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わたしのおにいちゃんのはなし 22

第二十ニ話


岡田先生と話をした翌々日、わたしはいつも通りに宮ちゃんと下校した。
あの雨の日のことは言わなかった。
山岡くんのことは、宮ちゃんが必要なら言うだろうし、言わないのならそれはそれで良かった。
岡田先生の話を聞いて、少しは前向きになれたものの、急にすべてを悟れるわけでもない。
なので、わたしは余計な情報を入手せず自分を守ることにした。わざわざ聞き出して、治りかけの傷をえぐる必要はないと思ったからだ。


高校進学については動きがあった。
依然母は、誉第一ではなく黒谷女子に行けと日々口うるさく言ってきていたけれど、進路決定の三者面談で、わたしは母の言葉を遮ってはっきりと誉に行きたい、と言った。着々と成績も上がってきていたので、担任の先生は「行けると思いますよ」と笑顔で言ってくれた。母はもぐもぐ口ごもっていたが、最後には仕方なく「よろしくお願いします」と言った。


わたしは誉に行くために、塾に行きたいと両親に頼んだ。母は最初、難色を示した。もう方向が決まったのにも関わらず、母は黒谷なら塾に行かなくても受かるのに、と言った。
塾の授業料が払えないような家でもないというのにだ。
珍しく自分から勉強したいと言った娘が不機嫌に、じゃあ、いい、と言ったのを見て、やっと父がわかった、と言った。華が頑張るって言ってるんだ、行かせてやれ、と言った父は、久しぶりに笑っていた。
兄と居るときはいつも眉間に皺が寄っていて、渋い表情をしていた父が笑ったのが、わたしはすごく嬉しかった。母はそこでやっと諦めたらしい。


そしていまだ、兄がなにをしたのかはわからない。
部活を辞めたのは、ひと月前くらいに両親に報告していた。本当はもっと前に辞めているのを知っていたが、わたしはちゃんと驚いたふりをした。バイトと塾には行き続けているようだった。相変わらず夕食時には姿がなく、兄が高校に上がったばかりの頃は寂しがっていた母は、最近、兄の茶碗や箸をあらかじめ食卓に出さなくなっていた。


一方、わたしの生活はいつもどおりだ。
受験に向けて勉強をし、週一回塾にも通い、親友と学校を行き帰りし、兄のいない食卓でご飯を食べる。
きっとこのまま三年に上がり、受験をして、誉に受かれば平凡な高校生になる、と思っていた。時々、兄が着ている濃いブルーのブレザーと、実乃里さんの着ていたベージュに黒のチェックのプリーツスカートを身につけている自分を想像して、ふふふと笑ってみたりする。
中学校の黄土色のブレザーと深いグリーンのスカートは正直好きじゃない。


その日もわたしは机に向かって数学の問題集を解いていた。父はまだ仕事から帰っていなかったし、母はおばあちゃんが腰を痛めたということで、隣町の病院に行っていた。台所にはカレーが作りおいてあり、お腹が空いたら先に食べてていいわよ、と朝言われた。
炊飯器のタイマー音が一階から聞こえてきて、空腹なのを思い出した。シャープペンを置き、椅子の背を使って伸びをして、わたしは勉強を中断した。
階段を一段ずつ降りるにつれて、ごはんが炊けた匂いが漂ってくる。一番下まで降りきった時、誰かの低い声が玄関の方から聞こえてきて、びくんと飛び上がってしまった。
父の声ではない。

兄だ。
そしてもうひとり、誰かの声もする。
そっとのぞき込むと玄関のドアが少し開いていて、その向こう側に兄の後ろ姿が見える。言い合い、とまではいかないが、少し口調が強い。


「倫也!」


瞬間、わたしの記憶が猛スピードで巻き戻された。
これは、双羽さんの声だ。ステージで聞いた、よく通るロミオの台詞が蘇る。
はっきり聞き取れるたのは兄の名前だけだった。
兄の声が少し裏返っているようにも聞こえる。
わたしは数歩、玄関に近づいた。


「どうして・・・そんなこと言うんですか!」


「俺なりに考えたんだよ・・・これが一番いいと思ったんだ」


「嫌だ!そんなの嫌だ!」


「倫也・・・お前、今一番大事な時だろ?少し離れて、集中したほうが・・・」


「そんなこと言って、俺の前からいなくなるつもりでしょう?!聖(ひじり)さんはいつもそうやって・・・」



聖さん!
双羽さんの下の名前は聖だ。彼らはもう、名字ではなく、下の名前で呼び合う仲なんだ。わたしはどきどきするのを止められなかった。



「お前に辛い思いをさせたくないんだ・・・解れよ」


「俺にとって何が一番辛いのか、聖さんはわからないんですか・・・っ」


「倫也・・・」


わたしはさらに、そっと玄関に近づいていった。壁づたいに一歩一歩、足音を消して、兄たちの言葉が聞き取れるところまで・・・

ふと、会話がやんだ。
兄の嗚咽が聞こえて、わたしはぎくりとした。これ以上近づいてはいけない、と直感が言っていた。とは言っても、もうすでにわたしの行動はとっくにプライバシーの侵害。とてつもなく大きな後悔を抱えて、わたしは立ち竦んだ。
盗み聞きするなんて最低だ。このまま静かに部屋に戻ろうと後ずさりしたその時だった。

