論理的文章について

谷崎潤一郞は『文章読本』のなかでつぎのように書いている。「同じ酒好きの仲間でも、甘口を好む者と、辛口を好む者とがある、さように文章道においても、和文派を好む人と、漢文派を好む人とに大別される、すなわちそこが『源氏物語』の評価の別れるところであると。」つづけて彼はこの二派の呼称をいろいろと変奏する――朦朧派と明晰派、だらだら派とテキパキ派、流麗派と実質派、女性派と男性派、情緒派と理性派、『源氏物語』派と非『源氏物語』派。

私は夏目漱石や森鴎外はすらすらと読めるが、泉鏡花や『源氏物語』を読むにはかなりの困難を覚える。主格や属格がはっきりした文章は頭のなかで整理がつけやすい。即ち論理的な文章である。だから自分で書くときにも自然と明晰派の系統に属するようだ。たとえば私は、ある一文の主格の位置がはっきりしていないと座りが悪いと感じる。主格が省略されるときには相応の文章の流れや必要があって行われるべきだと思う。

しかし日本の古語においては散文でも歌でも主格が置かれることのほうが希である。しかも主格がないことで、独特の感興、無人称の、なにか永遠のような美しさを持っている。論理的な、たとえば一人称ならそうとはっきりしている文章における〈月〉は、〈私が見た月〉にしかなり得ない。しかし朦朧とした文章においては、そこに投げ出された〈月〉という言葉は、〈いままですべての人類が見た月〉、〈夢の月〉、〈永遠の月〉でありうる。つまり論理的な文章はそれ固有の限界をもっているように思われる。

ボルヘスはさまざまな断片を寄せ集めて出版した『創造者』――のちにこれが彼自身のもっとも気に入りの作品となる――のなかで、なんども無人称への憧れを表明している。水晶のように透き通った論理的な文体で、個人的な体験は普遍的であること、時間や現実といったものは幻にすぎないこと、現実は夢見ていないときに見るべつの夢であることなどを、彼は語る。同書の序文、「レオポルド・ルゴーネスに捧げる」は、尊敬する作家のもとへこの作品を携えていくボルヘスの静かな喜びが語られたあと、つぎのように結ばれる。

「ここでわたしの夢は崩れる、水が水に消えていくように。わたしを取り囲んでいる図書館は、ロドリゲス・ペリーニャ通りではなくメキシコ通りにあり、ルゴーネスよ、あなたはすでに一九三八年の初めに自殺している。わたし自身の見栄と懐旧の情が、ありえない光景を生み出したのだ。そのとおりかもしれない、とわたしは呟く。だが、明日はわたしも死ぬのだ、わたしたち二人の時はない交ぜられ、年譜は象徴の世界に消える、だからある意味では、わたしはこの書物を持参し、あなたは心よくそれを受けたと言ってもよいのではないだろうか。」

ある思想を論理的に考えるとき、その思想は現実の諸相から必然的に生まれてくる制限に阻まれる。思想を述懐する論理的な文章においては、私たちは猫を犬ということができないし、明日のあとに昨日が来たということはできない、ボルヘスもルゴーネスも元気に生きていると言うことはできないし、火は水とおなじであるということはできない。私たちは他者に思想を伝達するために論理的明晰さを求めるが、そうすることで制限されてしまうニュアンスは計り知れない。

論理的思考の上限は不可知の壁である。人間の最も重要な関心事である死について、私たちは何一つ語ることができない。私はもうほとんど十年ものあいだ、眠りに落ちる瞬間に、いつかこうして眠りに落ちて二度と目覚めることのない日がくると直感し、心臓がどきりとする。そして横になったまま深く深呼吸し、不可知の死の壁のつるつるとした表面を慈しむように撫でてやる。そうすると不思議と心が落ち着いてきてよく眠れるのだが、これが私が発明した個人的宗教だと言ってもいいのかもしれない。

鈴木大拙の『禅』は、西洋人むけに禅仏教を語った英語のテキストを日本語に訳し戻した(?)ものだが、あの論理の言語、変形のヴァリエーションがあまりに貧弱なために詩的表現に押韻と語順の入れ替えを採用せざるを得なかった言語で禅を語っているために、禅という思想の不可思議さがかえって強調されている。書き出しの「禅」というものの要約の簡潔さは圧倒的である。

「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという仏教の一派であって、その真髄とは、仏陀が成就した〈悟り〉を体験することにある。したがって禅は、仏陀がその永年の遊行の間に説いた教示、もしくは説法にただ盲従することを拒む。言葉や文字は、仏教者の生活がそこから始まり、そこに終わる目標を単に指し示すにすぎないとする。」

私の意見では、神道をのぞくほぼすべての宗教は死の問題に端を発しているか、それを取り扱おうとしている。死に対する好奇心は満たされることがない。というのも、それを実際に体験したものがいないから。したがって、現実の経験をできるだけよく照影しようとする論理的文章と死とは、すこぶる相性が悪い。死に取り憑かれた批評家、モーリス・ブランショの文章が、最高に洗練されているにもかかわらず死の事態をうまく説明しえないのは、そのペン先がさまざまな角度でもって不可知の壁を指し示すばかりであり、その向こう側についてはなにひとつ確言できないからだ。

しかし私は論理的な文章にも希望が残されていると思う。というより、明晰派でも曖昧派でも、死に対する勝率はおなじであるように思われる。というのも、私は文章を用いてこのうかがい知れないものを書き出そうと試みているが、それは死を論理的に説明するためというよりは、文章そのものが非常に端正で論理的であるからこそ浮かび上がってくる〈美しさ〉、ロバート・M・パーシグが『禅とオートバイ修理技術』のなかで作った言い方なら〈クオリティ〉、を求めているからなのだ。明晰な文章と曖昧な文章、いずれもその手段はことなるが、目的はおなじであり、それは文章が投影する死の影の美しさである。

ガルシア=マルケスがしばしば用いる言い回しのなかに、愛が死に打ち克つ、といったものがある。これは彼の文体や物語のなかに表れるからこそ説得力のあるフルスイングで、彼以外の人間が安易に用いると陳腐になるのだが、彼の読者は彼のこの言い回しが正しいことを直感的に、あるいは禅的に理解しているはずだ。

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