ライフワーク

TwitterがXになって久しいこのごろ。
なぜかnoteのフォロワーが増えた。他人の書いた歌詞に乗っかって稼いだともいえよう。たぶんしばらく歌詞考察はしないと思うのであしからず。

私のライフワークは病むことだ。
もっと分割していえばインターネットで"同類"を探すことだ。
…この世には色んな病気というものがある。その中でも、ある種のそれは、日本という戦争もない国で。5体満足に生まれたも拘らず。じくじくと膿み続けるようなもの。グレーゾーン。ぶり返すアトピー。躁鬱(擬き)。過敏性腸症候群。など。など。あとは、外反母趾に謎の耳垂れにと枚挙にいとまがない。コミュニケーション障害もある。それらの疾患が、私の人生には代わりばんこに登場し続ける。モグラ叩きのモグラのように噴き出す。
そのような惨状だとおのずと鬱屈し、やがて自分を責める心持ちに辿り着く。自責の念ーそれがあらゆる病の源だと片付けることは容易い。
話を元にもどそう。インターネットという海で難波船の私は、また同じように苦しみ狼煙を焚いている誰かを見つけてひっそりと観測する。
例えば摂食障害を抱える人のブログとYouTubeチャンネルを最近は定期的に見ている。二人は私のことを知らないが、とても分かりやすく自らコンテンツ化された彼女たちの日々の記録は、嫌味なしに染み渡る。
私は、インターネットという場においても閉じこもりがちで、彼女たちのようには発信というものができない。noteにだって、自分のための下書きをたくさん眠らせているが、どうにも独りよがりで、きっと全然バズらない。インフルエンサーの素質がないのだ。
それはともかく、病というのが「逃避」の一種であると、つい最近知った。それは、彼女たちが共通して言って(書いて)いた"普通の人にはなりたくない"、"私にはなにもない"というようなフレーズが妙にこびりついていたから、知れたのだと思う。逃避は防衛機制の一つで、合理化、なんとか、昇華などの方法がある、というところまでは高校倫理で習っていた。逃げとしての病、というフレーズには語弊をまねくところがある。彼女たちは、そして私は真面目だ。
少なくとも人から真面目だ、とお世辞にしてもいわれるんだろう。その真面目の前にばかがついてないか?ってとこまで穿っているくらいに神経質だ。自分がどう思われるかについて。

さて現実は年末に近づいている。今年一年を振り返れば、3月に大学を卒業し、4月にすばる新人賞に原稿を応募し、そして5月から発作的なあわわわ(※芥川ではない。私のパニくる様を側のものは「あわわわってなる」と表現した)が始まって、そしてひどく暑い夏が来て秋が来て冬になった。一時期は食べられず、一時期は寝たきりで文字も音も受け付けず、いまはやっと食と文が摂れるようにまで回復してきた。性欲が消えた。生理が来ない。それはありがたいのだけれど。未だに人の声入りの音楽のほとんどが快く聴こえない。クラシックを聴き始めた。それについては、よかった。YouTubeで色々なクラシックに触れることができるなんて、いい時代だ。恵まれている。

なんの話だっけ?なんの話でもない。
私には物語る能力が足りていない。
そう、小説だ。
昨年7月にウェブ応募した群像に、先述のすばるに、と、どちらも一次通過することなく、田舎のイオンで確認した分厚い雑誌の見開きに私の筆名は載ることがなかった。そりゃそうだろう。10年計画、と口では嘯くのは簡単なことだ。しかし、太宰治賞とアガサクリスティー賞と江戸川乱歩賞に向けての小説を、11月までに完成させることを4月末の私は計画したのだったが、こうしている今、手元にも頭の中にもそれらは無い。どこにも無い。
5月までの一ヶ月とここ二週間は、1日に3冊ペースでの読書はしている。しかしここまで読んでお分かりの通り、その間5ヶ月は虚空に消えたのである。
とんだミステリーだと思う。いや、あまりに太宰治的駄目人間だと思う。ちゃんちゃん。
敗因としては、やはり「書けない」というのも私の持つ強迫観念神経症的な持ち病の一つなのだろう、とこのnoteでは記録しておく。同じようなことが中学の美術部に所属していた折にも起こったが、私は賞を意識すると途端にのびのびと創れなくなるどころか、神経をむだにすり減らして自分の生活さえも揺らがしかねないのである。それは真面目だからである。自分がどう思われるか。いや、それ以上に、病自体に固執する気質のせいだ。トートロジーめいてもいるが、それが強迫観念である。病が気になること自体が病で、そういう自分が嫌いだという思いが病と自分を、病が自分なのか自分が病なのかわからない領域にまでずぶずぶとひきずりこんでいく。
…こうこは何処の細道じゃ?そんな幼女の声が聞こえた気がした。

人間の暮らしなんか分からない、ということだけがわかる。ただ一切は過ぎていくということはわかる。人間の暗部がたしかに自分の内側にどこまでも黒い闇として広がっているのがわかる。

いつかちゃんと書けるようになりたい。小説を。
だが、真面目な私たちは目標を高く掲げることで「逃避」しているのかもしれない。
他人のことなら、よくわかるのだが、きっと彼女たちは病を手放さない。もしかしたら寛解するかもしれない。だが分かることは、自分自身をコントロールしようとするほどがんじがらめになっていくだろうということだ。
ちゃんとしてないものなら、受賞に値しない水準の小説ならば二つは書いた、そのことで、私は自分の垢がごっそりと落ちた感じがやっぱりする。つまりこれまでに私が大問題としていたことの卑小さについて、言い換えるのならこれまでの私の病み方のツマンネェしょぼさについて。あー私の感傷はバカの考え休むに似たりだなって自虐とかではなく思った。読めなくなったのも、ちゃんと読もうと身構えすぎたからもある。真面目すぎるから。真面目すぎて期日に間に合わなかった。まじで。
有限不実行を、私は受験の時もそうだし、小説においても不履行をしたことになる。いい加減、宣言するのやめたい。背水の陣をねらっても、そのやり方は私には逆効果なんだってば。気づけ、私!!…わかりました。わたし、もう宣言なんてしません!は?もう宣言なんてしないなんて言うよ絶対。

そういえば罪と罰読んだ。わりとペロっと読み切った。ロリータも読んだし毛皮を着たヴィーナスも読んだしオスカーワイルドも読んだ。積読消化しているよ。やったね。
ってことで私の今年の漢字は「無」でした。うん、でも無も悪くないのかもね、とこの前食べた無印のお菓子を思い出しながら思うのでした。来年の抱負?ありませんよそんなの。したがってこのnoteにオチはなし。人間失格だぜうぇーい(2758)

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