「倫也!」


母の声が聞こえた。最悪の状況だと、わたしですらわかった。かあさん、と言う兄の声が焦りで上擦っている。そしてちょっと涙声だ。


「倫也、中に入りなさい」


母の声はいつもよりずっと険があった。ざざっ、とアスファルトを擦る足音が聞こえる。


「あのっ・・・僕、双羽と言いますっ」



双羽さんが母に何か言おうとしているらしい。相変わらずざりざりと足音が聞こえるのは、きっと母が兄を家に引っ張り込もうとしているのだと思った。


「先日の件で、お詫びさせていただきたくて・・・」


「倫也、何してるの、早く中に入りなさい」


「母さん!聖さんが話してるんだっ」


「帰ってもらって」


「母さん!」


「金輪際、息子に近づかないでください。倫也はあなたのような子とは違うの」


「・・・もちろんです。悪いのは全て僕です。倫也くんを巻き込んでしまって申し訳ないと・・・」


と、母の声が一気に強くなった。ヒステリックな女性の声がこれほど不快なものだとは思わなかった。


「申し訳ないと思うなら、今すぐ消えてちょうだい!もう倫也に関わらないで!」


「母さん、やめてくれ!」


「高校生を無理矢理ホテルに連れ込むなんて・・・ご両親の顔が見てみたいわ!」


「もうやめろ!」


わたしは壁に背中を付けたまま凍り付いた。うっかり叫び出さないように、両手で口を覆った。
わたしはそれまで、兄と双羽さんが恋人同士だと認識していたが、「それ以上」のことは考えないようにしていた。中学でもいわゆる初体験の話をしている女子がちらほらいるが、わたし自身にとっては、ずっと未来の話だと感じていた。びーえるを読んでもどこか絵空事で、兄たちに当てはめる想像力すらなかった。
兄は高校生で、そういうことを済ませていてもなんら不思議はない。
イレギュラーなのは、相手が「同性」ということ。


震える声で兄が母に抗議した。



「それは違うって、何度言ったら解るんだよ!聖さんは・・・・・・」


「倫也、いいかげんにしなさい!あなたは騙されてるのよ!」


「倫也、いいんだ、俺が悪いんだ」


「お願い、もう帰ってちょうだい!」


その瞬間、どうしてわたしがそんな行動に出たのか、今思い返しても意味がわからない。
凍り付いた足下が一気に融解して、わたしは靴下のまま玄関を飛び出し、彼らの前に走り出た。


「お母さん!」


わたしの声に振り向いた母と兄は顔面蒼白で、双羽さんは眉間に深い皺を刻んで、悲壮な表情でわたしをみとめた。
最悪なタイミングであることは火を見るよりも明らかだった。


「華!」


母は目を見開いて、あわててわたしに駆け寄った。そして兄と双羽さんの姿を隠すようにわたしの前に立ちふさがって、こう言った。


「なんでもないのよ。中にいなさい」


「なんでもなくないよね?どうしてこんな大声で話してるの?お客さんなら、もう暗いんだから中に入ってもらえばいいのに」


「お客さんじゃないの。ほら、中に入って」


「ねえ、みーくんに怒鳴ってた!話も聞こうとしないで!」


「あなたには関係ないの!」



それが決定打だった。
あなたには関係ない。
また蚊帳の外だ。
わたしが絶句して、両手を握りしめてぶるぶる震えているのに気づいて、母は急に作り笑顔で言った。


「もう、靴も履かないで。中に入ってご飯にするわよ」


わたしは母の伸びてきた手を払いのけた。みるみる母の表情が険しくなる。強引にわたしの手を取って、母は家の中に大股で入って行こうとした。
その背中に兄がもう一度、かあさん、と呼び止めた。


「頭冷やしてから入ってきなさい」


ぴしゃりと言い切り、母はわざとらしい音を立ててドアを閉めた。三和土《たたき》で掴んでいた手首を急に離すと、母は飽くまでも軽く、わたしの頬を叩いた。


「わからないことに口を挟まないの」


「・・・・・・わからなくなんかない」


「華!」


「わからなくしてるのはお母さんでしょ?家族の中で知らないのはわたしだけじゃない!」


「あなたには・・・・・・知って欲しくなかったのよ」


「何を?みーくんに好きなひとがいること?それの何が悪いの?!」



ドア一枚隔てて、きっとわたしの大声は外にいる兄と双羽さんにも聞こえているだろう。



「それだけじゃないの。いろいろ事情があって・・・・・・」


「その事情を「悪いこと」だと決めつけてるのは、そっちの勝手でしょ?みーくんが嘘ついてないことぐらい、わたしにだってわかるよ!」



わたしの両目からは、ダムから放流される水のように涙が溢れ出していた。
この期に及んで真実なんか知らされなくても、わたしには兄が嘘をついていないことも、双羽さんがすべての責任を負おうとしていることも、ふたりが誰よりもお互いのことを愛していることも、手に取るようにわかるのに。
どうして母にはそれが見えないのか、まったくもってわからなかった。

大人には大人の事情があるんだよ、と誰かの声が聞こえた気がした。



そんなもの、くそくらえだ。


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