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わたしのおにいちゃんのはなし 23

第二十三話



夕食は食べなかった。というか、部屋から出ていかなかったというのが正しい。
部屋の扉の内側にタンスを移動させて鍵の代わりにした。

兄はどうしただろうか。
双羽さんは本当に兄から離れてしまうんだろうか。自分の部屋で悶々としていたわたしは、兄がいつ二階の部屋に戻ってきたかどうかも解らなかった。
時々階段を上がってくる音がしたが、多分それは母だ。さすがに今夜はノックをしてこなかった。


わたしはひとり、机に座って考えていた。


大人になりきれない中学二年生女子の精一杯の、中途半端な反抗。

「君僕」のような世界が身近にあり、それは漫画ほど簡単ではなく、漫画よりもずっと甘く見えた。
わたしはまだ、身を焦がすほどの恋をしていない。
恋どころか、自分の容姿にまったく自身を持てず、おまけに親友の恋すら喜ぶ余裕もない。
偉そうに母に啖呵をを切ったものの、わたし本人は何の経験もなく、勝手に大好きな兄の代弁をした気でいるだけだった。

わたしは多分、当事者ではないことに落胆しているのだと思う。
わたしを巻き込みたくないと言った兄の想い。
わたしに知られないように、ひっそりと育てている宮ちゃんの恋愛。
わたしが好きなひとたちは、わたしを傷つけまいと、本当のことを背中に隠していつも通りに微笑む。わたしだけが傍観者だった。

雲が晴れていくように、急激にわたしは気づいた。

わたしは兄になりたかったんだ。
「木崎倫也」になりたかったんだ。

色が白くて、髪かふわふわで、細身で背が高く、目が大きくて、睫が長くて、バスケがうまくて、ドラムも出来て。
妹のピンチを察してさりげなく慰めることが出来て。
そして、すてきな年上の恋人にこの上なく愛されている。
まるで「君僕」の悠希のように。

そして宮ちゃんは、そんな脳内お花畑のわたしの「半身」だった。
わたしと同じことを考え、同じ速度でずっと隣を歩いてくれると思っていた。
最初はわたしの知らないびーえるを教えてくれた。ふたりできゃあきゃあ楽しんでいたのは最初の頃だけ。
ほとんど同時にいじめを受け、それをきっかけに宮ちゃんは親からの自立のために進路を決めた。
伸ばしていた髪をばっさり切り、今では憧れだった実乃里さんのようなショートカットになった。
そして、山岡くんと恋愛を始めた。

わたしは、セーターを取り上げようとした佐倉さんという存在を自分の視界から消した。
宮ちゃんは髪を引っ張った山岡くんとの関係を修復し、彼氏彼女の関係に発展させた。
この決定的な違い。
二年間の中学校生活を振り返れば、わたしの親友は宮ちゃんだけで、ほかに仲のいい友達はあまりいない。
「木崎さん」と呼ばれることはあっても、「はなちゃん」と呼んでくれるまでは進展しない。
当然男子と話すこともほとんどなく、友達と呼べる異性は誰もいない。

リアルから目を背け、「君僕」の世界にどっぷりはまり、兄と双羽さんを登場人物になぞらえて楽しんでいたわたしは、実在の人間と関わりを持つことから逃げていた。
高校の学校祭で、実乃里さんと楽しそうに話す宮ちゃんを見て寂しくなってしまったのも、わたしは「わたしの世界の宮ちゃん」しか知らなかったからだ。

わたしは椅子の上で膝を抱えて丸くなった。
「わたしの世界の兄」も、「わたしの世界の宮ちゃん」も、もういない。
彼らはきちんと前を向き、自分の足で一歩を踏み出している。
兄や宮ちゃんが前に進んでいる間、わたしはぬくぬくと、綿菓子雲のような「わたしだけの世界」でのんきに寝そべっていたのだ。



「華」


タンスでバリケードをした扉の向こうで、兄の声がした。
わたしは椅子から飛び降り、タンスをずりずりと半分よけてドアに貼り付いた。
わたしの名前を呼んだきり、兄はドアを開ける気配もなく、何も言わなかった。


「みーくん」


泣きすぎてがらがらの声でわたしは言った。
少し間が空いて、うん、と返事が聞こえた。


「・・・ごめんな」


兄の声もかすれていた。双羽さんと話している時、兄も泣いていたように思う。
双羽さんはどんな想いで帰って行ったのだろうか。あんなことを言われて、もしわたしなら心臓が張り裂けそうで、道すがら涙が止まらなくなると思う。


「・・・なんで謝るの」


「・・・・・・」


沈黙が流れた。
本当は、双羽さんとのこと、応援しているよ、と言いたかった。話したことはないけれど、双羽さんの兄に対する愛情の深さは、わたしのような子供でも感じ取ることが出来た。


「華」


もう一度兄はわたしの名前を呼んだ。いつもは、おい、とか、お前、なのに。
わたしは急に兄が何を言いたいのかが肌でわかってしまって、悲しくなった。


「俺・・・家、出るから」


「や・・・やだ!」


「ごめん」


「やだよ!なんで?高校卒業してからでいいじゃん!」


「早い方がいいんだよ。お前も来年受験だろ。俺がいたら今日みたいに勉強の邪魔になる」


「みーくんだって大学・・・っ・・・」


兄は隣町の大学を受験するため、バイトをしながらも塾に通い続けていた。・・・はずだった。


「・・・・・・受けないことにした」


「なんで・・・・・・」


兄は理由を言わなかった。


「やだよぉ・・・・・・」


我ながらひどく情けない声が出た。ついでに鼻水も。


「俺のせいで、さっき母さんと喧嘩しただろ。ちゃんと・・・・・・仲直りしろよ」


「お母さんは何もわかってないもん!」


「それでもさ。華の母さんなんだから」


華の、という言い回しに、どっと涙があふれた。


「うちらふたりのお母さんでしょ?!変なこと言わないでよ!」


母があんなに取り乱して怒るのは、兄を本当の息子だと思って育ててきたから。五歳の兄と二歳のわたしを、兄妹として母は慈しんできた。どんなに反抗していても、それくらいはわたしにだって理解出来る。
血の繋がりはなくても、わたしたちふたりは、両親の大きな愛に包まれて育ってきたのだ。
それに感謝できる器になるには、もう少し時間がかかりそうではあるけれど。


「大学行かないで・・・・・・どうするの」


ぐずぐず言いながらわたしは尋ねた。


「働くよ。とりあえずは今のバイト先、良くしてくれるから」


「どこに住むの」


「高校卒業までは、一人暮らししてる先輩の世話になる」


「ラ○ンしていい?」


「いいよ」


「毎日する」


「毎回返事は出来ないぞ」


「電話もする」


「いいけど、勉強もしろよ。誉、行くんだろ」


「・・・うん」



どうしても「双羽さん」という名前を出すことは出来なかった。
その名前は、「わたしの世界の兄」との最後の決別をする鍵だったからだ。




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