ピアノ伴奏の思い出
子供の頃ピアノをやっていたので、なにかがあるとピアノ伴奏を頼まれた。合唱コンクールとか。小学生の頃、なにかの発表で、「バダジェフスカの『乙女の祈り』に合わせて側転をする」というのがあった。誰がそんなことを思いついたのかはわからない。酔狂な先生がいたものだ。たまたま私が『乙女の祈り』を弾けたので、伴奏者に抜擢された。私の弾く『乙女の祈り』に合わせて、次々と生徒が舞台袖から出てきて滑らかに側転する。今思うとシュールである。私自身は側転は免除された記憶がある。運動音痴の私にとっては好都合だった。
中学校までは、私がクラスで一番ピアノが弾けたので、なにかあると「伴奏はもちろんロミちゃん」だった。私は一度も自分から「伴奏をやりたい」と言ったことはない。ただ自然とそうなっていた。そして、私は伴奏が好きだった。中学校のときは、音楽の先生が合唱コンクールで余興でドイツの歌を歌い、その伴奏も頼まれてやったりした。
中三のとき、クラスにもう一人、ピアノの上手な女の子がいた。その子、Kは、合唱コンクールで伴奏をして「伴奏賞」を獲ることを狙っていた。伴奏賞とは、一番伴奏が上手な生徒に贈られる賞である。私は、自分から「伴奏をやりたい」と言ったことは一度もなく、そのときもなにも言わなかった。それで伴奏は立候補したKがやることになり、私は初めて合唱で歌を歌った。
結果的に、Kは伴奏賞を獲れず、ほかのクラスの子が獲った。友人たちは、「ロミちゃんが伴奏してたら絶対獲れたよ」と言っていた。だが私は、伴奏賞を獲る自信などなかった。それなのに、伴奏に立候補し、私を差し置いて伴奏者となり、伴奏賞を狙ったKが伴奏賞を獲れなかったことを、どこかで喜んでいた。私は嫌な人間だ。そう。私は、伴奏をやりたかったのだ。そして、伴奏賞を獲りたかったんだ。Kじゃなく私が伴奏をやりたかった。でも私は自分から「やりたい」とは言えなかった。それに私は、伴奏賞を獲れなかったときのことを考えると、怖かった。Kのように自分から「やりたい」と言い、貪欲に賞を狙う。そんなことはできなかった。だから、私はKが羨ましかったんだ。
このときのモヤモヤした気持ちは、今でも忘れることができない。あのとき、「自分も伴奏をやりたい」と手を挙げていたら、私かKかどちらかが選ばれることになる。私はそこで落とされることがまず怖かった。選ばれたとしても、伴奏賞を獲れなかったら。そんなことを思い、私は「伴奏をやりたい」という自分の気持ちに蓋をした。
高校生になると、ピアノの上手な子などゴロゴロいて、もう私の出番はなかった。私はもう伴奏をやることはない。そう思っていた。
しかし、高三のとき、チャンスはやってきた。このときのクラスには、ピアノの上手な子がほかにいなかった。弾ける子は何人かいたけれど、私のほうが上手なのではという感じだった。でも私は自分から「伴奏をやりたい」と言うことはできない。でも、言わなければ、ほかの子が伴奏をすることになってしまう。勇気を振り絞って、「伴奏をやりたい」と言った。
このクラスは成績優秀な人が多く、私は浮いた存在だった。そんな私がいきなり「伴奏をやりたい」と言い出したので、クラスの皆は驚いていた。だが、ほかに立候補する人もなく、私は伴奏者となった。
このクラスはとにかく皆、勉強第一という感じで、「合唱コンクールなんて」みたいな雰囲気だった。クラスで浮いた存在である私の伴奏も評判が悪く、「伴奏全然合ってない」なんて陰口を叩かれたりした。それでも私はなんとか指揮者の子とコミュニケーションをとり、必死に伴奏をした。
そして合唱コンクール当日。私たちのクラスは、『海はなかった』という歌を歌った。この曲の伴奏はとてもカッコいい。冒頭、いきなり伴奏者のソロである。途中も盛り上がるところがたくさん。私は張り切って伴奏した。ものすごく、気持ちよかった。ああ、伴奏って楽しい。そう思った。
このクラスはそれほど合唱コンクールに力を入れていたわけでもなかったのに、なんと三位に入賞した。私の伴奏は絶賛された。「ロミちゃんがこんなに上手だと思わなかった」「ロミちゃんのおかげで三位になれた」などと言われた。
自分から「伴奏をやりたい」と言い、本番でよい伴奏ができ、そして三位入賞という結果も出せた。私は、中三のときのリベンジを果たせたのだ。
私は、「私が、私が」と言うのははしたないこと、と思ってしまっていた。それに、やりたいときに「自分がやりたい」と手を挙げることは、とても勇気が要る。自ら手を挙げても、周りに認められなければできない。認められなかったら、恥ずかしい。でも、「やりたい」と言わなければ、相手には自分の気持ちが伝わらない。勝手に一人でモヤモヤして、一生後悔するだけだ。そんなの嫌だ。私はやりたいことをやる。Kのように素直に、純粋に、「やりたい」と言うことは、すごく、すごく大事なことなんだ。