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わたしのおにいちゃんのはなし 24

第二十四話


兄が家を出たのは、あの騒動の一週間後だった。
出るまでは、毎日母と、父と兄が口論を繰り返し、それが始まるとわたしは無言で二階の部屋に上がった。最初は怒鳴り声がする度に心臓が痛んだが、一週間も続くと、ため息しか出なくなっていた。

ある日、母から話を聞いたのか、父が事情を話す、と言ったのをわたしは断った。


(華にちゃんと説明しなかったのは父さんと母さんの落ち度だ。全部話すから聞きなさい)


(・・・要らない)


(華・・・)


(今更聞きたくない。聞くならみーくんから聞く)


母がヒステリックにわたしを呼ぶのを無視して、わたしはリビングを出た。
わたしに出来る抵抗はこの程度。中学二年生がひとりで生きていけるわけもなく、両親が居なければ何もできない。それでも、せめて一太刀浴びせたかったのだ。

そして一週間が経ち、兄は少ない荷物を持って家を出ていった。わたしが学校に行っている間に居なくなっていて、帰宅したわたしはがらんとした兄の部屋のドアを開け、とうとうやってきたこの瞬間にひどく落胆した。
部屋の中にはベッドや机、タンスなどがそのまま置かれていて、服や文房具、本やCDなどだけがそこから消えていた。

昨日まで兄が寝ていたベッドに腰を下ろすと、あの、少し甘めのコロンが香る。わたしがプレゼントしたチェックのクッションはなかった。持って行ったのだとわかって、再びじんわり涙が滲む。
机の上はきれいに整理されていて、空になったペン立てと丸い置き時計だけが残されていた。

わたしは手の甲で涙を拭って、のろのろと自分の部屋に戻った。
ドアを開け、かばんをどさりと床に落とし、ベッドに座ろうとしたとき、机の上にわたしの物ではない本が堆く積まれているのに気づいた。


「え・・・?」


参考書だった。兄が高校を受験したときに使ったものと思われた。たくさんのアンダーライン、折り目がついていたり、書き込まれていたり、当時の兄が真剣に勉強していた様子が伺える。
五冊の参考書の下には、兄の直筆のノートが三冊。それを開くと、中学生時代の決してきれいとは言えない兄の文字がびっしりと書き込まれていた。
そのノートは、さながら兄の「作品」だった。

わたしのために残していってくれたんだ。

参考書を持つ手が震えた。そしてその拍子にページの隙間からなにかがハラリと落ちた。

白い、なんの変哲もない封筒。わたしは焦る気持ちで封を開けた。
中には、知らない電話番号と住所だけが書かれた紙が入っていた。メッセージはない。
華へ、という文字がわたしをさらに感傷的にさせた。わたしだけに、住むところを教えてくれたのだ。そして同時に、両親にこれを伝えるかどうかは、わたしの判断にゆだねられていると感じた。
一番下に綴られた、倫也、という署名をわたしは人差し指でそっとなぞった。


わたしは椅子に座り、参考書を開いた。
母にごはんよ、と呼ばれるまで、制服を着たままで無心に勉強した。



三年に進級した。
宮ちゃんとはまたクラスが離れたが、相変わらず朝は一緒に登校している。週に一日か二日、タイミングが合えば一緒に帰ることもある。
二年の終業式の日、わたしは母に頼んで近くの美容室に連れて行ってもらった。背中の真ん中まで伸ばしていた髪を、耳の下まで切った。
母はここ何年か、わたしが髪を切りたがらなかったので、少し驚いていた。特に理由も無かったのだが詮索されるのが面倒くさいので、受験に集中したいから、と言っておいた。


また、三年になって仲良くなったのは、なんとあの、宮ちゃんに「オタクキモい」と言ったバレー部の藤尾さんだった。
きっかけは、やっぱりわたしの髪だったのだ。


「木崎さん」


掃除当番で一緒になった藤尾さんが、帰り際に話しかけてきた。わたしの中で彼女はいい印象がなかったのだが、彼女はやけににこにことわたしを見つめていた。


「藤尾さん・・・・・・何?」


「髪、切ったんだね。似合うよ」


「あ・・・・・・りがとう」


「あのさ、ずっと言おうと思ってたんだけど」


「うん?」


「木崎さん、絵、うまいよね」


「絵?」


わたしより15cmは背が高い藤尾さんは少し恥ずかしそうに背中を丸めた。そして鞄の中から一冊の本を取り出して、わたしの前に差し出した。
それは、わたしはまだ読んだことはないが、最近出版されて人気を博しているびーえる小説本だった。
びーえるなんか気持ち悪い、と言い出しそうな雰囲気の藤尾さんがそんな本を持っていたのがすごく意外だった。


「実は私最近これにはまってて・・・・・・でもこれ、挿し絵少ないんだよね」


「うん・・・・・・?」


「それでね、木崎さん、絵うまいじゃん?」


藤尾さんは同じことをもう一度繰り返した。
彼女が言っている絵、というのは、多分わたしがノートの端っこに漫画のキャラクターなんかを描いているのを言っているのだと思う。一年生の頃は宮ちゃんときゃいきゃい言いながら、「君僕」の透司や悠希を真似て描いて遊んでいたものだ。
それを藤尾さんが知っていたなんて、そっちの方が意外だ。


