なぜ日本SF界は人間のアートの側に立たなかったのか

 生成AIユーザーが自己を正当化するときに使うのが人間とAIの学習の類似です。もう少し複雑にとらえている人もいるかもしれませんが、人間も他の人間から学んでいるのでいいじゃないかという言い訳はnoteでは日に何回も見ます。
 これを否定するのは本来はSF作家の役目でした。

 テッド・チャンやグレッグ・イーガンはその役目を果たし、人間の学習と生成AIの学習は違うと明確に言っています。
 イーガンはLLMが永久に推論能力=知能を持たないことを引用しています。また、LLMがAGIの祖先の一つになりえるかという質問にnoと答えました。
 チャンは大々的に、生成AIが知能ではなく応用統計学の一種であり、LLMは言語を使っているとはみなせず、生成AIをアートへ利用すべきではないと主張しています。その主張は発言ごとに薄まるどころか、強くなっていっています。6月の講演ではテッド・チャンは明確に各ジャンル(絵、映画、小説)のAIアートを批判し、人間のアートを擁護しました。
 こういった主張は、既存の人間の絵描きの活動を保護し、無断での機械学習を規制することを勇気づけるものです。
 彼らがアーティストと団結すれば心強い味方になります。

 彼らの主張を日本でも引き継ぐのが日本SF業界のはずでしたが、そうなりませんでした。
 日本SF作家はテッド・チャンにインタビューしており、そこで「LLMを擬人化しないほうがいい」「小説執筆にLLMは役に立たない」「生成AIは企業による広告ツールでしかない」という内容の返答を得ていました。(この号のWIREDを買いましたがすげー印刷が読みにくかったです)
 しかし、日本SF業界は生成AIをなんとか利用し、共存するとすでに決めてしまっていたようでした。(SFマガジンはAIアートを表紙に採用しました)(いくつかの小説コンテストはAI利用を許可しました)(大御所のSF作家から、人間の絵とAI絵、見分けがつかなければ同じだから諦めよう発言がありました)

「なんとか利用したいが、問題や反発する人が多いから配慮する」というスタンスが自分にとっては十分倫理的でないように思います。それは完全にAIユーザー側の視点です。その姿勢からの脱却を望みます。
 今日のTVでは死者のディープフェイクを生成AIで作る人が紹介されていました。たしかに、画像生成AIがユーザーに幸福や癒やしや救いをもたらすこともあると思います。しかし、それらに欠けているのは自己の情報を利用される側の人々の視点です。
 それらの生成AIの共通点は、一度もオリジナルに許可を取らなかったということです。レンブラントの新作を作ろうとしていたころは、著作権が切れているからよかったのですが。

 なぜ許諾を取らないのかと問うと、彼らはこう答えるでしょう。
・許可するか聞いたら拒否されるかもしれないから聞かない
・そもそも学習元まで遡行できない
・広範囲かつ大量すぎて報酬が払えない
 このあたりに問題がありそうなのは誰でもわかりますので理由として使えません。
 次に彼らはこのように言います↓

・人間も学習しているから機械学習も問題ない
 これは明確に否定しなければなりません。本来は専門家、コンピューターサイエンティスト、哲学者、SF作家が否定するべきです。実際に専門家は言わないのに末端ユーザーに広まった定型句です。

・むしろ既存の著作権の概念の方を変えていかなければならない
・超知能AGIのためにすべての情報を食わせなければならないのでそれらの問題は些細なことである
 これらは少なくとも、技術の発達によってなぜか人権の制限が増えるということです。
 そもそも生成AIがAGIにならないことはイーガンが言っています。そのようなものを作る意味がないことはチャンが言っています。
 イーガンやチャンによる、知能というものに対する理解が全く普及していないのが残念です。

 海外がどう言おうが日本独自の路線(機械学習パラダイスみてえな国をつくりてえ)を行くからいいんだということですが、その素養としてアニミズムとか擬人化があるらしいです。それらに共通する問題点はやはり、見る側の中で起こっていることでしかないということです。ユーザー側ではなく、見られる側、解析される側、複製される側、つまり情報の本来の所有者の視点が優先されるべきです。

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