんだ。山に行くとおかしくなるんだ。近寄らなければ大丈夫だ。そう信じるしかなかった。
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