無くなったアイス
もう食べられないのだが、好きなアイスがある。
上諏訪の国道二十号線沿いにあり、かの高名な文豪の作品と同じ名前をもつ酒造メーカーだ。
そこで作られている銘柄の一つ「雄町」という純米大吟醸の日本酒がある。その酒粕を使用したアルコールゼロのアイスがあった。そのアイスが語りつくせないくらい美味しかったのだ。復活しないかなと思うくらい今でも食べたいアイスの一つだ。
雄町のアイス(一々酒粕を使ったとかを書くのが面倒なのでここでは「雄町のアイス」として表記する)と出会ったのはもう覚えていない。物心ついていた時にはすでに出会っていたからだ。
しかし、嫌な子どもと言われかねないが、味と銘柄はきちんと覚えている。レジの前にあったショーケースの中に違う味や銘柄のアイスが入っていても必ず雄町のアイスを手に取っていたくらいだ。
ただ、あのアイスが美味しいという事実とお店に紐づけて覚えていただけかもしれないし、諏訪に行くとよく行っていたからかもしれない。そのせいか、店内もよく覚えているし、どのような状況で食べていたかも覚えている。
少し高さの低い引き戸を開け、中に入ると店内は少し薄暗いが物理的にも精神的にも暖かった。日本酒の新酒が出るのは大体冬らしく、冬に行くことが多かったせいかもしれない。
入ると右側には可愛らしい日本人形や大きい熊手、鹿の頭のやつが壁に飾られていた。左側には商品が冷やされている保冷ケースと試飲スペース。真ん中らへんには大きな柱と畳のベンチと思しき台。そのちょっと置くにレジとアイスのショーケースがあった。
私は、父の上着の裾を引きながらショーケースの方を指さし、アイスをねだった。そもそも、未成年で呑むことができない私が両親の酒蔵巡りに付き合っていたのは個々のアイスが目当てだからである。
気が大きくなり財布の紐が温泉卵並みに緩くなっている父から小銭を貰い、ショーケースからアイスを取り出してレジのお姉さんにアイスと小銭を渡すと、アイスと一緒にスプーンをくれた。
ちなみに、その当時あったのはイチゴ味とチョコレート味、雄町とは違う別の銘柄のアイスだったと思う。何故、十年近くも前に消えてしまったためあまり記憶は定かではない。
勿論、別の銘柄のアイスも食べたし、美味しかったが、個人的には雄町の方が好きだった。
買った雄町のアイスを畳のベンチに座って、それを堪能する時間が唯一の楽しみだった。
蓋を開けるとキラキラと、まるで太陽の光に照らされた雪原のように美しいアイスがカップの中に納まっていた。
そう、これはアイスと言う名の美しい雪原なのだ。それを、プラスチックの白いスプーンで一すくい。口の中に入れると、ふんわりと優しい酒粕の香りがした。舌の上に落とすと、バニラアイスよりもなめらかで、雪のようにすっと解けていく。すると、さっぱりとしてはいるものの、ふわとした甘さと酒粕ならではのほんのりとした苦みが口いっぱいに広がった。
まるで、ふんわりと仕上がったもこもこのアクリル毛布に包まっているような幸福感が私を包む。
早く食べなければ解けてしまう、だが、この幸福感を長く味わっていたいというジレンマによくおちいっていた。そんな私を両親と接客をしている従業員さんが笑いながら見ていた。楽しくて退屈な旅の唯一幸せな時間。
まあ、たまにたまに、母親にがっつり食われて、ショックのあまり拗ねまくったら、なぜか怒られたこともあったが、それを除けば楽しい時間だった。
しかし、そんな私の楽しい時間は終わりを告げたのだった。
ある年、いつものようにその酒造メーカーへ行くと、雄町のアイスだけではなく、アイス自体が無くなっていた。従業員さんに話を聞くと、当時アイスを作っていた会社が無くなってしまったらしい。
