九割五分までできた仕事を、最後の精米にかけるための気持ちの整理

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そういうわけで、気持ちを整理していきたい。わたしは何を怖れているのか? 行った仕事が回復不可能なほど面白くない、という事態が、明らかになることだ。

これは根源的な怖れであり、期待がそれを引きおこす。それが本当に面白くない場合、やっているうちにわかるので、自分に腹を立てながら捨てればよい。しかし九割五分まで持っていくことができる仕事は、やっているうちは面白いと思ってやっている。つまり、その完成に期待している。怖れは期待から来る。

あいもかわらず長いが、これまでの失敗から学び、長いことが条件のひとつであるような書き方はできている(しようと心がけた)。しかしその書き方は、仕掛けやプロットに依るものではない。トーン一本で堂々と勝負している。よくもこんな方法でやろうと思ったものだ。思っていたよりも、まだ、わたしは若いのかもしれない。

プロットは曲の展開であり、文体はリズムであり、描写が惹起するイメージの感覚はトーンである。そう考えた場合、やはり大人たちがリズム・セクションで、少年たちが上ものということになるだろう。このことをよく意識するべきだ。

もしもこれが本当に面白くなかった場合、どうしよう? そんなことは、考えても無駄だ。出版はセックスのようなものである。やれる場合もあるし、やれない場合もある。やったからといって成功するとは限らないし、なにをもってセックスが成功したと言えるのかは曖昧で、場合によるだろう。子供ができるのは喜ばしいことだが、ボルヘスめいた怖れ――Mirror and fatherhood are abominable, as these multiplies reality――で、あたらしい魂を産みおとすことで地獄を倍増するのは、殺人と同等の罪ともいえる(シオランを参照してもよい)。あるいはもっと卑近に言えば、快楽目当てでやってあんまり気持ちよくない場合もあるし、それ自体は良くても、そこでもらった病気がのちのち効いてくるかもしれない。とにかく、いちばんいけないのは、あのセックスは良かったなと追想しすぎることである。少しならいいが、そうしているばかりでは何も起きない。

日記めいたことを言っておくか? あるとき、中国にルーツをもつチームが、わたしのチームの練習相手になった。そのキャプテンが日本に来ている留学生で、かれは二ヶ月前の練習のときに、「〈区役所〉というのは祝日も開いているものなのかな?」とチャットで聞いた。住んでいるところに依るとは思うけれど、たぶん祝日はやっていないだろうな、と答えると、ありがとうとかれは言った。

一昨日のことだが、かれのチームともういちど練習試合をすることになったので、「〈区役所〉での用事は済んだかい?」と聞いてみた。ああ、済んだよ、ありがとう、ところでこのあいだ〈ラーメン二郎〉を食べた、とかれは言った。完食したかと聞くと、きびしい戦いだったがやり遂げた、と言った。肉マシ、野菜マシ、麺少なめ、辛めカツオの大蒜入りがわたしのオーダーである。もやしの髭を抜くのは、九割九分になってからだ。九割五分では、まだ精米にかける必要がある。仕事をはじめよう。

(ジェイン・オースティンの『エマ』? もしもインタビューできたら聞いてみたいが、できない場合――伝聞の場合は、どうでもいい。)

(芸術は、主人がそれを飼い慣らすことに成功したSchizoである、と言えるのではないか。)

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