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わたしのおにいちゃんのはなし 12

第十ニ話

わたしの家の玄関は表通りから離れていて、お向かいの家の人が出てこない限り、誰かに見られることはない。
話し声は聞こえなかった。
なぜなら二人は、こちらが恥ずかしくなるほど顔を近づけて話していたからだ。


兄の陰に隠れていた相手がちらりと見えたとき、わたしは無意識に両手で口を覆った。

兄と話していたのは、あの友人③。学校祭のロミオだった。
兄の表情はわからない。友人③は、そんなに近づく必要があるだろうかと思うほどの距離で、兄を見つめている。
そんなことしていたら、そのうちおでこがぶつかってしまう。高校生男子がふたり、そんな至近距離で見つめ合うのはどうして?
わたしは息を殺して、彼らの様子を見守っていた。

途中で友人③が兄の手を握っているのに気づいてしまった。心臓がばくばくし始めた。離れた彼らにまで聞こえるはずがないのに、自分の中で響くその音が大きすぎて、知らず息を止めていた。
いわゆる恋人つなぎ。超スーパー仲良しのわたしと宮ちゃんですら、しない。

透司と悠希。その単語がぽん、と頭の中に浮かんできたのは唐突だった。友人③が透司なら、どちらかというと女顔の兄は悠希に見えないこともない。
それがわたしの勝手な妄想ではないと確信したのは、兄の顔に友人③の顔が重なったのを見たからだ。はっきりと確認は出来ない。が、その角度はまさに今読んでいた「君と僕のあの日の恋」のふたりのキスシーンと寸分変わらなかった。

桜こそ咲いていないが、家の門柱のそばに立つ大きな栗の樹の下で、兄と友人③は密かにキスをしていたのだ。



中学一年のわたしにとって、その情景は衝撃的というよりも、人生で初めて目にした「愛」の光景だった。家族愛と友愛ぐらいしかお目にかからない年頃のわたしが見た、初めてのリアルな「愛」。
三つしか違わない兄が、ひどく大人に見えた。あまりに美しく、かつ見てはいけないものを見てしまったような、背中がぞわぞわする感じ。
その感覚が「背徳的」という言葉で表されることを知ったのは、それからずっと後のことだったのだが。





「はなちゃん、おはよう」


教室の机に突っ伏していたわたしの頭上から、宮ちゃんの声が聞こえてきた。


「宮ちゃん・・・」


「わっ・・・ど、どうした、その目・・・」


わたしの真っ赤に泣きはらした目を見て、宮ちゃんは一歩後ずさった。


「こ・・・これ・・・」


わたしは宮ちゃんに借りていた「君僕」の最終巻を差し出した。


「ああ・・・・・・わかるわかる、初めて読んだ時、わたしもそうなった」


「ううっ・・・宮ちゃあん・・・」


最終巻はまさかの展開だった。大学生になったふたりは地元と東京を行き来している間に、今までにない大きな喧嘩をする。就活の時期になり、お互い自分のことに必死なうちに連絡を取らなくなり、社会人になったふたりは、それぞれに違う相手を選んでしまう。

最後のシーンは東京、透司は恋人の女性、悠希は恋人の男性とともに歩いている。ほんの少しの時間差ですれ違うふたりは気づかずに離れていくが、透司だけが何かを感じてふと立ちどまり、後ろを振り返る。透司の目には悠希の後ろ姿が映っているが、悠希はその視線に気づかない。
わたしは情けない声で宮ちゃんにすがった。


「ハッピーエンドじゃなかったよぅ・・・」


「はなちゃん、心配は無用だ。なんと「君僕」には続編がある」


「えっ」


「「君と僕のこれからの日々」という・・・」


「べ・・・ベタなタイトル・・・」


「確かにタイトルはベタだが、社会人になったふたりのすったもんだが読める」


「よ、読ませてくださいぃぃぃ」


「もちろん!ほら、ここにある」


「神がいる!!!」


宮ちゃんはにっと笑って、わたしの机に「君と僕のこれからの日々」を置いてくれた。わたしはありがたく受け取ったが、表紙のふたりの絵柄を見て、もうひとつため息を吐いた。


「・・・はなちゃん?」


「・・・宮ちゃん、ちょっと話が・・・」


わたしは立ち上がり、宮ちゃんを誘って西階段の踊り場に向かった。特別教室ばかりの西棟のそこはあまり人が来ないので、秘密会談には持ってこいだった。
階段に直に並んで座り、わたしは切り出した。


「宮ちゃん、これから話すことは、嘘のような本当の話で」


「うん」


「かつ、宮ちゃん以外には話すことのできないことで」


「・・・うん」


「宮ちゃんを信用して話そうと思います」


「・・・待って、怖い」


宮ちゃんは珍しく、おびえた顔をした。わたしの喉が、ごくりと音を立てる。わたしだってこれを打ち明けるのは怖いのだ。宮ちゃんのような信頼できる相手がいなければ、この件はお墓の中まで持って行くつもりだった。
わたしは覚悟を決めて、兄と友人③のことを告げた。


