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わたしのおにいちゃんのはなし 14

第十四話



「宿泊学習から帰ってきてからずっと、部屋から出てこないのよ」


「・・・何かしでかしたんじゃねえの」


「それを話してくれないから困ってるの。・・・華、泣いてるみたいで」


「ふーん・・・」


母はさっきから何度もドアをノックする。そのたびに放っといて、とわたしが言って足止めしていた。
リュックの中には、もう着れなくなってしまったセーターが入っている。母には言えない。あんなに嬉しそうに買ってくれたのに。それにわたしがあんなことを言われたと知ったら、きっと母は責任を感じてしまうに違いない。


と、母よりも力強いノックが響いた。


「入るぞ」


兄はわたしの許可なく、部屋に入ってきた。


「入っていいって言ってない!」


「そのルールは、父さんと母さん限定だろ」


「・・・・・・ほっといてほしいのに」


「何かあったんだろ、宿泊学習で」


「・・・・・・」


「宮ちゃんと喧嘩したか」



最近、兄は宮原の妹ではなく、宮ちゃんと言うようになった。



「宮ちゃんとは喧嘩なんかしない」


「じゃあ誰とした」


「喧嘩じゃない」



兄が急に黙った。部屋から出ていく気配はない。わたしは観念して、うつ伏せから起きあがってベッドに座った。兄は床にあぐらをかいて座っていた。



「お前が泣くほど辛いってことは、ただごとじゃないな」


「・・・・・・」


「いじめられたか」


「いじめじゃない。・・・馬鹿にされたから、腹が立っただけ」


「誰にやられた」


「・・・クラスの一番可愛い子」


「何言われた?」



兄は茶化すでもなく、じっとわたしの答えを待っていた。こんなことは初めてだ。小さい頃、近所に住んでいる男の子と喧嘩して帰ってきたわたしの腫れた顔を見て、大爆笑するような兄だったのに。


「・・・ピンクのセーター・・・似合わないって」


「セーター?」


「お母さんが買ってくれたやつ・・・貸してっていわれて」


「貸したのか」


「・・・貸したけど、そのまま持って行かれそうになって、嫌だったから返してって言ったら・・・」



わたしはリュックの中に丸めて入れておいたセーターの端っこを引っ張り出した。掛け布団の上に姿を現したかわいそうなセーターは原型を留めておらず、兄はそれを手にとって広げた。



「なんでこんなことになった?」


「取り返そうとしたら向こうが暴れた」


「・・・それで?」


「わんわん泣いて、わたしが先生によばれた」


「お前悪くないじゃん」


「悪くない」



沈黙が流れた。
兄は小さなため息を吐いた。


「・・・華」


兄は立ち上がって、わたしの隣に腰を下ろした。
こんな近くに兄がいることが久しぶりで、彼の存在がやたらと大きく感じられた。
兄が何を言うのか、わたしは固唾を飲んで見つめた。


「よく頑張ったな。えらいぞ」


ふわりと兄が微笑んだ。
取り返したのがえらいのか、嫌なことを言われてもとりあえず貸したのがえらいのか、兄がどっちのことを言ったのかはわからなかったが、もう、どっちでも良かった。
わたしは兄の背中にすがりついて、大きな声を上げて泣いた。嗚咽が自分の声と違って聞こえる。兄の背中は無駄な肉がついていなくて、骨ばっていた。


