見出し画像

あなたに私は絡みつく 第52話


第52話 律


「りっちゃん、機嫌悪うねぇ?」

「別に…」

「この間のこと、怒っとるんじゃ…」

俺は母の情けない声に、余計に苛ついた。気が強くて、人の顔色を伺うことなど嫌うタイプの人だったのに、入院してからずっとこの調子だ。
無理もない、と思いながらも、つい強く当たってしまう。

「怒ってねえよ。母さんが頼んだんじゃないんだろ」

「それはそうじゃけど、兄さん、いろいろ心配で先走ってしもうたのよ。許しちゃってくれん?」

「心配の方向がおかしいんだよ…」

「ママが兄さんに変なこと言うたから…」

「……本当なのかよ、その…俺の結婚のためって…」

心配そうにこっちを見る視線が痛い。窓の外に顔を向けて、母の言葉を待った。
今日は少し風があって過ごしやすい。病室の白いカーテンが揺れている。

「そのためだけじゃねえけども、いつかなんかの足しに、って思うのは親じゃけぇ……何の気なしに言ったら、なんかすごいことになって…」

結婚資金じゃなかったとしても、結局は俺のため。父親がいない分、何かあったときのために蓄えておこうと思ってくれたのは有り難い。
再婚したい相手もいる様子はないし、母の生き甲斐は俺。

「とりあえず、心配すんなよ、金のことは。ちゃんと貯金もしてるし、仕事はちゃんとしてるから」

俺は母が食べ終わった夕食のトレーを持って立ち上がった。ワゴンに返しに行こうとした俺の背中に、母の声が追いすがった。

「……好きな人、おるんじゃねえの」

意志に反して脚が不自然に止まり、食器がトレーの上で跳ねた。
振り返って見た母は真顔で、ふざけて返すことも出来ない様子だった。
無視して歩きだそうとした俺を、母の言葉がさらに追いつめる。

「ママはりっちゃんが好きな人と一緒になれたらいいと…」

「いいから、そういうの」

俺は早足でトレーをワゴンに戻した。これ以上は聞かないぞ、という意思表示でリュックを背負った。
明日また来る、と言って病室を走り出た。

病室を出る直前にりっちゃん、と母が呼んだ声が、頭から離れなかった。


病院を出ると、今にも雨が降りそうな暗い雲が広がっていた。
傘を持ってきていない。
走っても家まで30分。タクシーを使うのは経済的にアウトだ。

空を見上げて逡巡しているうちに、ぽつりぽつりと降ってきてしまった。
病院に戻って売店で傘を買おうかと歩き出したとき、道の向こう側から聞き慣れたクラクションが聞こえた。
欧介さんのレンジローバーが停まっていた。

「雨に降られて困ってるかわいい子がいたから、引っかけてみた~」

「……欧介さんが言うとシャレにならないからやめて」

最近はこういうことも平気で言えるようになった。欧介さんが笑う。
でも実は、いたたまれない。
昨日の夜、どうやら俺は悪酔いして欧介さんを襲ったらしい。目が覚めて、俺のベッドに欧介さんがいるのに驚いて、大騒ぎしてしまった。

そして、本当は偶然俺を見かけたんじゃなくて、病院から出てくるのを見計らって待っていてくれたこともわかっている。
滅多に酔わない俺の失態の理由を、心配してくれている。

「お母さん、どうだった?」

「元気だよ。飯もちゃんと食ってるし。あとは薬で様子みるって」

「そうか…よかったな」

「……うん」

「律」

「うん?」

「この間…ごめん。車でキスして」

「……もう、気にしてない」

「…そっか」

それからしばらくは、ふたりとも無言だった。
窓の外を見たまんまの俺に気を使わせないように、欧介さんはラジオから流れる洋楽を口ずさみはじめた。
発音、いいな。
この人もしかして英語もいけんのか。今更だけど、何者?
ふと欧介さんが歌うのをやめて、言った。

「律……今日、ビーフカレー、辛口なんだけど」

「……食います」

高校のときから、俺が困っているときは必ずうまいものを食わせてくれる欧介さん。
今朝俺がびっくりして大騒ぎしたときも、家にあるもので美味しい朝食を作ってくれて、食べたら嘘のように落ち着いた。俺の胃は感情と繋がっているらしい。

「欧介さん」

「ん?」

「ゆうべは…その…」

「…気にしなくても、別に俺は嫌な思いはしてないから。むしろ楽し…」

「……おじさん発言禁止」

はは、と笑って欧介さんはウインカーを切る。こういう時、欧介さんは本当に大人。俺がまだガキなのかもしれないが。

「本当にね、律。俺は、律が求めてくれることは何でも嬉しいんだよ。だから思ってること、全部ぶちまけてくれてかまわないんだけど」

「………」

「何か、気になってることあるだろ?」

俺は欧介さんの顔を見た。
赤信号で車が静かにスピードを落とす。完全に停まったのを見計らって、俺は運転席に身を乗り出した。
キスをしたら、欧介さんがびっくりした顔で俺を見ていた。

「律…?」

「今日、欧介さん家泊まりたい」

「……いいよ」

俺は今夜、ひっかかっていることを全部話そうと決めた。
おいしいビーフカレーを食べてから、酒は…やめておこう。
見合いの話も、母さんが倒れた理由も。ついでにずっと聞けなかった、欧介さんと芦沢さんのことも。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?