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俺たちの超芸術トマソンを探しに行く。森ノ宮から難波へ。

グッドルッキングガイ(以下グッガイ)の友達に「散歩しにいこーよ」と声をかけたら「いいですよ」と言ってくれた。イカす絵を描く彼なら、この誘いに乗ってくれると思っていた。センキューベリーマッチ。
ここまで読んだ人は全員彼のインスタの絵を見てください。

散歩の出発地点はルーレットで決める。やることはただの散歩なわけで、でたらめに歩くってだけなのだけど、ルーレットで行き先を決めればイベント気分を味わえるというわけだ。ルーレットの様子は私のTwitter(旧X)をご覧ください。

というわけで森ノ宮に行ってきました。

まず駅を出てすぐにレベル1の落書き。
色のあせ具合から描かれてすぐということはなさそうだ。湯気の上がってるRとアダムスキー型と⭐️。
なんとなく二人で描いてそう。DAISOで買ってきたスプレー缶をそれぞれ持って夜中にシャッターに吹きつけてそう。
誰か知らない若者の夜を勝手に想像させられる。レベル1なもんだから想像の入り込む余白が大きい。

落書きからしばらく歩いたところ。奇怪な枠組みがタワーマンションから伸びていた。塗装のソフトクリームみたいな白はタワーマンションの外観からは浮いているし、屋根は網になっていて雨から守ってくれるわけでもない。
どういう目的で作られたのかまるで謎だ。何かから守ってくれそうで何からも守ってくれない。網の屋根は蔦を這わせようとしたものなのか、元々あった屋根をなにか事情で取り払った後なのか、グッガイと色々と言い合う。しかし結論は出ない。そんな中で更に奇ッ怪なものが目に入ってくる。

上から落ちてきたのだろうか洗濯バサミが引っかかっていた。ただそれだけなのだが、しかし、どうだろう。普通に落ちただけで、これは可能なのか。単純に落ちただけでこんな引っ掛かり方をするのだろうか。開いた状態で落ちて、落ちてから閉まるとかしないとこんな風にはならないんじゃないか。
私たちはその洗濯バサミについても色々と考えを言い合ったが、レベル1のホームズとワトソンからはなんの答えも出ず「そういうこともあるのだろう」という曖昧な解決だけを残してその枠組みから離れた。
なのだが、帰ってから友達にこの話をしたところ友達はマーカー付きの写真を返してきた。要は「可能だ」ということである。レベル1のホームズとワトソンではなにもできない。

私は歩きながらグッガイ(以下グ)に超芸術トマソンの話を始めた。超芸術トマソンとは無用の長物と化した不動産のことだ。例えばどこにも通じぬ階段であるとか、どこにも開かぬ外門であるとか、隣家の壁面に面影だけを残す解体後の日焼け跡であるとか、かつての本質を失った不動産のあれこれ。そういったものを超芸術トマソンとする芸術分野があるのだ。
超芸術トマソンのウィキペディアを読んだばかりの私は、そんなことを感じさせないよう慣れた調子でグに説明した。
「路地を繋いでいけばトマソンがあるかもしれない」
よく晴れた暖かなお昼時に、そんな怪しさ満点の誘い文句で私は路地を歩いていた。

森ノ宮から西へ西へ歩を進めるうちに気付くと谷町のあたりにまで出ていて、そこには汚い路地とは無縁の整えられた町並みがあった。くすんだ感じに塗装された外壁が続き、主張の乏しい雑貨屋が景観に潜む。町は古びて見えるように丁寧に装われていた。
子供達の遊ぶ声も教科書みたいに元気で健全に響いてくる。
「うーんこ!うんこ!うーんこ!ハイハイ!」
なんていうふうな小学生のうんこコールが聞こえてくる寝屋川とはどえらい違い。

「このへんは住みやすそうやけど家賃が高そうや」
「町を荒らして家賃の相場を下げてから引っ越してこようか」
馬鹿を聞く野良猫の毛並みまで綺麗な。

眼鏡店の扉がなんだかオシャレだった

超芸術トマソンなんて言っていたが、目に入る物はどれも意味に満ちていた。人のために作られて、人のために機能している。眼鏡屋の洒落た扉は最もトマソンから遠かった。退廃の気配はまるで無くて、この町では人死になんて無いことのように感じられた。

私とグは静かな喫茶店に腰を下ろした。
私は実存主義の話を始めた。
人は実存が本質に先立つ。
人は役割やら目的など持つ前にまず生まれてしまう。予告もなく生まれてきて、それから途方もない自由の中を生き抜かなきゃいけない。自由というのは本来とても孤独で冷たい。その中で自分の生きる意味を自己に問いかけて、将来に投げかけ続ける。
私はたどたどしく、読んだばかりの本の受け売りをする。
「要は、実存主義は人の話なんやけど、物は、無機物は、自分の本質すら選ばれへんていう悲しさがあるよな。周りの環境が変われば変わるほどに取り残された本質が浮き上がっていくって感じかな」

グはアイスココアを飲んだ。私はホットコーヒーを飲んだ。
私はコーヒーを飲みながら、この散歩では明確なトマソンが見つからないであろうことを悟った。グと歩きながら愚にもつかないことをわざわざ話す、その理由ない時間に私は非常に満足してしまっていた。そんな散歩の話の種には、滑稽なほど意味に溢れた何かの方が適していた。

難波のあたりにまで来ると、もう目を向けることすらできないほどの情報の嵐が轟音を立てていた。ビルの外壁にはあらゆる言語の看板が並んでいる。小売店の店内放送は恐らく法に触れているほどに騒がしい。ゴミ袋の山が道にそびえる。
夜を前にした夜の町には疲れた雰囲気が漂う。私たちも疲れていた。もう2万歩ぐらい歩いているわけで、そんな状態でこんなところへ歩いてきてしまうと、なんだか気が滅入る。情報を浴びるのにも体力を使う。難波猥雑マクスウェルの悪魔というわけだ。

私とグは素直に駅の方へと向かって、駅に入る手前でまたどうでもいいような話を私がグに浴びせてからそれぞれ帰路へ着いた。

思い出すようにしてここまで書き終えたが、散歩の中で最も印象深く残っていることと言えば途中でシルク姉さんに遭遇したことだ。ごぶごぶでダウンタウンの浜ちゃんに車を蹴られてたシルク姉さんはお綺麗でした。おわり。

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