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わたしのおにいちゃんのはなし 19

第十九話

玄関のドアが開く音がしたが、兄の声は聞こえなかった。父は今日、会食があるとかで帰りはかなり遅くなるらしい。
リビングから母親が出てきたのか、話し声が聞こえるが、兄の返答はほとんど聞こえてこない。そしてすぐに、とん、とん、と階段を上がってくる足音に変わった。


わたしは泣きはらした汚い顔でそっとドアを開けた。目の回りが熱を持って、うまく瞼を開けられない。
昨日も一昨日も、兄とわたしはろくに会話をしていない。おかえり、おう、ぐらいのものだ。しかし今日は、どんなにうっとうしがられても兄と話したい。


「みーくん、おかえり」


「ただいま。・・・・・・なんだ、汚ねえ顔して」


「・・・そっち行っていい?」


兄はいぶかしげな顔をした。が、無言で自分の部屋のドアを開け、入れば、と言いたげにじっとわたしを見た。わたしはうなづいて、久しぶりの兄の部屋に入った。
中は思っていたより片づいていて、いつからつけるようになったのかも知らない香水の匂いが部屋に充満していた。机の上にはノートやペンケースに混じって音楽雑誌が二冊、男性ファッション誌が一冊乗っかっていた。
ベッドには黒いカバーがかけてあって、その真ん中にチェック柄の大きなクッションがどん、と鎮座している。何を隠そう、それは何年か前のわたしからの誕生日プレゼントだ。今でも使ってくれているのが、実に律儀な兄らしい。
わたしはどこにも座らず、ベッドの前に立っていた。


「で?なに?」


兄はブレザーを脱いでハンガーにかけながら、振り向きもせず言った。口調は穏やかだった。


「わたし、高校、誉に行きたいんだけど」


「うん」


「お母さんが黒谷にしなさいって」


「・・・・・・」


「わたしはみーくんと同じ、誉に行きたいのに」


「母さんが黒谷っていうなら、その方がいいんじゃねえの」


「・・・・・・みーくんと一緒がいい」


「お前が入学しても、俺はいないんだぞ」


「知ってる。でも誉がいい」


「・・・俺じゃ母さんを説得できねえよ」



わたしはそこで、口をつぐんだ。言うべきかどうか悩んで、おそるおそる言ってみた。


「お母さんが・・・みーくんが高校で問題を起こしたって言ってた」


兄は黙った。うるさい、と言われるかと身構えたが、そうはならなかった。むしろ兄の表情は寂しそうに曇った。


「・・・・・・そうだよ。だからお前を誉に行かせたくないんだろううな」


「・・・なにしたの」


「お前は知らなくていいよ」


「・・・・・・」


「確かに、誉に行ったら、俺の妹だってことで嫌な目に遭うかもしれないな」


「そんなの平気だもん!」


「華」


兄が父に怒られていたあの日も、こんな会話をした気がする。でもあのときよりずっと、兄は深刻な顔をしていた。
母も兄も、理由は言わない。
いや、きっと言えないのだ。
兄は小さなため息を吐いて、言った。


「俺はお前を巻き込みたくない」


「巻き込むって・・・何?補導されたことがそんなに悪いことなの?」



兄は急に、目を大きく見開いた。顔が真っ白だ。わたしは余計なことを言ってしまったことに気づいた。が、もう遅い。


「知って・・・るのか・・・」


「も・・・問題って言ってたから、多分そんなとこかなって思っただけだよ。詳しいことなんてお母さんも教えてくれないし・・・」


「・・・・・・・」


「ほんとに補導・・・されたの?」


「もう部屋に戻れ。こんな話してたら、母さんに怒られるぞ」


「みーくん!」


「知らない方がいい。・・・頼むから」


頼むから、と言った兄の顔が悲しげに歪んでいた。その表情を見て、わたしは何も言えなくなってしまった。とぼとぼとわたしは兄の部屋を出た。


悲しくて悲しくて、今度は声も出なかった。
喉からは泣き声ではなく、うう、といううめき声しか出てこない。
兄と同じ高校に行けないのが悲しいのか。
兄に何があったのかを教えてもらえないのが悲しいのか。
わたしの知らない兄の一面をかいま見てしまったから悲しいのか。
母が兄のしたことを恥じているのが悲しいのか。
わたしがひとり、蚊帳の外に放り出されたから悲しいのか。

正解はわからない。

兄の部屋からはもう、何の物音もしなかった。


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