2022年に発表された音楽のうち、とくに気に入って聞いたもの

中東やインドなんかの音楽も掘っていきたいものだ、などとグローバルなことを昨年末にふいた覚えがあるが、終わってみると西洋のギターロックに回帰した。これにはわけがある! 仕事だ。

おれの音楽的な洗礼はゼロ年代のロックンロール・リバイバルだったので、自信をもって語ることができるのもしぜん、そこから派生したものになる。仕事むけの音感のキャリブレーションのためにも、エレクトリック・ギターを含む音楽をとくに選んで聞いたのだ。はい、言い訳です、すみません。

十五年以上もポピュラー・ミュージックを聞いていると、あらゆる楽曲はすでに書かれたあとだ、という感をもたざるを得ない。人間がリズムとして知覚できる範囲のビーツ・パー・ミニッツ(小数点を含むbpmは空虚な糞にすぎない)に、可聴域の十二平均律の和音とメロディーの組み合わせは、もちろん膨大なパターンがあるけれども、有限だ。当然、Atonalität……無調律であれば複製不可能なので無限だが、おれがしているのはポピュラー・ミュージックの話である。

ようするに、おれの言いたいことはこうだ。百匹の猿に五線譜ノートとペンを渡して百億年かければ、一匹くらいはモーツァルトを書くだろう。

反論として考えうるのは楽曲の長さで、ジョン・ケージの『4分33秒』を借り、無限とおなじ長さを指定すればいいのかもしれないが、そんなのは人間のではなく神の音楽だ。

だから可能性があるとすればトーンである。というか、もはやおれにとって文学がスタイルであるように、音楽とはトーンにほかならないのではないか、という仮説を追求したのがこの一年だった。

おれがこの仮説を発見したのはFontaines D.Cの新譜、"Skinty Fia"による。これはおなじバンドのひとつまえのアルバムからそうだった。一聴したとき、まあだいたいどの音楽ももうそうなんだけど、楽曲の構成やリズムは新しくないと思った。四曲目の"Jackie Down The Line"の和音はGとBmしかない。六曲目の"Roman Holiday"はCとEmだ。しかし、気がつくと聞いている。何度も聞いて、ほんとうにいいなと思う。やっぱり、このバンドでないといけない。このバンドでなければ鳴らない音なのだ。

もしも技巧による良さの獲得が絶対確実なものであったなら、個別のバンドを組む必要も、それらを名付けて区別する必要もなくなるだろう。すべては音楽という伝統に同化し、たったひとりの(おそらくは絶対の)神のごときものからの支流として、人々はそれを聞くだろう。そうなっていないのは、われわれひとりひとりが、この宇宙で唯一の存在だからである。それはなにか? トーンだ! おれたちはみんなトーンなのだ!

とまあ、熱っぽくトーンの話をしたから、ソング・ライティングが際立っているバンドも挙げておこう。昨年も挙げたblack midiの新作、"Hellfire"である。用いられている和音はジャズっぽいディミニッシュやセブンス、かとおもうとイージーリスニング、カントリーや50年代以前の流行歌、場末のスピークイージーで鳴ってそうなやつなどなどだが、それらがものすごく誇張されたうえでむりやり接合されており、奇形の怪物じみた印象をもたらす。音大を出たごりごりの理論家が週7でジムに通い、泣く子も黙るほどのボディをビルドして、その筋力による圧力がなければ繋がらなかったものを超絶技巧でむりやりプレスして繋いでいるので、じつに脅迫的かつ不安な印象が終始つきまとう。そんなアルバムのテーマはずばり〈地獄〉である。アルバムとしての曲の繋がりもすばらしいものがあるので、ぜひ通しで聞いてもらいたいが、とにかく今年の(おれが聞いたなかでの)ベスト・トラックは六曲目、"The Race Is About To Begin"でいいだろう。新しい音楽がないとか言ってるおれみたいな低脳を、艶めいたリッケンバッカーのボディで滅多打ちにしてくれるのだ。歌詞も良い。

色味を変えてシンセサイザーの音を挙げておくが、Working Men's Clubの新譜、"Fear Fear"もすばらしい。つい先週に新譜が出たことに気づき、たったいまくりかえし聞いているところなので、穿ったことは言えない。Youtubeのコメント欄に、「イアン・カーティスが早世しなかった場合のジョイ・ディヴィジョン」とあったが、これにおおむね同感である。

あっという間にファンになったのはThe Beths、新譜は"Expert in a Dying Field"。Bethというのは英語圏の女の名前のElizabethの愛称で、たとえば光子ちゃんをミッちゃんと言うときみたいな感じ。すてきなギター・ボーカルであるところのElizabethさんのことがみんな大好きなのでBethsと名前をつけたことは容易に推察されるし、むこうの人にしてみたら「ザ・ミッちゃんズ」みたいなダサさを感じたりするのだろうが、それでもいいと振り切ったバンドメンバーの愛がそっくりそのままトーン・コントロールになっている。

バンドメンバーがつぎつぎとミッちゃん、じゃなかった、ベスをほったらかしにして練習をさぼりバンジージャンプに行ってしまい、帰ってくるなりすばらしい演奏をするので、やりたくなかった彼女もとうとう折れて飛びに行くというだけの筋書きのミュージック・ビデオ(歌詞との対比がすばらしい)をもつアルバム二曲目"Knees Deep"も必聴だが、ほろりときたのは一曲目、"Expert In A Dying Field"である。おれ自身、死んでしまって久しい分野のエキスパートであるから、あまりにも素直なギターロックでこういうことを歌われると、ころりとやられてしまうのである。

パンク方面にルーツを持つと思われるが、もはやそのプロダクションはトーンのことしか考えていないとますます思われるのがViagra Boysの"Cave World"である。曲の構成そのものの発明は、パンクロックに飛び道具としてのサックスとシンセサイザーをなじませていることくらいだが、それらの使い方にしても気持ちのいいノイズがほとんどだ。肉に振られたスパイスがじつに巧妙なので、熟成に失敗していることに気づかないどころか、むしろ臭みがくせになってたまらないという感じ。シェフ、これ発酵してません?