「・・・・・・・」


宮ちゃんは大きく目を見開いて、ついでに口も開けたまま固まってしまった。想像通りの反応だ。天井を見上げ、床を見下ろし、わたしの顔を見て、やっと宮ちゃんの口から声が絞り出された。


「はなちゃん・・・こんなことを言うのは、わたしが部外者だからかもしれなくて、気分を害してしまうかもしれないのだけど」


丁寧に、わたしに気を使いながら、宮ちゃんは言った。わたしはその気持ちに応えようと、真剣な顔でうなづいた。
宮ちゃんは言った。


「・・・と・・・」


「と?」


「尊い!」


「だよね?!尊いよね!!わたし、兄の妹で良かったって思った!」


「わかる!わたしがはなちゃんでもそう思う!」


「宮ちゃん!」


「はなちゃん!」


またまたわたしたちはひしと抱き合った。本当にわたしたちはしょっちゅうこれをやっている。顔のすぐ近くにある宮ちゃんの三つ編みがくすぐったい。が。
こんなに近くにいても、わたしは宮ちゃんにどきどきしたりはしない。宮ちゃんとなら手もつなげるし、いつまでも一緒にいたいと思うが、キスしたいとは思わない。
これが「友愛」と「恋愛」の違いか。


「ただ・・・友人③が、例のフタバさんなのかどうかはわからないんだよね」


「・・・そうか・・・・・・あっ」


「え?」


「はなちゃん、いいものがある!」


「いいもの?」


「ちょっと待ってて!すぐ来る!」


そう言うと宮ちゃんはわたしを置いて、全速力で教室に走って戻っていった。西棟からわたしたちの1Bまではかなりの距離があるが、なんと十分もかからず宮ちゃんは戻ってきた。
息を切らして階段を登ってきた宮ちゃんは、わたしに丸まった紙を差し出した。


「これ!」


「何?」


「この間のロミオとジュリエットのパンフ!わたしもよく見てなかったけど、もしかしてここに名前が載ってたりとか・・・」


「なんで今日持ってるの?」


「家に置いておくと両親に見られるから、学校の鞄に入れっぱなしにしておいた!」


「やっぱり宮ちゃん、神!」



当日は演劇で感動して泣き、バンドで泣き、とにかく忙しかったので、キャストの名前を見るまでには至らなかった。わたしたちは肩を寄せ合ってよれよれになったパンフをそっと開いた。落ち着いて考えれば当たり前なのだが、そこにはちゃんとキャストの名前が載っていた。


ジュリエット。三年A組、柳沢香澄(やなぎさわかすみ)。
ロミオ。三年F組、双羽 聖(ふたばひじり)。


わたしは最初、フタバさんが女性の名前だと思って勝手に二葉とか双葉とか、漢字を当てはめて楽しく想像していた。
フタバは、双羽で、名字だった。
それも最上級生。兄の二つ上。


「やっぱりフタバさんだ・・・」


「双羽聖・・・そのまま漫画に出てきそうな名前だ・・・そして似合ってる」


「うん・・・それに双羽さん、バンド発表見に来てたんだよ」


「はなちゃん、見たって言ってたな」


「すぐ居なくなったけど・・・あれは絶対そうだった。ドラムセットの真ん前で・・・」


そう、双羽さんは、ドラムセットの真ん前にいた。何の打ち合わせもなくわたしと宮ちゃんは手を取り合った。


「やばい、リアル透司と悠希だあああ」


「萌えるぅぅぅ」


「幸せになってくれぇぇぇ」


「壁になって見守りたいぃぃ」


「あ、わたしの部屋、もろ壁かも」


「え、泊まりに行きたい!」


「来てきて!」


ひととおり盛り上がったその時、昼休みが終わるチャイムが鳴った。あわてて教室に走りながら、わたしはふと思った。


兄と双羽さんが恋人同士だということはわかった。でも双羽さんは三年だから、来春には卒業してしまう。そうしたら兄はどうするんだろう。同じ大学に行くのか?それとも就職?わたしは兄たちの進路を勝手に想像して勝手に心配した。相変わらず余計なお世話なのだが。
そもそも、ふたりはいつから付き合っているんだろう?入学して半年の一年生が、三年生の双羽さんと知り合って付き合うまでに、そんな短い間でどうにかなるものなんだろうか?

ぎりぎり授業に間に合って、椅子に腰を下ろしたわたしは急激にある記憶を思い出した。
高校受験で進学校に受かった兄が、それを蹴って市内の高校に通うと言って聞かなかったことを。
もしかして中学生のうちに、ふたりは恋に落ちていたのだろうか。
今、教室で黒板に向かっている自分とそう変わらない年齢の兄が双羽さんと「恋愛」をしていたと仮定すると、あまりにも自分が子供に感じた。

だって、あとたった二年で年上の恋人と樹の下でロマンチックなキスをするなんて、「君僕」でキュンキュンするのが精一杯のわたしにはとても考えられなかった。


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