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わたしのおにいちゃんのはなし 16

第十六話


「ただいま」


進路のことを考えつつどんよりと帰宅したその日、玄関には珍しく兄のスニーカーが脱いだままの形で置いてあった。その横に、父の革靴も並んでいる。
今日は兄は部活のはずだし、父は平日、夜七時前に帰ってくることはないのに。今はまだ三時半だ。
いつもなら母のおかえり、という声が聞こえて来るはずなのだが、どうやらリビングのドアが閉まっているのか、廊下は静まりかえっていた。
不思議に思ってリビングのドアノブを握った時だった。
父親の野太い怒鳴り声が聞こえた。
普段あまり声を荒げない人なので、わたしは驚いてドアを薄く開けた状態で固まった。中には、わたし以外の家族が揃っていて、兄は制服、父は仕事用のスーツを着ていた。テーブルを挟んで父と兄は向かい合って座り、父の椅子の少し後ろに母が眉間に皺を寄せて立っている。


「華!」


母がわたしに気づいた。あわてた様子でわたしに駆け寄ってくる。父と一瞬目が合ったが、険しい表情で一瞥されただけで何も言われなかった。兄は自分の膝を見下ろしているだけで、わたしの方を見もしなかった。
どうやら兄が何かやらかしたっぽい。
母はドアを後ろ手に締めて廊下にわたしを押し出し、背中に手を置いた。


「おかえり、ごめんね、ちょっとこっちおいで」


「・・・みーくん、どうしたの」


「うん、大丈夫、今お父さんと話してるとこだから」


「なにしたの」


「華は心配しなくていいから。それより、買い物お願いできる?」


「・・・・・・」


こういうとき、末っ子はえてして事の真相を教えてもらえない。ということは、兄はなかなかどうしてまずいことをしでかしたのだろう。
万引き?いや、兄はお金に困ってないし、そんなに物欲があるほうじゃない。
喧嘩?いやいや、全然そういうタイプじゃない。
傷害事件に巻き込まれ・・・いやいやいや・・・・・・

わたしはしぶしぶ、母に言われた夕食の材料を買いにスーパーに向かった。
玄関で靴を履き直している間、リビングからもう一度父の怒号が聞こえた。
兄の声は聞こえなかった。


夕食の材料を買って家に戻ってみると、玄関には父の靴は無くなっていた。仕事に戻ったのか、出掛けたのか。兄のスニーカーは向きを揃えて置いてある。
リビングにはもう兄もいない。スーパーの袋を母に渡し、何があったのか聞こうと思ったが、おそらくさっきと同じことしか言ってもらえないと想像してやめた。

二階の自分の部屋に上がったが、どうにも気になって兄の部屋側の壁に耳をつけてみた。
何の音もしない。静まりかえりすぎて、いないのではないかと思うほどだった。ドアをノックして聞いたところで、きっと兄は何も言わないだろう。
わたしは一年の頃、兄に助けてもらったのを思い出していた。
アイデンディティという言葉を教えてくれたのも、自分は自分でいい、ということを教えてくれたのも兄だ。おかげでわたしは少し強くなった気がする。


わたしは勇気を出して、兄の部屋をノックした。


しばらくは何も聞こえなかった。
わたしは黙って待った。やっぱり無理か、と諦めて部屋に戻ろうとした時、ぎい、とドアが開いた。


「・・・なに」


兄は抑揚のない声で言った。顔が青い。


「みーくん・・・大丈夫?」


「だから、なにが」


「・・・・・・・・・」


機嫌が悪いのはわかっていたが、その声の低さにわたしは怯んだ。兄はわたしの表情を見て、ふっと顔を緩めた。



「・・・・・・いや、悪かった」



兄はいつも、わたしを気遣ってくれる。どんなに自分が辛くても、わたしをおざなりにはしない。


「何があったの」


「・・・・・・ちょっとな。まあ、たいしたことじゃないから心配すんな」


「そう・・・」


「お前に迷惑はかけないようにするから」


「そんなこと思ってないよ」


「・・・・・・もしかしたらかかるかもしんねえけど」


「わたしは大丈夫」


「なんで」


「みーくんの妹だから」


「・・・・・・なにそれ」



やっと兄が笑った。わたしは背中に隠していたハーゲンダッツのバニラを兄の前に差し出した。
母に内緒で、自分のおこづかいで買った。


「はい」


「華・・・」


「早く食べないと溶けるよ」



わたしはくるりと背を向けて自分の部屋に戻ろうとした。
すると、兄が言った。



「もし、俺のことでお前が学校で困るようなことがあったら・・・」



学校で?どういうことだろう?そんなに大きなことなんだろうか。
兄は続けた。


「俺とは血が繋がってないから関係ないって言っていいからな」


「みーくん!」


わたしは振り返った。
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。


「それ、いつの話?!わたしが二歳のときのことでしょ?そんなんもう忘れた!」


「華・・・」


「わたしはみーくんの妹だから!勝手に他人にしないでくれる?変だよ!」


「・・・・・・変か」


「すっごい変!早くアイス食べな!」


わたしは泣いているのがばれないように急ぎ足で自分の部屋に戻り、ベッドにダイブした。
ドアを閉める直前にめちゃめちゃ小声で、ありがとな、と兄が言った。


みーくん、何があったの。


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