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豊臣秀吉10万vs徳川家康1.7万 小牧・長久手の戦い なぜ世紀の凡戦で勝てなかったか?

秀吉軍は10万人に対して、信雄・家康連合軍は約1万7千人でした。圧倒的な兵力差です。にもかかわらず、なぜ秀吉は勝てなかったのか??

①秀吉軍が上下バラバラの大軍だったから(縦割り)

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秀吉側の攻撃を率いた4人の武将がいました。

(A)池田恒興(兵力6000人)

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織田軍4宿老の1人。もともとは羽柴秀吉と同格ととても高い地位でした。そのため、秀吉は信長ほど彼に強い命令はしにくい。明智光秀、柴田勝家と織田家幹部を次々に秀吉が抹殺していくなかで、ドサクサにまぎれて部下にしてしまった。秀吉に長年つかえた信頼できる部下ではありません。

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(B)森長可(兵力3000人)

「鬼武蔵」の異名を誇る秀吉軍最強の猛将。しかし、攻めに特化しすぎたため家康の巧妙な待ち伏せ射撃戦術にハマり、死亡してしまいます。

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(C)堀秀政(兵力3000人)

もともと織田信長の側近中の側近。「社長室長」のような存在。信長の死後は秀吉軍と合流し、高い地位につきます。しかし彼も秀吉の長年の部下ではない「新規合流組」です。

(D)三好信吉

秀吉の甥っ子で、攻撃部隊の総大将となります。しかし、秀吉の親族としての起用なので武将としての能力は低い。そんな若い彼に「経験をつませたい」との起用でしたが、大失敗で裏目にでてしまいます。

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②掘秀政の撤退

まさに1枚岩ではない秀吉軍の弱点をついたのが、家康でした。

三好秀吉(秀吉の甥っ子)が総大将。鬼武蔵が武功随一。池田恒興も宿老。だれが一番偉いのかよくわからない秀吉軍に対して、各個撃破をとっていきます。家康軍1万7000人といえども、3000人~8000人の各秀吉軍の部隊とを各個撃破すれば有利となるわけです。

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秀吉軍は2万ほどの攻撃部隊で「中入り作戦」。三河へ陽動攻撃を行い、敵をひきつけたうえで小牧を叩く予定でした。しかし家康が三河に兵を集中させ、陽動部隊を撃破してしまったのです。

陽動部隊として、家康本隊と激突しては死ぬだけです。実際に池田恒興、森長可はこの戦いで死亡しました。生き延びるために掘秀政は家康本隊を眼前にして兵を撤退。これにより池田・森部隊はさらに苦しい立場となります。さらに三好秀吉の部隊も家康の用意に敗走させられてしまいます。

③鉄砲戦術による「ガン待ち有利」

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織田信長が長篠の戦いで武田軍を破ってから、鉄砲による一斉掃射が戦のトレンドを変えてしまいました。賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いでも「鉄砲と城塞」による待ち戦術が有利となり、無理に攻めようとすると鬼武蔵や山県昌景のように鉄砲の的となって死亡します。

お互いにガン待ち戦術となると、10万人もの大軍で半年以上滞在している秀吉軍のコストが天文学的な財政ダメージとなります。これが秀吉が引き分けに持ち込まざるを得なかった最大の理由です。

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