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あなたに私は絡みつく 第46話


第46話 欧介


朝顔のカーテンに見とれていた俺は、石を踏む足音に振り返った。

何の期待もしていなかった。
心の準備も出来ていなかった。

律。

モン・サン・ミッシェルで数分だけ再会した彼が、そこにいた。
背が伸び、少し筋肉質な上半身。大人びた目元と驚いて薄く開いた唇。さらさらの黒髪は当時の質感を残したままだった。

俺の視線と律の視線が交差する。上手に微笑みたいのに、顔の筋肉が強ばって笑えない。
律は大きく目を見開いて、足が重いみたいに引きずって、こちらに一歩近づいた。俺も進みたいのに、誰かが足首を掴んでいるみたいにひどく重い。


ゆっくりと、俺と律は距離を縮めた。急いで近づいたら、消えてしまうんじゃないかと思った。信じられなくて。
夏の午後、蝉の泣き声だけが聞こえていた。
背中に流れる汗は、季節のせいだけじゃない。脈が早くて、心臓が口から飛び出しそうだった。

触れられる距離まで近づいて、俺は右手を前に伸ばした。
律は、向かい合った左手を出した。
俺の右手と律の左手が繋がる。
律の右手と俺の左手も繋がった。
その温かい感触が、夢じゃないのだと知らせてくれた。

「り…つ…」

やっとの思いで絞り出した声は情けないほど震えていた。
律は、泣き笑いの表情で、やっぱり情けない声で答えてくれた。

「おかえり……欧介さん」

律の手を力強く握ると、握り返してきた。瞬きを忘れてその真剣な眼差しを受け止める。
モン・サン・ミッシェルで再会したときとは違う、温かい空気。俺と律はもう一歩、自然に近づいた。

「…ただいま……律」

映画のワンシーンのようにゆっくりと、俺と律の唇は重なった。
かつて、俺を見上げていた律は、今同じ目の高さで瞼を閉じている。高校生の頃の危うさは身を潜め、代わりに大人の男の凛々しさを纏っていた。


本当の居場所に戻ってきたのだと、俺は思った。

目を見張るほどの朝顔のカーテンを、俺は信じられない気持ちで見ていた。
こんなに大切に、こんなに美しく。枯れるどころか、俺が育てていたときよりもずっと生き生きと朝顔たちは太陽に向かって咲き誇っていた。

「こんなに…きれいに咲かせてくれて…」

律は少し大人びた笑顔で言った。照れくさそうに。

「…枯らさないで待ってるって言ったから」

大変だったんだぞと言われても仕方ない時間を預けていた。俺を責める言葉もなく、律は誇らしげに朝顔を見つめていた。

言わなければならないことがありすぎて、逆に無口になってしまう。
律も穏やかに微笑むだけで、二人の間には静かな時間だけが流れる。モン・サン・ミッシェルでの修羅場など、夢だったかのようだ。

「一人でここまで、大変だったろ?」

「うん…でも、俺がいないときは、母さんが水やり手伝ってくれたから」

「律!そういえば、お母さん入院したって…」

「知って…るの?」

「今朝、アルティスト・フォトに寄ってから帰って来たんだ。綿貫さんに聞いたよ」

「……母さんは、脳梗塞の発作。発見が早くて命に別状はないけど、しばらくは入院だって」

「………」

なるみさんはまだ若い。脳梗塞だなんて。

「でも大丈夫、さっき会ってきたけど、思ったより元気だった。しばらく俺もこっちにいるつもりだから」

「そうか……」

律は、心配を押し隠した表情でうなづいた。見舞いに行きたいと思うが、なるみさんには数回しか会ったことがない。
次の言葉を探していると、律が言った。

「……欧介さん、いつ東京、戻るの」

「……え…」

俺は、律の悲しそうな表情で、この数年彼がどんな思いで俺を待っていてくれたのかを知った。
俺だけじゃなかった。
必要としてくれていた。
俺は律に近づき、再び彼の手を取った。

「もう戻らないよ。ここに、帰ってきたんだ」

「モン・サン・ミッシェルは…?」

「……辞めてきた」

「本当…に?」

「本当に。ずっとここにいる」

「………」

信じられないのも無理はない。連絡もなく何年も待たせて、ひどい再会の仕方をしたのだから。本来、まず話さなければならないのは、どうして帰ってこられなかったのか、その理由だけれど。
律が知りたいと言うことには、全て答えるつもりで帰ってきた。
が、本人を目の前にすると、唾を飲み込むだけで言葉にならなかった。

「……良かった」

律は、たった一言だけ、言った。
俺は掴んだ手を引き寄せ、律を抱きしめた。身長の伸びた律の身体は、俺のおぼろげな記憶の中の彼よりも逞しかった。

「ごめん……本当に」

「……いくじなし」

律は俺の肩に頭を乗せた。
本当に、俺はいくじなしだった。
律は、俺を信じて、東京と地元を行き来する生活をしながら、朝顔を枯らすことなく、待っていてくれた。
律との見えない未来に怯えて、一番戻りたくない場所に戻ってしまった俺を追いかけて来てくれた。
もう逃げない。

「律……おいで」

俺は、律の手を引いて、数年ぶりの自宅の鍵を開けた。

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