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レズビアンの母、実父の虐待・・・台湾発ドキュメンタリー映画『日常対話』が凄すぎた。8月1日の日記

昨夜0時に寝て6時半に起きる。コーヒーを飲みながらネット。今日映画行くのはやめようと思っていたが、詳細を調べるとやっぱり観たくなり予約する。観たい映画も観れない休日などクソくらえだ。

用意して出かける。東中野へ。映画の前にランチしようと思ったのだが、映画の時間がランチ時間とかぶっていてやってるお店もなかったので、目についたラーメン屋に入る。家系ラーメンの店で、味玉ラーメンを頼む。素晴らしいことにここはアルコールOKだった!なのでグラスビールも。濃厚ラーメンを食べるときにビールを飲めるのは助かる。おいしかった。

ポレポレ東中野で、台湾のドキュメンタリー映画『日常対話』を観る。映画監督である娘が距離のできてしまった母との対話を試みるというドキュメンタリー。が、「母と娘のいい話」なんかを期待してはいけない。進むごとに、レズビアンの母への偏見、実父の虐待、男性中心の家制度といった、不寛容だった時代の問題が浮き彫りになる。

台湾といえば、2019年にアジアで初めて同性婚が合法化され、毎年規模の大きな「プライドパレード」を開催しているLGBTフレンドリーな国という印象がある。が、それは最近の話。この映画に登場する監督の母の時代は、男も女も見合いで結婚するのが当たり前だった。レズビアンだろうがなんだろうが関係なく結婚させられ子供を産まされる。この母・アヌは、レズビアンでありながら無理やり結婚させられ男とセックスさせられ子供を産まされ、あげく男に暴力まで振るわれる。母は数年後子供たちを連れて家を出たが、正式に離婚したわけではなく、相手の男が追って来るかもしれないという恐怖につきまとわれていた。もうね、恐怖なんですよ。男の暴力は。逃れられない。男は数年後、自殺した。けど、母や娘たちの恐怖や憎しみが消えたわけではない。

母はレズビアンであり、娘たちがいながら次々彼女を作った。この映画でも、母の歴代彼女にインタビューをしているのが面白い。この母、かなり男性的な外見だが、「かっこいい」という感じではない。なんでこんなにモテるの・・・?と疑問に思ったが、元カノたちの話を聞くと「そりゃあモテるわな」と納得。とにかくものすごく優しいと。その元カノたちというのはどうやら全員ノンケのよう。この時代にはもちろん同性との出会い系のバーだとかイベントだとか、ましてやSNSの出会いアプリとかもなかったわけで、同性と付き合おうと思ったらノンケを落とすしかなかったわけやな。落とすために全力で優しくして、口先で甘い言葉も言い、付き合ってからも大事にする。男にはできないようなきめ細やかな気づかいや優しさを発揮したアヌは、「一度も振られたことがない」「(付き合った彼女の人数は)多すぎて覚えていない」という発言に現れるように、自由に女性を愛し愛され、恋愛を思う存分楽しんでいたよう。それが本来の彼女の姿だ。このあたりの映像はかなり楽しい。

アヌはときおり孫に見せる笑顔などからも、もともとが優しい人なんだなとわかる。けれど娘に対してはなぜか素直に優しさを見せてくれない。娘はそれに距離を感じている。

それはさまざまな理由があるが、その一端がクライマックスの「対話」で明らかになる。ちょっとこの対話はあまりにも衝撃的だ。娘は、「お母さんを愛している」と言う。もちろん、母だって娘を愛している。ただ不器用で、それを表現できないだけなのだ。娘はさらに言う。

「お父さんと一緒に暮らしていたとき、なぜ私だけお父さんと同じベッドで寝かされたの?」

母は答えることができない。娘は言う。

「私がお父さんになにをされたのか、聞かないの?」

娘は実父に性虐待を受けていた。母がこのことを全然知らなかったはずはないのだ。うっすらとでも気づいていたのだと思う。娘に対する申し訳なさ、罪の意識があり、娘と向き合うことができなかったのかもしれない。けれど、娘は母を責めることはしない。

和解、ではない。かといって責めあうことでもない。ただ二人は「対話」ができるようになった。それだけだ。

この話には「ハッピー」な「エンド」なんてない。だって二人はまだ生きていて、二人の「対話」はこれからも続いていくから。ハッピーエンドに物事を解決することが大事なのではない。こうしてただ「対話」をすること、しようと試みることこそが大事なのだ、と映画は示している。

終映後はZoomでの牧村朝子さんのトークショー。言語の話や歴史の話など、興味深い話を聞けた。私は台湾語も中国語も区別がつかないが、この映画ではナレーションなど大半は台湾語だが、たとえば幼いころの姪のセリフは台湾語なのに、成長した姪がしゃべっているシーンは中国語になっていたりなどするという。台湾語というのは、日本語における大阪弁のような、地域限定の言葉らしい。若い人のなかには台湾語を解さない人も増えているのだとか。そうなんだ。

あと、この映画に登場する母は「道士」という、葬式のときに歌ったり踊ったりして死者の魂を鎮めるという仕事をしているが、日本にも昔はそういう仕事があったという。そういう仕事に従事していたのは家族を持たない女性たちで、女性たちはそれぞれ共同体を組みながら土地から土地を移動しながらそうした仕事をして生きながらえていたという。だとすると、現代の「家族」とは違う女性のコミュニティがあったということだ。

この映画に関するコメントを寄せている著名人も多いが、なかでも李琴峰さんの以下のコメントには共感。

そうそう、この映画、地味でダサいのよ。「台湾」と聞いてイメージするような、華やかなプライドパレードとか、同性婚が認められた国だとか、そういうのは一切出てこない。あと、この映画に出てくる台湾家庭料理というのも、インスタ映えとは一切無縁の、「なにこれおいしいの?」みたいなもの。

アヌの過去を探るために出身地の田舎の家庭に行くシーンもあるのだが、その風景もほんとにダサくて、冷蔵庫を開けると卵がごろごろ詰まっていたりとか、軽装のおばあちゃんやおじいちゃんがよろよろ歩いていたりとかする。おまけにこのおばあちゃんとか恰幅のよいおじさんといったものがアヌとどんな関係なのかはっきりわからない。なんとなく文脈から「あ、この人がお母さんの弟なのかな?」とか思う程度。このドキュメンタリーとしてのゆるさというのも、じつはある意味最強の武器になっている。だって誰だって、「最初から最後までちゃんとしてるドキュメンタリー作品」なんて退屈で観てられないでしょ。この作品についての解説というのは、観た人がすればいい。「ちゃんとした作品」なんかじゃなくていい。それより作った人の体温をきちんと感じさせるような、こうした形のドキュメンタリーを、観客は観たいのだ。そういう意味でも、新しい形のドキュメンタリーといえるかもしれない。



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