「このキャラ、描けたりしない?」


藤尾さんは小説本を開いて、挿し絵が描かれているページを見せてくれた。


「あ・・・っ・・・」


小説の挿し絵を、漫画家さんが担当するのはよくあること。
その小説の挿し絵を描いているのが「君僕」を描いている漫画家さんだと、わたしはすぐに気づいた。なぜなら、そのキャラクターは少し、「君僕」の悠希に似ていたからだ。
その瞬間、いろいろなシーンが思い出されて、心臓がぎゅん、と締め付けられた。
兄と双羽さんの電話を初めて聞いてしまったとき、兄の部屋の窓に頬杖をついた双羽さんの横顔を見たとき、ドラムを演奏する兄を見つめる双羽さんに気づいたとき、ふたりがひっそりとキスをしていたとき・・・

わたしは美しい兄に憧れ、兄そのものになりたかった。そして同時に「君僕」のような世界で生きていきたい、と思っていた。
平凡な中学生女子である自分を好きになれず、長く真っ黒な髪で本当の自分を覆い隠し、現実から目を背け続けていた。


「どうかな・・・・・・描いてもらえる?」


藤尾さんは大きな体を縮めてわたしの返事を待っている。
わたしは息を吸い込み、藤尾さんを見上げて言った。


「いいよ。あんまり上手じゃないかもしれないけど」


「本当?ありがとう!」


この時、わたしは初めて藤尾さんに笑いかけることが出来た。
二年で宮ちゃんとクラスが離れてからのわたしは、誰とでも一定の距離を置くようにし、当たり障りのない人間関係を作ってきた。どうせこんな暗いオタクなど、誰も相手にしないと思っていたから。
それが、まさか藤尾さんが、わたしの絵を見てくれていたなんて。向こうから声をかけてくれるだなんて。
そういえば、一年の頃に佐倉さんと一緒にわたしを馬鹿にしていた子がこの間、数学のノートを貸して欲しいと言ってきた。どうしてわたしなのか不思議に思ったが、断る理由もなかったので普通に貸した。帰ってきたノートには、小さなチョコレートが添えられていたっけ。


不思議だった。
わたしは何も変わっていないのに。
周りの景色が、特急電車に乗っているみたいにめまぐるしく変化していく。
兄のことも宮ちゃんのことも、わたしは今でも大好きだ。
でも。
これからの人生、わたしが出会っていく人の人数は計り知れない。
そのひとりひとりを色付きフィルター越しに見ていたら、気持ちを打ち明けられる友達も、彼氏も出来ることはないだろう。

わたしはクラスを見渡してみた。
藤尾さんの後ろで、本当は持ってきてはいけないアイドル雑誌を真剣に読んでいる二人組は、山本さんと清水さん。清水さんはこの間、わたしが紙の端っこで指を切ったとき、キャラクターつきの可愛い絆創膏をくれた。
掃除用具を片づけている瀬尾くんは委員長。掃除をさぼろうとした男子に困っていたとき、わたしの代わりに注意してくれた。
たった今教室を出ていったのは、わたしが髪を切ったことで初めて話しかけられた、久保田さんと大庭さん。

わたしは彼らを、顔のないのっぺらぼうとして見ていたのに、彼らはわたしの顔を認識してくれていた。
だれひとりとして同じ顔をしておらず、みんな生き生きと笑ったり喋ったり。
わたしは藤尾さんに話しかけられて、教室の中がこんなにもたくさんの色と音であふれていたのだということを知った。

わたしもいよいよ、居心地のいい綿菓子雲から降りるときが来たのかもしれない。



兄と双羽さんの間にあった出来事を知ったのは、
三年になってすぐのことだった。


双羽さんが兄を無理矢理ホテルに連れ込んだわけでもなく、ホテルから出てきたのを補導されたわけでもなく、そういう場所の近くをふたりで歩いていたところを、たまたま兄の同級生が見かけて親にチクった、というのが真相だった。
兄と双羽さんの男性同士としては親密すぎる距離感が「ホモ」という差別用語を伴い、噂はまことしやかに広まったという。
兄は、高校生が夜遅くそんな場所をうろついていた、ということで生活指導を受けたそうだ。
しかし同級生の親たちの中では、双羽さんが兄をかどわかした、兄はそれを受け入れた、と面白おかしく脚色され、いつしか両親の耳にまで届いたようだった。


なんて馬鹿馬鹿しい。
わたしはその適当なことを言いふらした兄の同級生とその親を探し出して、丑三つ時に呪い殺してやりたくなった。本気で。
そのせいで、双羽さんは犯してもいない罪をかぶろうとし、兄は家を出ることになってしまったのだ。
彼らの真剣な愛情を汚したのは、あり得ないほど無責任なゴシップだったのだ。



兄が今、一緒に住まわせてもらっているという先輩は双羽さんなのだろうか。
双羽さんは、兄を大切にしてくれているのだろうか。



兄は今、幸せだろうか。











わたしは藤尾さんと別れて、宮ちゃんのクラスに向かって歩いた。

今日は宮ちゃんと帰ろう。
そしてちゃんと、山岡くんとのことを知っていたよ、黙っていてごめん、と伝えよう。今更だけどちゃんと祝福するんだ。

家に帰ったら、藤尾さんに頼まれたキャラクターを描こう。人のために描くのなんて初めてで、少し緊張する。でも、すごく楽しみ。

来年の春、誉高校に合格したら、兄に会いに行こう。ラ○ンはしょっちゅうしてるけど、声はずっと聞いてない。
そして双羽さんにちゃんと挨拶するんだ。

わたしの自慢のお兄ちゃんを、どうぞよろしくと。






隣のクラスのドアを開け、振り返った宮ちゃんにわたしは言った。



「宮ちゃん、一緒に帰ろう」






         完


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