正面切って死について考えたことのない人間の文章なんか、読んだって何にもならない

新刊小説を避けている。むかしからの悪癖で治らない。「死んでしまった作家なら大抵のことを許せる気がするんだ」と、村上春樹がどこかで書いていた。ボルヘスは、「他人の声を求めているのに、同時代の作家には自分の声しか見いだせない」となにかのインタビューで答えていた。いずれの場合も同時代性が問題になっている。おれだって、現代に喫緊のテーマをこんこんと語られたら息が詰まる。どうしても喧嘩をしたくなる。しかし作家のところに殴り込みに行くわけにもいかない。そんなことをして何になる。

この件に真っ向から反駁しているのはヴォネガットである。かれに言わせれば、奴隷や女性を使役していた時代の白人男性が書いたものは、それがどんなにすばらしかろうと評点が下がる。けっきょくは、女性や奴隷に働かせているあいだに思索にふけったわけだから。村上春樹はデビュー作のなかで、このあたりのことをずいぶん柔らかい言い方に直した。つまり、夜中の3時に冷蔵庫をあさっている人間には、それだけのものしか書けない。

大衆本を避けている。大衆本とは、その背骨に死への考察が浸透していない書籍すべてを指す。正面切って死について考えたことのない人間の文章なんか、読んだって何にもならない。池のなかの鯉の群れみたいだ。ぶくぶく泡立つばかりで何を言ってるんだかわからない。

きょう開いた本にあまりに腹が立ったので投げた。えっ、もしかしてあたしの小説かしら、とか思わなくてよい。フランスで四十年前に出た小説である。腹が立つのは駄作だからではない、駄作は記憶にも残らない。おなじ問題意識を共有しているにもかかわらず、語り手の態度があまりにへなちょこだから投げたのだ。へなちょこってのは、ようするに、いつかみんな死ぬという現実に、負けているってこと。死にたいする可能な態度はふたつ。打ち勝つか、受け容れるかだ。負けたんなら書かないか、負けたことを受け容れてから書くべきだ。

だって締め切りが、と言ったやつはぜんいん死刑。紙と情報の無駄だ。金がほしいんなら、よそで嘘をつけ。

おれの最近の倫理的な弁慶の泣きどころは、思想がずいぶんエリート主義的になってきていることだ。これは煎じ詰めると、能力のない人間は死刑にするべきだという主義である。あまりに乱暴だ。だいいち誰がどんな基準で能力を測るのだ。そう自分に尋ねると、もちろんおれが測る、想像力を測るんだという。なにを言ってるんだか全然わからない。想像力? そんなもんが腹の足しになるのかね?

なる、とこいつは言う。おまえが腹を空かせているのは、資本主義に想像力が足りなかったからだ。想像力をもった人間ばかりになれば、世の中はもっとましになる。

めちゃくちゃである。

母親が死んだときに供養だと思って遍路旅に出たのだが、十二番焼山寺の遍路ころがしに転がされて引き返し、徳島駅前のネットカフェにこもってビデオゲームをやった。日が暮れたあと街を歩いて定食屋に入ったのだが、酒場でもないのに店主との距離が近く、遍路ころがしにやられたんだと告白するはめになった。あれが登れないなら兄さんには向いてなかったんだ、あきらめて食べろ、というような意味のことを店主は言った。その飯はありがたかった。しかし負けたと告白したのが恥ずかしかったので、二度と入らなかった。

ところできょう、おれが書いていた小説の登場人物たち、十人ばかりが午過ぎにやってきて、雨宿りをさせてくれと言うので、迎え入れた。おれは二階に戻って、実りのないタイピングをつづけた。一時間であきらめて階下に降りると、登場人物たちが、麦酒だのウイスキーだのを探し当てて、たいへんにぎやかにやっていた。

「きみも参加したまえ」とひとりが言った。「こんな機会はめったにないよ」

言われてみればそのとおりだった。おれは冷蔵庫からジンとライムとトニックと氷を出し、特製のカクテルを飲みたいやつはいるかと声をあげ、返事があったぶんだけ飲み物を作った。飲み物は評判だった。

二時間ほどで雨脚が弱まった。彼らは帰り支度をはじめた。「もうちょっといればいいのに」とおれは言ったが、「行かなければならないところがあるから」と彼らは答えた。おれは玄関先まで出て、彼らを見送った。うすく発光する曇り空の道をゆく彼らの後ろ姿は、幽霊みたいに霞んでいた。

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