「華、聞け」


ひとしきり泣いた後、わたしは兄の優しい声で顔を上げた。


「お前が腹が立ったのは、セーターのことじゃないよな」


「・・・・・・」



返事のかわりに、わたしは鼻をすすりながらうなづいた。



「それでいいんだよ。・・・アイデンティティって言葉、知ってるか?」


「・・・なんとなく」


「個性って意味だよ。お前は自分の個性を否定されて、腹が立ったんだろ?」


「うん・・・」


色が黒い。身体がごつい。可愛くない。
女の子に産まれてきたのに、あまりにも不憫な自分。


「その、ごちゃごちゃ言った奴のこと、華は好きか?」


「え?」


不思議な質問だった。そんなことされて、好きなはずがない。出来るなら、もう顔も見たくないのに。


「・・・すごい、嫌い。もう顔も見たくない」


兄は何度か繰り返してうなづいた。


「じゃあ良かった」


「なにがいいの」


「考えてみろよ。もし宮ちゃんに言われたとしたらどうする?立ち直れるか?」



そんなことはありえない。でも仮に想像してみる。大好きな宮ちゃんに心ないことを言われて、顔も見たくなくなったとしたら。
わたしは身震いした。


「絶対無理・・・悲しすぎる。宮ちゃんは親友だもん」


「だろ?だったら、そのお前が嫌いな奴のことはもう、自分の意識から取り除け。たとえこれから先何か言われても、華麗にスルーすりゃいい」


「華麗?」


思わず吹き出しそうになった。兄はしかし、いたって真面目だった。



「お前の中学三年間の貴重な時間を、どうでもいい奴のために割くな。お前のいいところは、大好きな宮ちゃんがよくわかってるだろ?」



そうだ。わたしはこのことがあってから、ずっと嫌いな佐倉さんのことばかり考えていた。収集癖がバレて怒られろ、とか、わたしが彼女をいじめたと決めつけた先生は廊下でつまづけ、とか本気で願っていた。言われてみれば、ここ数日宮ちゃんとろくに話もしていない。
わたしはそれでも、どうしても気になることがあった。


「・・・でも、もしわたしがもっと細くて色白で可愛かったら、こんなことにはならなかった」


わたしの目には、なりたい姿をそのまま具現化したような兄が映っている。
似るわけがない。
血が繋がらない、違う母親から産まれているわたしたち兄妹。シュッとした横顔、長いまつげ、アーモンド型の大きな目。こんな感じだったら、ピンクのセーターも、ふわふわのパジャマも似合っただろうに。
ところが兄は、わたしの頭にぽん、と手を置いて言った。



「お前のこれ」


「これ?」


「髪。大事に伸ばしてきたんだろ」


確かにわたしの長い髪は、小学生の頃から一度も切らずに育ててきた。中学生だから高いシャンプーやコンディショナーは買えない。なので、母親のお下がりの猪の毛のブラシで、朝晩かかさず丁寧にブラッシングしてきた。
小学生の頃夢中になって読んだ、漫画の主人公のさらさらのロングへアに憧れて、わたしは髪を伸ばし始めたのだ。この理由は誰にも言ったことはなかったけれど。


「きれいだよ、これ。自信持て」


「でも・・・みーくんみたいなふわふわの髪になりたかった」


「俺は男だから、あんまこれ好きじゃねえよ。色白なのも、ひょろひょろに見られやすいし」


「・・・そうなの?」


「ドラムもさ」


兄は学祭のことを話し始めた。


「俺の中では、ドラムってめっちゃ男っぽいなと思ってたわけ。で、ちょくちょく遊ばせてもらってたんだよ。まさか披露するチャンスが来るとは思わなかったけど・・・昔から女っぽいって言われ続けてきたから嬉しくてさ」


「そう・・・なの?」


わたしは宮ちゃんとふたりで、兄と双羽《ふたば》さんの秘密の恋をきゃあきゃあ言っていたのを、急激に反省した。そのことと兄が悩んでいたことは、表裏一体だった。


「でもさ、俺にも、お前の宮ちゃんみたいな理解者がいるんだ」


どきん、と心臓が波打った。
それは、双羽さんのこと?
かつてわたしの知らないところで、兄もアイデンティティを否定されるようなことがあったのかもしれない。それを理解して、支えてくれたのが双羽さんだったとしたら。


「失礼なことを平気でぶつけてくる奴らより、自分を理解して支えてくれる人を大事にすりゃいいんだよ。それでも辛かったらさ、俺に言えよ」


「みーくん・・・」


「ハー○ンダッツ、好きなの三つ買ってやる」


「・・・本当に?」


「おう、まかせろ」


にまっと笑って兄は立ち上がった。ドアノブを持って、顔だけ振り返って彼は言った。


「・・・セーターのことは、俺が母さんに言っておいてやるから」


「・・・・・・ありがとう」


ぱたん、と後ろ手にドアを閉めて、兄はわたしの部屋を出ていった。

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