そのことを知った私はショックがあまりにも大き過ぎて、両親や接客していた従業員さんにもわかるほどだった。
わかりやすい例えで言うなら卵型のゲーム機の中でキャラクターを育てていくゲームで、初めてキャラクターを死なせてしまった時くらいのショックである。それも、卵からかえって第二段階くらいで、あと少しで成体になれる時に死なれた時くらいのデカさだ。
それを見かねたのか、従業員さんが苦しい笑顔で一言。
「大人になったら、お酒の方の雄町呑んで」
お酒の方の雄町が美味しいのはアイスを食べればわかる。それは確かに美味しいだろう。まだ飲んだことはないが。
しかし、そうではないのだ。私が求めているのはアイスの方なのだ。
「酒粕アイス好きなら、他の酒造メーカーのやつ食べれば」とか、「酒粕とバニラアイス合わせたら味を再現できるんじゃない? 」とか言われるが、そうではないのだ。
確かに、他の酒造メーカーの酒粕アイスも頬っぺた落ちるくらい美味しい。許されるなら、二、三個食べたいくらいだ。腹壊すからやらないけど。バニラアイスと酒粕を混ぜて食べても凄くおいしい。実はオススメしたい食べ方の一つだ。
だが、どうしてもあのアイスとは別物なのだし、どんなに探してもないのだ。
あの雪原のように美しくて、くちどけが良く、酒粕の甘みとほのかな苦みをもつ、あの雄町のアイスが食べたいのに見つからないのだ。
そんなに好きならリクエストしてみれば? と思った方もいるだろう。何年か前にリクエストは既にしている。だが、従業員さんの中で覚えている人がほとんどいなかった。
それもそうだろう。知っている人は知っているかもしれないが、十年くらい前に色々あったし、それに伴って多少の人の出入りはあったのだろう。仕方ないなと思いつつも少し寂しかった。
でも、出来ることなら、お店の中でまた、雄町のアイスを食べたいなと思う。酒造メーカーの方には申し訳ないのは重々承知で言わせてほしい。
「雄町のアイス、復活しませんかね? 」と。
もし復活しているなら、お店で販売してほしいと少し思う。
もっとも、このコロナ渦では行くことも難しいが。
ふと、このエッセイを書きながら視線を感じた。
振り向くと、同居人が今まさに書いていた酒造メーカーが作る「翠露」を飲んでいた。
しかも、こちらをニヤニヤしながら見ている。声かけろよ。
「もう飲んでますやん……飲みたいやん……」
「飲みたいならコップ(日本酒を注ぐグラス)もっといで」
言われなくても持ってくるわい、と思いながら食器棚から瑠璃色のぐい飲みを取り出す。
お酒を注ぎ、一口飲むと優しい香りが鼻を抜け甘くて美味しい味が口いっぱいに広がった。
世のおじさんたちに怒られてしまうが言いたい。
「うまぁ……最高や……」
ただやっぱり、雄町のアイスを食べたい。雄町自体は美味しいのは分かるがあのアイスをあの場所で食べたい。
できれば、素面の状態で食べたい。酔うと鼻が詰まるからあの素晴らしい味と香りが楽しめない。それは、本当に嫌だ。
でも、正直言っていろんな日本酒を飲み比べて自分のお気に入りを見つけたいし、お金を払って試飲するのも酔っ払いの醍醐味な気もする。
世のおじさんたちが聞いたらパンチが飛んできそうな悩みながら翠露を飲んでいるとぐるぐると考えていたら、本当に視界が回ってきた。呑みすぎたらしい。
仕方なく、同居人に先に寝ると伝え、軽く片付けを済ませてから布団に倒れこんだ。
その日の夜、こんな夢を見た。雄町のアイスで大食い対決で優勝者には日本酒一年分贈呈という訳のわからないものだ。結局、最後の一カップで負けてぐったりしていた。
次の日、頭が痛かったのはきっと夢のなかでアイスクリーム頭痛になったせいだと思いたい。
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