映画

酔っ払っているときに書く文章は論旨がめためたになっている。つまり、論理的な文章を要求している場合には、素面のほうがよい。極めたところを言えば、酔っ払っていようがいまいが、とにかく何かを表出しようとする態度こそが重要である。

批評するときの主義として、印象批評から離れるようにする。「点数」を揶揄する向きがあるが、おれは賛成である。というのも、点数という縛りがあるからこそ、批評家は公共的になろうとするからだ。ところで、あるひとりの個人が完全に公共的であるなどということは、不可能である。おれが死ねば、人類全員が死ぬ。

小説やビデオゲームをどうも読むことができないので、映画を観ている。ここ半月で、『1917』『英国王のスピーチ』『インターステラー』『大統領の料理人』を観た。内輪向けの楽屋なので、存分に印象批評をしようと思う。

『1917』における時間の切り取り方に、興奮を覚えつつ、倫理的呵責を感じてしまう。放棄された独軍の塹壕の寝所のトリップワイヤが発動したあと、崩れかかったところを主人公が命からがら脱出する。水筒の水で目のなかの砂埃を洗って難を逃れる。つぎのセグメントでLee–Enfieldを独軍兵士にむかって発砲する。それはいいのだが、砂埃をかぶったLee–Enfieldがなぜきれいになっているのか。

といった疑問を抱いているうちに後のシーケンスが展開して、この作品は「ひとつづきのシーンであるように見せるために枝葉の時間を圧縮/割愛する」という技法を用いていることに気づく。その技法そのものはすばらしい。ただ、その技法の巧妙さが、戦争という人類最大の汚点を描くのに不釣り合いであるように感じた。というのも、戦争における地獄とは、一見枝葉であると感じられるようなディテールまでもが呪われていることだからだ。子供の死体はまだ仕方がないが、その表面が黒焦げになっていて、水を吸って膨れ上がっていたら? この技法はすばらしいが、その枝葉をカットしてしまう。8/10。

『英国王のスピーチ』における優れた点は絵画的ともいえる種々のカットである。軽妙な会話と、美しくも暗澹とした舞台。あの公園におもいきり霧がかかっているのは、噴霧装置みたいなものがあるのか、それとも偶然か知らないが、おれの想像するロンドン――たまに霧がものすごいことになる――と重なって、すごく好き。ペイズリーの壁紙を背にして主治医とその家族が玉音放送を聞いているシーンなどは、英国文化の粋を抽出して凝固、精錬したようなものだ。こうして吃音を克服したことが、二度目の世界大戦にむけて国民を発揚するスピーチに繋がるのは重みがあるが、どうせならあと一時間ほど回して、がんばって自分の問題を解決したにもかかわらず世界はめちゃくちゃなままの、大戦中の六世の葛藤まで教えてほしかったなと思う。7/10。

『インターステラー』は、「感じ」としては好きだけれども、「よく見る」とおかしい気がする。相対性理論のことを勘案するなら、さきに重力の影響が低いほうの星に行ったほうがよかったんじゃないの? とか。とはいえ、そういうことを言い始めると「感じ」が削がれてしまう。っていうか、「感じ」の話で言うと、ブラックホールに突入すると生き残れない! でも同様に「感じ」の話で言えば、あのくるくる回転して会話の切り返しも巧妙なAI士官たちは大好きだし、あるいはあの円筒のコロニーは死後に主人公が見た「感じ」の表出なのだと捉えれば、その「感じ」は大好き。そもそも、あの広大な農場の「感じ」もすばらしい。ただ、「感じ」を押し出すのなら、プロットそのものの展開にもっと「感じ」をぶちまけて欲しかった。7/10。

『大統領の料理人』のめしのうまそうなこと。小っちゃい人参を弟子(友達)に投げるところなんか、日本人が見たらげーってなるんだろうな(おれは爆笑)。あの弟子が妙におれの弟を思い出させるところがあって、元気にしてるかなとか思う。そーいうことを思い出させるってことで、9/10でいいんじゃないっすかね(印象批評)。大統領が食べてた、バゲットに乗せたバターとトリュフの、あのバターに混ざってたハーブは何なんだろう? そして、ほんとはもっとたくさん喋りたかったけれど、すぐに「さよなら」って言って去っていく大統領! 尺の使い方がシブい! おれも大統領をやったことがあるからわかるけれど、壁って自分が作るんじゃなくて、自分が属している地位が作るんだよね。そういう地獄で食い物くらいはいいものを食べたいと思う気持ちはすごくわかる。おばちゃんのこと、好き……。

太字の部分が印象批評である。

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