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スタニスワフ・レム『地球の平和』感想

(ヘッダー画像は国書刊行会ウェブサイトより。表紙カッコイイ!)

軍拡競争にほとほと疲れ果てた先進国は、すべての地球上の軍備を撤廃し、そのかわり自己を再プログラムする軍事AIをに送り込んだ。軍事的均衡を維持するため、いかなる国家も月面で行われている軍事活動の内容を知ってはならないという取り決めのもと、超国家的な月面監視機関、ルナ・エージェンシーが設立された。

人類絶滅に繋がりかねない問題がこれでやっと解決され、地球はつかの間の平和を楽しんだ。しかし、すぐに新たな問題が現れた。先進国はおろか、監視役だったルナ・エージェンシーさえもが、ある時点からまったく月の情報を得られなくなってしまったのだ。そこにある鉱石やガスを用いて新たな兵器を設計製造し、勝手にドンパチをやってくれるはずの軍事AIの卵を、国ごとに区分けされた疑似領土にたしかに送り込んだはずなのだが、それらの海では、少なくとも見た目の上では、まったく何も起こっていないのである。

衛星でも、何も映らない。どれだけ無人調査船を送り込んでも、一隻も帰ってこない。それでは私が、と月面に向かった勇猛果敢な調査員二名(のリモート身体)はまたたくまにレーザー銃に撃ち抜かれたが、どこからどんなふうに撃たれたのかさえわからない。万策尽きたルナ・エージェンシーは、よっ! 出ました! われらが主人公、泰平ヨンに月面の調査を依頼する。

この「泰平ヨン」はシリーズものの主人公で、若い頃は全宇宙をまたにかけ、半漁人に拘束されたり、時間を飛ぶ自転車に乗せるために過去の自分をぶちのめしたり、洗濯機と間違われてレンチで頭を殴られたり、引き抜くとおいしそうな仔牛のソテーっぽい味と形になる植物らしき何かで食いつないだりして生き延びてきた破天荒な宇宙探検家なのだが、シリーズ最後の長篇となる本作『地球の平和』では、わりとおとなしめというか、少なくとも行動範囲は月までに限られている。本編はシリーズを読んでいなくても百パーセント楽しめる。

とはいえおれはシリーズファンである。これまでの作品では、テーマや語彙や物語はけっこうゴリゴリのハードSFなのに、泰平ヨンの食べ物の好みとかデイリー・ルーチンとか発言とかが妙に人間くさく、まあまあピンチの状況でも読んでいて思わず笑ってしまうようなおとぼけ感があって、それがとても楽しかった。知性のまなざしで深淵を見たときに起きてくる、あの諧謔味に満ちあふれているのだ。そういうわけで、泰平さんの冒険もこれで最後かあ、また笑わせてくれるんだろうな、とか思って楽しみにページを開いた。すると、書き出しはこんなふうであった。

どうすればいいのかわからない。せめて「私は気分が悪い」と言えれば、最悪ではなかっただろう。また「私たちは気分が悪い」と言うこともできない。というのも自分の人格について部分的にしか言えないからだ――私は相変わらず泰平ヨンであるにもかかわらず。

ど頭からピンチっぽい雰囲気があらわれていた。今まではもうちょっと、事態に巻き込まれるまでの経緯とかが、おきまりの導入部だったんだけど……。

読み進めていくと、このピンチが相当なものであることが発覚する。

なにしろこうして書くのも部分的に、大変な苦労をしながらだ。タイプライターを右手でたたいている。左手は椅子の肘掛けにしばりつけなくてはならなかった。だって逆らうから。タイプライターから紙を引き抜くわ、どんな証拠を出しても腹を立て続けるわ、で、しばろうとしたら目を殴られた。これが倍増の結果だ。だれしも頭の中には二つの大脳半球があって、脳梁でつながっている。ラテン語でcorpus callosumという。二億本の白い神経繊維が脳を繋いでいる――脳が熟慮できるように。だがそれはもはや私の脳ではない。チョッキン、で、一巻の終わり。それに実はチョッキンでさえなくて、ただ月のロボットたちが新兵器を試験していた、あの演習場があっただけだ。

