サマセット・モーム『月と六ペンス』備忘

28節、道化師のストルーヴェが妻に捨てられた顛末を、ルーブル美術館で語り手に話して聞かせる部分。語り手が聞いて想像している。つまり伝聞だが、構造としては三人称に移行している。その移行がじつにスムーズなので、ほんとうにその出来事が起こったのだと信じさせられる。しかも、節の終わりの一行まで、こうした操作に気づけない。圧倒的な技巧。

人の心を揺るがす芸術に、ストリックランドの方法でしかたどり着けないなら、モームがこの小説で採用している手法そのものが、そもそもの負け戦ということになる。この小説は抜群に読めるのだが、その読める感じそのものが、ストルーヴェの作品みたいだ。

だけどストルーヴェの作品だって捨てたものじゃないだろう。とにかく最後まで読めてしまうし、好意をもてるのだから。

モーム。かわいそうなやつだ。

作品を「読めるようにする」ことは、じつは作品を低くしているのではないか。ここのところがわからない。列車は乗れることが第一だが、だからといって乗り心地にだけ予算をかけてもいけない。奇抜なデザインがよい。

しかしデザインを突き詰めていった結果、座席が取り外されたような列車に、誰が乗るのか。

いやしくも文筆で身を立てるならば、列車には座席をつけるべきなのだろうが、もうそんなことにも段々と興味がなくなってきている。

やはり、筆を暴れさせていくべきだろう。頭のなかにつめこんできた技巧を、いったんすべて捨てて、幼児のように書いていくべきだ。

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