『Disco Elysium』補項――電ファミの記事は、初稿に五年待つわけにもいかなかったから書いたまでである

電ファミニコゲーマーさんに拙稿が掲載された。これで日本国民全員がコンピュータにかじりついて『Disco Elysium』をプレイしはじめたら、それこそ国家的緊急事態である。おれはそんな世の中に住みたくない。

小説の場合はまったく想定しなくてよいのだが、非虚構の文章を書くときには、ある程度の読者を想定する。たとえばこのnoteの場合に想定するのは、まったくの一見さんとマニアの二種。ゲームメディアに寄稿するときにも、読者というものを想定する。そんなに厳密でなくともよいが、潮目や風を読み、だいたいこのへんに魚がいるなと思って網を打つ。

しかしこの作品の場合は迷った。というのも、おれのレビューの基本的なスタイルは、(冒頭にフックを置いたりはするが)「形式」「内容」「その一致」の、みっつの解説を構成要素とする。形式と内容の順番は作品によって異なるが、概ねその一致は最後に置かれる。

しかし『Disco Elysium』の場合、内容が膨大すぎた。しかも、ほとんどそのすべてが挿話であるかのようなかたちで――つまり要約が難しいかたちで膨大だった。これを忠実にやってしまうと、原稿が長くなりすぎるのだ。

もちろん力業で、とくに魅力的な情景を読者の想像力にぐっと押しつけて、引き込むことくらいはできる。おれを誰だと思っている(暗黒微笑)。しかし、そうして引き込んで夢中にさせたあとで、あっ、ちなみにこれ日本語訳はないんで、あとは自分でがんばって楽しんでね、とか言っておさらばするなんて、とてもじゃないけど、できない。それではあまりにかわいそうすぎる。

評者が作品を評するのは、場合にもよるけれど、その作品を読んでほしいからだ。こんなめずらしいものを見つけたんだ、おまえもめずらしいと思うだろう? ちょっと試してみてくれないか! そういう心理でおれは書いている。しかし評論を読んだ読者と作品のあいだに、SASUKEもびっくりなネズミ返し(言語の壁)が立ちはだかっていると知っているとき、大丈夫だ、おまえなら行ける、と無責任にSASUKEに出場させるなんて、おれにはできない。あれは鍛えていないと怪我をする。そんなところは見たくない。

しかし、それでは、どうすればいいんだ。どうしたって、おれのスタイルには、はまりきらないぞ。うーん……。

そういうわけでこの原稿の脱稿には半年以上を要した。プレイに一ヶ月、初稿の提出に三ヶ月である。それから精錬作業にさらに三ヶ月がかかり、編集者は左目に次いで右目も結膜炎を患った。

利益の話をすると、それだけのコストを支払っておきながら、この記事は絶対に千リツイートは行かない。三百もいけば万々歳である。それなりに部数をめざす清純な編集部だったらば、この編集者は叱られている。しかし本気では叱られない。編集部というものは、片足を現世に、片足を理想に突っ込んでいるものだからだ。爪先から天辺まで理想に浸りきっているおれにしてみれば、頭が上がらない。

話が逸れた。どう書いたかだ。つまり、SASUKEの比喩を続けるなら、SASUKEの挑戦者を選抜する記事にしてやろうと思ったのだ。そもそも本作には、内容の膨大さ、TRPG的権威主義、こみいっていてわかりにくいユーモア等々の、半可な読者をふるい落とすためのSASUKE的仕掛けが、これでもかというほど用意されている。それに加えて非ネイティブの読者は、言語の壁という重しをつけられた状態で、これを越えねばならない。本国ではなくアメリカの特番のSASUKEに遠征するようなものである。

であるならば、いろんな甘言をもちいて、不特定多数の「ゲーム好き」の読者を引き寄せるより、そもそも評論自体をハードなものにしたほうがいいと思った。そうすることで、言い方は悪いけど、このゲームは子供の遊びではない、とわかってもらおうと思った。

鮪を釣るための針は鰺を釣るための針とおなじではない。そしてこの記事は、電ファミニコーゲーマーという船、編集者という船長、ライターという釣り人が総動員された、鮪を釣るためのでっかい針をぶらさげた、コスト・パフォーマンスの悪い記事なのである。そしておまえたちは、情報の海から釣り上げられて作者のもとへ行く、鰺あるいは鮪だったのだ。わはは。刺身になって食われろ。

……こんなことを言わせるなんて、つくづくまともな商売ではない。

テクニカルな話はこれくらいにしておいて、『Disco Elysium』にたいするおれの純粋な感想文をひとつ。この作品がここまでの評価をされているのは、作品自体の評価のまえに、評者がみんなランナーズ・ハイならぬ、文化的ハイになっているのも大きいと思う。SASUKEのコースを走り終えた人間の脳みそにはアドレナリンとドーパミンが溢れているはずだが、それとおなじような理由で、この超絶ハードな作品をプレイし終えた人間の脳みそには、快楽/刺激物質が溢れているはずだ。だって、こんな険しくて長いコース、ほかにないんだもの。人間の防衛反応として、気持ちよくならないと、やっていられない。で、その文化的ハイのアドレナリンとドーパミンの分泌を、美が心に染みたときの化学物質の分泌と混同しちゃってるひとが、わりと多いんだと思う。

そしてもうひとつ、この作品はあまりに膨大で複雑なので、それを楽しめている/楽しもうとしている自分に、特権的なものを感じざるを得ない。いわゆるエリーティズムである。「おれはこんなにも偉大な作品をプレイし、それを面白いと思った」という意識が、この作品にたいする愛着とすり替わってしまっているひとが多いと思う。

こうしたことを言ったのは、おれのなかにも、こうしたカスが残っているからだ。だから正直に告白するけれど、たぶんおれは、この作品のほんとうの面白さについて、そのうち再プレイするまで、わからないと思う。もちろん再プレイするときにも多少のドーパミンとアドレナリンは出るだろうけど、SASUKEに出場しまくって、ついにはコース自体に愛着を覚えるにいたったケイン・コスギのごとく、ああ、そういえば前回、おれはこういうキャラをビルドしてロールプレイしたけど、今回はこうだから、こんな選択肢を選んでみたら面白いかもな、などと、再読しながら唯一神聖な快楽物質であるセトロニンを分泌するくらいでないと、この作品のほんとうの面白さを掴んだことにはならないんだと思う。

そう考えると、ますますこの作品は化け物である。人生をかけて、読み解いていかねばならないというのか。そんなものは古典文学で充分だとも思うが、いや、やっぱり、たぶん五年後くらいにまたプレイしているんだろうな。電ファミの記事は、初稿に五年待つわけにもいかなかったから書いたまでである(号泣)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?