さいきんテレビを観ていると、「思い」という言葉がたくさん用いられている。それも、名詞っぽい用いられかただ

さいきんテレビを観ていると、「思い」という言葉がたくさん用いられている。それも、名詞っぽい用いられかただ。「何々だと思いました」といった、動詞のことを言っているのではない。たとえば、「その思いを聞きました」、「この仕事にこめた思いとは?」「無人駅の花壇の世話をつづける、何々さんの思い――」といったもの。これについては色々楽しく考えられそうなので覚書をする。

まずそのまえに、おれは物書きである。字を書いて飯を食っている。だから世に流通している言葉には人一倍敏感であることを断っておく。自分の仕事にその感覚を直接反映するかどうかはともかく、世の流れを知っておくのは、たいせつなことだ。燕三条の鋏職人は一年ごとにホームセンターで鋏を買う。おれも新聞を読み、テレビを観、街に出て声を聞く。気がついたら、鋏にかわるとんでもない発明品が流通しているかもしれないのだ。そこまでいかずとも、ふつうの鋏は何円と知るのは面白い。面白いが仕事につながる。

ホームセンターの比喩をつづけると、名詞の「思い」は、百円で売っている、それなりによく切れる万能鋏みたいな言葉である。この「思い」は、ほとんどの場合、べつの感情や動機をあらわす言葉に代替可能だ。冒頭の例なら、「この仕事に隠された技術とは?」とか、「無人駅の花壇の世話をつづける、何々さんの覚悟――」とか言ったほうがいい。そうしたほうが、意味の輪郭線が際立つ。

しかし「思い」で事足りるので、みんな「思い」を使う。おなじ用事が足りるなら、値の張る鋏をわざわざ持ってこなくてもいいのである。当然だ。誰だって楽をしたい。

値の張る鋏が必要な局面は、値の張る鋏でやるべき、たいせつな仕事である。ホームセンターで売っている高枝切りばさみを使うような庭師など、聞いたことがない。いや、いるのかもしれないが、使うにしても、ちょっとした金をとらないような仕事のときに限るはずだ。発注されたわけではないが、休日に馴染みの主人に招かれて縁側で茶を飲んでいたら、庭が少し荒れているようだったからその場で主人の道具を借りて刈った、というような仕事であるはずだ。

しかしテレビの仕事は大切な仕事のはずである。そこで用いられる言葉は大事なはずである。にもかかわらず安物の鋏が濫用されている。これは何故か。まず推測されるのは資金不足である。もはや放送局に、番組の文化的側面に投入するだけの金がない。原稿を書くひとはもう五年もやっているのに、たったの月給三十万ぽっちで毎日残業している。あたしゃ頑張ってMARCHまで出たのに三十万たあ何事だ。すると原稿を書くひとが奮発しない。奮発しないから仕事に心をこめない。心をこめないからお客さんが信用できない。

信用できないから誰でも理解できるような万能鋏を使う。他人に注意されると、「思い」というのは流行り言葉で、しかもけばけばしくなくてとってもすてきなんですよ、などと平気な顔で言ったりする(ここまでいくと想像に悪意があるな。テレビ局のかた、ごめんなさい。いつもすてきな番組をありがとう!)。

文化的創造物はすべて、社会経済の余剰物が咲かせた徒花である。と言ってしまうと大げさだが、おれたちが今日しゃべる言葉、着る服、乗る電車の塗装、買い物をするスーパーのシンボルマークなどなど、徒花はほとんど生活と一体になっている(ロバート・M・パーシグは『禅とオートバイ修理技術』のなかで、この徒花を<クオリティ>という言葉で表現した。必読)。

実用だけでいいなら、ほとんどのものが、納屋とか、猟師小屋とか、コンクリート打ちっぱなしの倉庫みたいなものになるはずだろう(比喩ね。これらの創造物にも、きっと実用以外のいろいろな思想があるはずだから)。というか、実用だけでいいなら、そもそも庭がいらない。庭園ってなんだそれ。家には、壁と屋根とベッドがあればいい。カプセルホテルでいいとなる。

(徒花がまったくなくなったときに変化を被らない学問は、数学だろう、とパーシグは言っていた。)

社会経済が衰退すると咲く徒花にも元気がなくなる。実用一遍のものになってしまう。万能鋏で事足りてしまうのだ。それで「思い」の登場となる。なんでもよく切れるいい鋏だ。これで仕事がはかどる。よかったよかった。

「思い」は流行言葉の部類に入るのだろうが、いままでの流行言葉とちがって、余剰な言葉ではないような感じを持っている。世間の目に触れないところで育ったふしぎな文化の結実という感じがしない。「萌え」とか「卍」とか「暗黒微笑」とか「イクメン」とかは、どこからどうみたって徒花である。こんなものなくたって全然会話できる。それでもおれたちが新しい言葉を編み出すのは、社会がどんどん複雑に、豊かなものになっていくとき、その尖鋭の感覚を表現したいとコレクティヴに願うからだ。こうした言葉でしか表現できないと思われる微妙な感覚が、生存という目的からはみ出した社会の余剰物に堆積して、そこに花が咲くから、新語が生まれるのだ。だから「言葉」なのだ。時が流れ、人間が日々生きていく限り、新しい言葉は咲きつづけるのだ。

だからちょっと「思い」が怖いなと思うのは、この花が、痩せ細った大地にしか咲かない雑草のように思われるからだ(雑草なんてありません。みんなそれぞれに名前があるのです〔わお、Okayge〕)。まるで昔からずっとそこにあったかのような顔をして咲いている。めずらしくもなんともないように見える。しかしこれはあきらかに新種であって、しかも最近、とくに殖えた。こういうものが、ほかでもないテレビに満ちているというのは薄ら寒い。咲かないよりは全然ましなのだが、しかしテレビというのは、情報媒体でありかつ、文化的な媒体でもあるはずだ。そこにこんなものが咲く。じつに怖い。

しかしまあ、テレビが流行らなくなったのも、自分たちが文化的な仕事をやっているという自覚をあんまり持たないまま、ずるずると現代まで来てしまったからなんじゃないかな? と思う(これは憶測だから話半分で!)。七十年代に青春を過ごしたせいで、媒体が大人になりそこねたのだ(これは偏見です。偏見だめ、ぜったい)。

ところで、痩せ細った大地にしか咲かない雑草の別種には「ていねいな暮らし」がある。これにたいする嫌悪感と恐怖をしっかりと解説してくれた大塚英志の記事、「「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち」は必読。目からうろこが落ちまくったので、うろこ揚げにして食べた。甘鯛かおれは。(ここで爆笑のSE)

現代で用いられる「ていねいな暮らし」もたぶん新語の部類に入るのだが、まるで新しい顔をしていないのが怖い。やばいとか、白けるといったくらいの目新しさ、力強さがあればいいんだけども。「新しい生活様式」までいくと、まあたぶん匂いでわかるんじゃないのかなあ。しかし「思い」はむりだろ。誰か気づいてるひと、いるのかね? 

ところでおれは、直近一年以内に書かれた原稿に、名詞っぽい「思い」という単語が出てきたら、即刻読むのを止める。センスがない。

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