オリンピック開会式の感想

「フィクションはメロディーであり、ジャーナリズムはその上にニューが付こうが、オールドが付こうがノイズなのである。」――カート・ヴォネガット

私のだいたいの感想はこの引用のもじりである。「文化はメロディーであり、金はノイズである」とでも言おうか。私は過去にアスリートだったので、もともとオリンピック――つまり、世界大会――を開催すること自体には賛成である。アスリートの生きている意味は、自分より強い人間と戦うこと、あるいは自分が世界で最強であると証明することにほかならない。その機会はほかの何にも換えられないし、一年の延期がありはしたが、つつがなく大会が開催されることは、かれらの心境を思えばじつに喜ばしい。

子供っぽい感想を先に述べておくと、現行のオリンピックに採用されている競技種目にはesportsや人力飛行機、オートレースが含まれていないため、四半世紀ほど時代おくれである。あるいは、チェスや将棋、オセロや囲碁、トランプに麻雀にウルが採用されていないという意味では、千年紀数回ぶんは時代遅れである。私の興味を惹く種目がないので、あるいは競技種目に十分な多様性がないので、私はオリンピックを熱心には見ないだろう。

あらゆるスポーツに通じるのは、ポルノとの類縁性である。歌人の枡野浩一は、つぎのように書いている。

「甲子園」未成年者が青春に焼かれるさまを味わうポルノ

そのうちに死者が出るってなんとなくみんな思って見る甲子園

選手の健康にじゅうぶんに配慮されているであろうオリンピックの出場選手を見ることと、酷暑の甲子園球場で長い時間をかけて消耗していく野球少年の肉体を見ることの差は、ソフトコアとハードコアのポルノの差である。私はいずれのポルノにも十分お世話になっているので、頭ごなしにそれらの存在を批難することはないが、それらが放映されているのを見ると、何か他人のセックスを見せられているような気まずさを感じる。

とはいえ、私が文化的な行為を行うことと、文化的な行為を観賞して楽しむことのあいだには、私が実際にするセックスと、ポルノを見てするマスターベーションとのあいだにあるような違いがある。しかし、その差ははっきりしたものではない。ある文章を書くことはセックスであり、読むことはマスターベーションであろう。では、ある文章にたいする批評文を書くことはセックスなのか。あるいは、読書ノートを用意してしっかりと読み込んでいく能動的な読書はマスターベーションなのか。たぶん前者は乱交、後者はオナニーの見せ合いっこに相当するだろう。

市川海老蔵や劇団ひとり、「イマジン」などがあらわれた開会式の映像は駄作であったが、それはこれらの映像が美的に駄作であるというよりも、年老いた人々が安全だ(親族からの批難や性病の心配がない)と考えている生ぬるいポルノでしかなかったからだ。唯一すばらしかったのは、ピクトグラムを実演するダンスであった。ダンサーが小物を取り落としたり、水泳のピクトグラムを表現した手がどうしようもなく震えていたりしたことは、生まれてはじめて他者を知りつつある少年が愛のしるしを差し出すとき、緊張と恐怖と未知への好奇心のために、愛のしるしを取り落としたり震えたりすることに対応している。

話を戻すと、オリンピックは1896年のアテネ第一回大会から、世界から選りすぐったすばらしい肉体が行うグループ・セックスであり、それを鑑賞して行うマスターベーション・セッションだった。それはそれでいいのだが、1964年に日本で行われたその青春の行為のすばらしさを覚えているオールド・メディア、つまりテレビがいくら喧伝しようとも、いま生きている世代にはまったく響いていないところは、じつに興味深い。いま生きている世代にしても人間であるから、ポルノを見たいという欲求はあるはずなのだが、どうもオリンピックはかれらの好みではないようなのだ。それではなにが好みなのかというと、ビデオゲームや二次元の美男美女に代表される、精神的なセックスであるらしい。わたしの従兄弟はポケモンユナイトに夢中であり、駅や観光名所には二次元の美男美女があだな笑みを浮かべて、このセックスへの参加を促している。

もしもオリンピックが希望であるならば、それは人類と文化がその性質(性癖)を変化させていく力を、いまだ失っていないという証明としてである。オリンピックはテロで爆破されたり、デモで妨害されたり、疫病を忌避して中止されるのではない。人々が肉体的なスポーツへの性欲から、精神的なスポーツへの性欲へと趣向を切り替えたときに中止される、あるいは競技種目が変更される。つまり、この地球上から貧困が根絶されたあかつきには、すべての肉体的なスポーツは消滅するか、伝統芸能のようなものになるだろう。それは古い時代の死んだセックスになるだろう。問題は、それが古い時代のポルノだからといって棄却しないでおけるか、それをアーカイブして、新しい時代に生まれてくる者たちに供することができるかどうかである。この地球を快楽の天国にするという、オリンピアンとしてのわれわれの任務は大きい。

「「私の知識は全て娼婦の学校で学んだものだ」と、全てを受け入れつつ全てを拒む思想家なら言うべきであろう。彼は娼婦にならって、物憂い微笑に熟達し、人間どもは彼にとってお客にすぎなくなり、そうしてこの世の歩道は、娼婦が肉体を売るように彼が己の苦渋を売る市場でしかなくなったのである。」――エミール・シオラン

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