エヴァに関するおれの二枚目の舌

『エヴァンゲリオン』シリーズについての拙稿が掲載された。あの作品群についての所感はここにまとめられている。いやあ、ほんと、終わってよかった。自分事のように嬉しい。おつかれさまでした。

以下にするのはnoteでやることに決めているおきまりの印象批評(というかそれにも満たない雑感)なので、あまり深く考えないように。とはいえ、書くのであれば正直に書く。

生死の問題は死の不可知の壁にぶちあたるので、越えることはできない。それは科学的な記述でもそうだし、芸術的な記述でもそうだ。それらは死の壁の向こうを「指し示す」ことしかできず、そのむこうを「表現する」ことはできない。この限界を超えられないために、生死観や倫理観をテーマとして扱ったあらゆる物語芸術は、最終的に、物語世界(つまり登場人物)の内側にむかってテーマが爆縮することになる。

その爆縮が作家の腕の見せ所で、新版旧版ともに終盤でやっているのだが、新劇はシンジたちを現実に返す。この不明な生における理不尽さは自分で何とかしろというメッセージである。これは新旧で通底しているんだけど、新劇は突きつけかたが明確なうえに優しくなっている。〈油ものはちょっと、とか言ってるひとにむけたお粥〉みたいな感じ。

gourmetであるところのおれは、旧劇のあの赤い浜辺のシーンが、この寄る辺なき生をあらわすものとして、じつにスパイシーで良かった。これからどうすればよいかという問いを、ばきんと視聴者に突きつけた。新劇でも突きつける問いの性質じたいは同じだが、その解答が「現実」のうえに乗せられるように誘導されている。それでは映画を見るまえとあとで、なにひとつ変わらない。どうせおれたちはこのあと電車に乗って家に帰るのだ。風呂でも浴びながら、ああ、いい映画だったな、とか言って、ビールなど飲み、翌月には忘れるのがおちだ。

もちろん、風呂敷をたたんでほしいというのはわかる。おれも甘えたところのあるやつだから、できたらたたんでほしいなと思う。製作に参加した若い衆も、まあ、たたむ方向でシナリオを出したりしたのだと思う(みんな大人だからね)。しかし世界を変える作品というのは、映画館を出たあとに頭のなかを疑問符でいっぱいにするようなものであり、視聴者がそこから自らの解釈の力で感嘆符を引き出すことによってこそ! 世界が変わるのである。

あのシリーズから感嘆符を引き出すのはわりと快感であり、よい読者はみんなやってると思うんだけれど、なにせよい読者は総体的に数が少ない。ほかに仕事があったり悩みがあったりして手一杯のひと(おつかれさまです)はレッドヘリングのうまさにからめとられてそっちに集中してしまうので、けっきょくうまく見られていないままだった。もちろんうまく見られていなくても発言する権利はあるので、有象無象の評言が飛んだ。これが作家に影響して、もうまじで全然読めてないな、回答書いとくか、そもそもみんな自分の仕事で精一杯で、時間ねえみたいだし……となってしまったように見える(まったくの憶測)。

あきらかに私小説だから作家に結びつけて考えてしまうのはわかるけど、そういう作品にたいしてこそ「作者の死」をいったん適応したほうがいい。そうしたうえで作家に結びつけて、頭の中で両論併記で読み解いていくわけだ。しかし、なにせ作家は作家なので、読者が読み取ったことや反応したことまで取り込んで作品に使ってしまう。その結果として今回のようなマイルドな仕上がり、日本人好みのやさしい味に仕上がったわけだ。いや、それも、もちろんうまいんだけど、おれが求めていたのはあのエキゾチックな味、思考の極北でしか食べられないと思っていた名店の味の更新だったのだ……。

というか、作家性の臭み消しをうまいこと使いすぎだろっ。やだやだ! おれが見たいのは激シブな思考実験なの! 自分の人生を生きるために駅から駆け出すなんてことは、もうすでにやってるのっ! 現実で固ゆでなジョブをこなしつつ、余暇にアスカに萌える、くらいのことは、もうすでにやってるのっ!!(太字の部分が印象批評である)

あっ、でも、そういう意味で言うと、若い衆であるおれにバトンが渡されたってことなのかな。なんせ、おれこそがエヴァンゲリオンであるわけだから(同時にプリキュアでもある)。

そういうわけで、おれのシナリオ。加持さんがサードを止められなかった世界線で、人類補完計画が完成したあと、ユイの遺言どおりに、人類が宇宙を旅する。永遠の生命を得たわけだから、宇宙の終わりまで人類の旅が続く。〈五十億年後〉と字幕が入る。宇宙が終わる(反宇宙)。時間が捲き戻るでもあたらしいエントロピー系が創発されるでもいいけれど、もういっぺん天地が開闢する。あたらしいカオル君が目覚め、あたらしいシンジ君たちがエヴァに乗ったり乗らなかったりする。あたしの才能にひれ伏しなさい、LOL, GG! とかアスカが言いながらすべて(東宝/東映のセットのロゴ入り)を破壊する。体操着を着たゲンドウがロンギヌスの槍を槍投げしてアスカの胸に刺さり、彼女を中心とした人類補完計画がはじまる。〈五十億年後〉と字幕が入る。宇宙が終わる(反宇宙)。時間が捲き戻るでもあたらしいエントロピー系が創発されるでもいいけれど、もういっぺん天地が開闢する(以後、くりかえし)。それを止めるというか、その無意味さの濁流に碇を下ろすのはやはりわれらの主人公しかおらず、反宇宙にソナーを打ってわれわれの現在位置を同定することで人生を固定する(その流れにユイが現れてきてもよい)。シンジ「この世界には、意味があるかどうかさえわからないんだ。でも、それでいい。ぼくはみんなを守りたいと思った」→人類補完計画が存在しない世界へ続き、エンディング。

……いや、もちろんどこかの時点で作品の葬式はしなきゃいけないんだけれど、それって問題の放逐じゃないの、と思うのだ。あっ。でも、表向きのメディアで素直に喜んでるところを出して、楽屋で本音……というか雑感というかを書いて、その内輪感を含めて公に意見を出しておくみたいなのって、ものすごい〈大人の手つき〉だよね。うおおおっ。お、おれも〈成長〉してしまったというのか。ううっ、なんでもいいや。もう一本、えぐいやつを頼むよ! シン・ウルトラマン、楽しみにしてます!(監督、おつかれさまでした。)

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