言語で伝えられることの限界を超えて、さらに上方にあるものを伝えたいなら、知性ではなく想像力に働きかけるべきだ。

忘備。

公共的な生存の目的を定義しなければならなくなった。それでいろいろ考えた結果、定義できないとわかった。個人的な生きる目的なら全然可能だが、地球上のすべての人間がそれに合意するような、外側の目的は存在しない。

「語り得ないことについては沈黙しなければならない」、これはその通りだが、「しなければならない」というよりも「せざるを得ない」のほうがおれの実感として正しい。

公共的な生存の目的としての神や仏、そのほかさまざまな信仰は、強制できないので、公共的な目的にはなり得ない。神の国に行くためとか言われてもぜんぜんぴんとこない。

神道や山岳信仰は生存についてほとんどなにも言わない。ただ調和をだいじにしようと言うだけだ。仏教は饒舌で、魅力的な経典もたくさんあるが、やっぱり全員が帰依することを強制できない。

しかしいろいろ宗教方面に興味がわいて鈴木大拙『禅』を読み、号泣して錫杖をスッと掲げるなどしたのち、『バガヴァッド•ギーター』にたどりついた。

すごい話である。戦争をすることになって、戦場にあらゆる戦車や象や英雄たちが集められた。意味わからんくらいでかい音で太鼓や法螺が吹き鳴らされている。王ふたりが合間見えてさあ戦いだとなる。

しかしここでアルジュナという片方の王様がとつぜん迷う。というのも、うちはすげえ戦士をあつめた。おれの誇りである。しかし、むこうの国のやつらも、じつはすっげー強くて賢くて優しいことをおれは知っている。尊敬してる。

そんなやつらを殺し合わせて血脈をたつことはやっちゃいけないんじゃないか。みんな平和に仲良くやったほうがいいんじゃないか。そう考えてアルジュナは迷った。両軍のあいだに立ち尽くして迷った。

そこにいきなり聖者があらわれて言った。

行為せよ。

やっぱりそうっすかねえ? とまだ迷いがあるアルジュナに、聖者はつぎのように言う。おまえはそれまで戦うことで生きてきただろう。だったら戦え。それに、そもそもおまえたちが生きようが滅びようが、いっしょである。いっしょだが、おまえは行為することによって道を行く者なのだから、戦え。立ち上がれ。いってまえ。

まじか……。「立ち上がれ」とかアツい。しかしこの聖者の言うことは唯ごとでないので、アルジュナはもっと話が聞きたくなり、聖者もいろんな教えを大盤振る舞いしてくれる。アルジュナが納得するまで話を聞いたところで経典は終わる。けっきょく戦争したかどうかはわからない。

なんの話やったっけ?

そう。仮説。最終的には、すべての宗教はおなじことを言おうとしている。その表現のしかたが異なるだけだ。「有難い」も「神様のおかげ」も「立ち上がれ」も、おなじことを言おうとしている。その芯のところにたどりつきたい。これをうまく表現できれば、齢三十にして立ったことになるだろう。

言語で伝えられることの限界を超えて、さらに上方にあるものを伝えたいなら、知性ではなく想像力に働きかけるべきだ。(おれのスタイルなら。)


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