アルバム全体を通す歌詞のテーマにしても、コローナ・ヴァイルスとSNSによって浮き彫りにされた共和党支持者っぽいひとたちの御意見をこっぴどく戯画化しているわりに、そのイメージに揶揄や皮肉をぶつけて嘲笑するわけでもない。戯画化されたかれらの心情に入りこみ、そのリアルな悲しみを切々と歌い上げるのだ。おれは生まれてから一度も選挙に参加したことがないが、合衆国の住民だったらたぶん民主党に入れておくだろう。そして、そうするときにどうしても抑えられないため息みたいなものが、裏拍のすみずみに行き渡っている。民主党の権力者たちが若く見えるのは子供の生き血を飲んでいるからだ、あいつらがおれたちに打たせるワクチンにはマイクロマシンが入っていておれたちは5Gの基地局にされるんだ、ぶきみなクローラーがおれたちの血管を這いずり回って情報を集めてる、おれはいいんだが子供たちがかわいそうでならない、どしてこんなことになっちまったんだ、みたいなことを、ほんとうに悲しそうに、あるいは怒りをこめて歌い上げる。彼らのこうした憤りを背骨で理解できない連中は、いますぐごたいそうなリベラルの看板を下ろさなければならない。さもなければほかの誰でもなく、おれこそが職場に銃を持ちこむだろう。

忘れてはならないのがBrian Jonestown Massacreだ。二十数年前にデビューして以来、ほとんど一曲のヒットも飛ばすことなく毎年アルバムを出し続けているが、はたして神がこのバンドに微笑みかける日は来るのだろうか? 当然そんなペースで出しているから当たり外れが大きく、もうちょっとタメて作り込んだらもっと良くなるやんとツッコミたくなることもしばしばなのだが、今年の新譜"Fire Doesn't Grow On Trees"はなかなかの出来だ。いつの時代も売れる売れないの俎上にのぼる作品は他人を感心させることが第一になっているような節があるけど、とにかく作り続けることでしか生きていけない鮪みたいなタイプが世の中にはいる。そうしたタイプの第一人者、アントン老師に最大の敬意を表したい。

厳密には去年になるんだけれどもjulieのEP、"pushing daisies"もすばらしい。小説なり漫画しかり、どんな媒体であれ思春期の不安定な女の子/男の子感を表出するのってぶっちゃけ広義の売春にあたると思うんだけれど、(おれがそれらをよろこんで買うという話はおいといて)作家ってやっぱり、金銭的だけではなく芸術的に買われたいんだよね。ジャンルとしてはグランジだが、90年代より音が良い。sewerslvtが電子音楽でやっていることと似ているんじゃないかな。

あとはやはりHorsegirlだろう。みんなまだ十代らしいけれど、ここまで枯れた音を選べるのはなぜなんだ? 仕事をしながらわかってきたことだが、ある音楽家が選ぶ特定の音色の理由というものほど、ほかの言語に翻訳しにくいものはない。

こんなところか? まだほかにも色々あったような気がするけど、ごっちゃになっていてよくわからない。

おまけ:2022年に発表されたわけではないが、ことし見つけたなかで気に入って聞いたもの


煩雑になるので名前だけ挙げていく。福井良、ファラオ・サンダース、セロニアス・モンク、ビビオ、クバ・スタンキエヴィチ、デイデラス、スマク・ダブ、ミルトン・ナシメントとロー・ボルジェス、高中正義、ザ・マーダー・キャピタル、オリヴァー・バックランド、シェイム、ジュリア・ジャックリン。

まあまあ関係ない話なんだけれども、水着回のことだ。みんなが白い砂浜でピニャ・コラーダを飲むようなやつ。彼らが到達するあのビーチは作品を越境していて、浜辺に沿って伸びる国道、インターテクスチュアリティ一号線は作家と読者の想像力によって整備され、そこに行く資格はかれらがフィクショナルな人物であることだけなのだ。そして当然この仕事には音楽が絡んでくるから、高中正義の『セイシェルズ』を選んだ。夏がまた来る、いつかのメロディー。走る風にのり、心はずませ……。

ごらんよ ふたりの夢さえ声をひそめて そこまで来ているのさ

ブラジリアン・ポピュラー・ミュージックの大御所であるミルトン・ナシメントとロー・ボルジェスを発見したのはアルコリズムの神のおかげさまだが、がんばって歌詞を読み解いていくと、ここまでおれの仕事のテーマを先取りしているものもないなと思う。けっきょくは有限なものの組み合わせだ。すでに誰かがやっているのである。かりに時間が無限なら空間も無限でなくてはならないが、そうなると存在という単位がよくわからない。この三つのうちどれかひとつでも無限であることを実証できれば、この宇宙の方程式に有理数を代入できるはずだ。この世には1とゼロしかないんだと思う。そのふたつが重ね合わせの状態にあり、つねに揺らいでいるのに違いない。だって、そのふたつで充分なんだもの。ほかのすべての数は世俗にかんするものだ。あなたが同感でないなら、二時間ほどギターの練習をし、散歩をして風呂に入り、寝床に入って目をつむればいい。すべてが偶然であることに気づくはずである。



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