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わたしのおにいちゃんのはなし 5

第五話


「ただいまー」


わたしが学校から帰ると、いつも聞こえる母親の声が返ってこなかった。今日は母の週一で唯一の趣味、コーラス練習の日だということを思い出した。母の代わりに、二階から気怠げな足取りで兄が降りてきた。


「おかえり」


ものすごく久しぶりに兄に「おかえり」と言われた。上下グレーのスウェットで、芸術的な寝癖のついた髪。学校に行く時間はわたしの方が三十分ほど早いので、兄が学校を休むかどうかはわからないことが多い。


「みーくん、学校休んだの」


「ん。熱」


「マジで。珍し」


「だいぶ下がった。なあ、アイス買ってきて」


「いいよ。何味?」


「素直じゃん」


「余計なこと言うと買ってこないよ」


「スーパー○ップのバニラ、三個。おつり返さなくていいから」


兄はわたしに千円札を寄越した。わたしはそれを財布に入れつつ、脱ぎかけたスニーカーに足を入れ直す。兄が裸足でぺたぺたと階段を上がっていく音がする。


「みーくんさ」


「あ?」


「この間の友達・・・」


言い掛けて振り返ると、兄も階段の途中で振り返っていた。


「友達?」


「んにゃ、なんでもない」


「・・・なんそれ」


自分が何を聞こうとしたのか、わからなかった。そもそも兄に、あの夕暮れに染まったイケメンの話をしてしまったら、間違いなくわたしが彼に恋をしたと勘違いされてしまう。それは本意ではない。わたしは財布だけを持って近くのコンビニに向かった。

兄から預かった千円札で頼まれたアイスを素手で持った。どうせおつりをもらえるのだから、と、自分の分のチョコ味も手に取った。冷たさに堪えながらレジに行こうとして、うっかりひとつ、バニラが落ちた。
かごを使えば良かった、と思って手を延ばしたら、さらに悲劇が起きた。ごろごろごろ、と散りぢりに転がっていくスーパー○ップたち。
最悪だ。


「大丈夫?」


必死にアイスを追いかけるわたしの背後から、それはそれは心地のいいイケボが響いた。
顔を上げたわたしの目に飛び込んできたのは、きらりん、と効果音が聞こえてきそうなスマイルの男性。
大学生だろうか。体が大きくて、ラガーマンのように見えた。


「す、すみませんっ」


「かご、あるよ、はい」


「あり、がとうござい、ます・・・」


高校生の兄ですら大人に見えるわたしには、父親や学校の先生以外の男性とお話することは、ひどく緊張する出来事だった。その男性はにこにこしながらわたしにかごを渡してくれて、拾ったアイスを中に入れてくれた。
わたしが会釈をしてレジに向かうと、彼は軽く手を振って、店の外に出て行った。自動ドアを出てすぐのところに、彼の連れと思われる人物が待っていた。
友人、先輩、兄弟___________
何に当たるのかわからないそのひとは、ラガーマン風お兄さんよりはずっと線の細い、綺麗な顔の男の人だった。薄手のセーターを肩に掛け携帯をいじっていたが、ラガーマン風のお兄さんが店から出てくると、まるで花が開くように華やかに笑った。そして恋人同士と思われても仕方がないほどの距離で、二人並んで歩き出した。


「六百八円です」


店員さんの声で我に返った。
最近、「君僕」を読んでいるからか、仲睦まじい男性たちに会うとついついそういう目で見てしまう。きっと兄の友人③を「透司」だと認識してしまったのもそのせいだ。アイスを拾ってくれたお兄さんだって、こんなちんちくりんの女子中学生にそんなイカガワシイ目で見られるのは迷惑だろう。わたしは財布から千円札を出した。

家に帰ってもまだ母親はいなかった。ただいま、と声を張っても今度は兄の声もしない。ひとに買いに行かせておいて、とぶつくさ言いながら冷凍庫にアイスを放り込み、二階の自分の部屋に上がった。気になって隣の部屋を覗くと、兄は赤い顔をして眠っていた。また熱が上がったらしい。わたしは私服に着替えてから冷○ピタを薬箱から探し出した。
声をかけても目を覚まさないので、勝手に額に貼りつけ、静かに部屋を出た。

わたしは自分用に買ってきたチョコアイスを食べながら、コンビニで出会ったラガーマン、夕暮れ時の兄の友人③の顔を思い浮かべた。
そういえば、宮ちゃんはわたしに「君僕」を手渡すとき、こう言った。


(はなちゃん、びーえるはファンタジーと言われている)


(ファンタジー?)


(そう・・・ありえない設定だったり、都合のいい世界観だったり・・・しかし、だ。世の中には、LGBTQと言われる方々がいるのは知っている?)


(う、うん)


(LGBTQをリアルに描いている先生もいれば、ファンタジー寄りの先生もいらっしゃる)

(はい)


(そこで、わたしたち読み手側は、リアル寄りであろうとファンタジー寄りであろうと、そういう方々が必ず存在することを、心のどこかに置いて読まなければいけない、というのがわたしの持論であって)


(はい)


(はなちゃんならわかってくれると思っている)


(が・・・がんばります)


宮ちゃんは、いつもよりかなり真剣だった。はっきりは言わないが、知り合いにLGBTの当事者がいるのかもしれない、とわたしはその時感じた。
クラスに一人はそういう子がいる、というのも聞いたことがある。が、当事者がそれを明かすことは非常に稀だとか。
もしも。もしも兄の友人③や、コンビニで会った二人の男性たちが本当にLGBTの当事者であったら?秘めておきたいことなのか、それとも世間に公表してもかまわないと思っているのかは、彼らの大事な問題であってわたしの預かり知ることではない。

わたしは飽くまでもわたしの見解として、誰がどんな問題を抱えていたとしても、黙って静かに見守りたい、と思った。



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