つまり、開始二ページで、泰平さんは月面調査をすでに終えていて、しかもなぜかそこで脳梁切断――カロトミーを行われ、その後遺症に苦しんでいることを告白するのである。いや、かわいそうすぎ。というか、いままでの泰平さんのノリとちょっと違う。いままでは、まあまあひどい状況に陥っても「なんとかなるさ」とか言いながら切り抜けていたけれど、今回はちょっと本気でへこんでいるように見える。

それでまあ、昨晩の零時くらいに読み始めて、八時間くらいで一気に読んでしまったわけですけど、抜群に面白いです。今回はなんというか、ちょっとカッコイイ感じ。いや、そこまで強烈にふざけたりしないってだけで、泰平さんは泰平さんなんだけど、一人称の文体から「泰平さんらしさ」が注意深くカットされてるのね。

それは言語野が左脳にあるっていう前提で、カロトミー状態にあって、しかも出来事が起きた後の回想録で始めてるからなんだけど、この文体の調整が小説として最高に上手い。確かに直感や色彩に頼らずに文章書いたら、こんなふうになるよなあ。ちなみにユーモアがぜんぜんないわけじゃなくて、右脳が支配的な左半身は左脳の言うことを聞かなくって、控えめの文体のなかで、左手が街中の美人のお尻をつねったり、左足が会話相手の教授のすねを蹴ったりして、ごめんなさい、私の右脳がやったんですとか謝ってる(笑)。

泰平さんはカロトミーが起きた瞬間の前後の記憶がなくて、おそらく右脳にはあるんじゃないかと疑っているけれど、右脳は言葉が苦手だから左脳にむけてうまく喋れない。主体が「倍増」してるせいと、いろんな人間が月面まわりのことで自分や属している集団の利益を優先するせいで、実際のところ誰がなんの目的で何をやったのか、語り手が誰と喋っていても全然見えてこない。このコミュニケーション不能な感覚はおれの読解力のなさに起因するんじゃなくて(たぶんね笑)、その感覚こそが脳梁切断の後遺症の追体験として提示されてるんじゃないかなあと思いました。それをミステリというか、真相を追い求めていくフックとして置いてあるのも、完璧だよなあ。

ま、抜群に面白いんで読んでください。最後はさすがレム、思い切りまとめてくれます。豪腕。あーあ、これで終わりかあ……。泰平さん、今までありがとう。良い旅を続けてね。

カッコイイ! と思ったところを引用しておこう。

「どうして何も言わないんだ?」と訊きながら、そいつはもう私の宇宙服の表層を、鋭くバリバリした音を立てて切り裂いていた。鋏は一級品で、恐ろしく硬い鉄でできていた。
「何か言おうか?」私は尋ねた。
「ああ言えよ!」
「ハイエナ」
「何だって?」
「ジャッカル」
「私を侮辱したいのか、友よ?〔…〕」

身体を洗ってさっぱりした私はプラスティックの洋梨型容器からコーヒーを飲み、最強に設定した強力排気装置のフードの下でレーズン入りスポンジケーキを食べた。気流が私の指からケーキ屑を払い取ってくれる方が、レーズンで窒息したり、むせたりするよりましだったからだ。私は些細な理由で習慣をあきらめるような人間ではない。しっかり腹ごしらえをすると、月面図の前の肘掛け椅子に座り、シミュレートされた月球儀を眺めて、いい気分でこう考えた。だれもアドバイスを投げつけてきたりはしないさ、基地に起床報告をしなかったから、向こうは私がまだ眠っていると思っているだろう、と。

「オートマタが持っていたのは人間が持っていたのと同じレーザーだ」不意にウィヴィッチの声が聞こえたので、私はびくっとした。「モデルE-M-9。X線放射が九パーセント、ガンマ線、残りは青色だ」
「可視光か? 紫外線もか?」
「そうだ。スペクトル〔訳注 widmoには幻、幽霊の意味もある〕は急に途切れたりしない。どうした?」
「待てよ。超光帯域での最大放射か?」
「そうだ」
「何パーセント?」
 ふたたび沈黙。私は辛抱強く待ちながら、宇宙服の左側が太陽光に照らされて、ゆっくりと温まるのを感じた。
「超光帯域で九一パーセントだ。もしもし、泰平。そこで何が起きてるんだ?」


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