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2人目育児:陣痛という名のコミュニケーション。

多くの臨月(間近)の妊婦さんにとって「陣痛」がいつ、どのようにくるか、というのは、暮らしの中で最大の関心事項だ。

特に自然分娩を予定している場合は、それがコトの起こる「キュー」であり、朝から晩まで、鬼ディレクターのキュー待ち状態。
いつ、どのように来ても、それに望まれるように応えなくてはならない。

出産を終えた今、あの期間の感覚を思い出すと、やはりとても、独特だと思う。

「自分の体の声を聞こう」というのとは、ちょっと違う。

「自分の体の中にいる赤ちゃん(ディレクター)の声を聞こう」というわけで、自分の体に起こる現象だけど、自分ではない(言ってしまえば)「他人」の動向に耳を傾けるという、「もう1人の人間が体内にいる」妊娠・出産プロセスの特異な感じが凝縮されている。

その特異な感じへの興味というか恐怖というかは、実際に出産が始まるまで(終わるまで)尽きず、その証拠に、「陣痛」「いつ」「違い」「わかる」…などなどのキーワードをGoogleに打ち込むと、これでもか!というくらいの数のキュレーションサイトの記事や掲示板的なやりとりがヒットする。
(これは、妊娠を希望する場合の体に表れる変化、その兆候についても同じことが言えるのだけど…)

誰しも、ドキドキハラハラ、困惑。

一般的には、
痛みが不規則なものから規則的なものになり、
その間隔(痛みが始まってから収まって、また次の痛みが始まるまでの間隔)が10分になったら本陣痛…といわれているのだけど…

「本」陣痛があるからには、「本」でない陣痛があり、
「それに似ているらしい」お腹の痛みが、臨月(間近)になると度々起こる。

また、「おしるし」という名の少量の出血があって、それが起こると本陣痛が来るのも近いというサイン(だから、おしるし、という)といわれているのだけど、このおしるしも、ある場合とない場合がある、というので、なんとも確証がない。

またまた、「破水」というのも本陣痛の兆候の一つといわれているけれど、これも、事前にある場合とない場合がある。しかも臨月(間近)の妊婦さんというのは、増え続ける体重(というかでっかくなり続けるお腹)に圧迫されて、少々の尿漏れが起こったりすることがあるのだけれど、その違いを見分けるのは「匂い」でしかないという。つまり、羊水の匂いなのか尿の匂いなのか、という、「そんなの、人生でほぼ嗅いだことないよ!」っていう、難易度の高さ。

そして何より、基本的に、すべては「個人差」という言葉にまとめられている。

「…という場合もあるが、そうとは限らないので、自分で判断せずにかかりつけの病院に相談すべし」というわけである。

お医者さんや助産師さんのいうことは「一般的には」「大抵の場合は」ということであって、他のお母さんの経験談は、あくまでも「その人たちの場合は」ということであって。

すべては、お母さんと赤ちゃんのユニークな1対において、秘密裏(完全クローズド)に行われるコミュニケーションなのである。

「君、これ(この痛み、またはこの出血、などなど)、もしかしてもう世界に出てきたいサイン?」
「あ、違ったんか」
「え、これもしかして!?」
「…なんだ、違うんか」

みたいな。

これを、数週間〜繰り返す日々。

結構、極端に言えば「その他の大人」との会話なんてもうどうでもいい、と思えるくらいに、「お腹の中の人」との対話に神経を費やしている。

わたしの場合、
1人目の時、結局、何が陣痛なのか分からなかった…という反省というか後悔があったので、ことさらに、今回こそはコミュニケーションを何とかうまく運びたいという気持ちだった。

1人目は、後から思い返せば、あれは陣痛だったのかも?という痛みはあったのだけれど、そもそも初体験のことで意味が分からなさすぎた。

結局、赤ちゃんからの「キュー」は、そんなぼやぼや(あくまでわたしの場合、ですよ)している母親に対しての、突然の大量破水となってやってきたのだ。

わたしは多分に「痛みに強いタイプ」の人間だと思うのだけれど、病院に「なんかちょっと変かも」と思って電話した時も、予定日よりはだいぶ早かったし、第一子ということもあり(一般的に、第一子は産まれるのに時間がかかると言われている)「声の調子からもまだまだ大丈夫そうね」と言われてしまって、「そうですねぇ」と納得し、敢えなく引き下がって間もなく、「ポンッ」というシャンパンの栓を抜くような軽快な音とともに、勢いよく大量の羊水が流れ出てしまい、あれよあれよという間に入院・出産となったのでした。

「こっちは苦しいねん!お前、はよ気づけや!」とでもいうような…

2人目の場合、こんな突然のオペレーションになってはいろいろと困るわけで(もし、父親不在の時間帯だったら(我が家のような核家族の場合)上の子をどうするのか、などなど)、そんなわけで、「中の人」とのコンタクトは、かなり綿密に行っていました。

といって、特に毎日お腹に向かってあーだこーだ話しかけるとか、なんだか技術・スキル的な秘策があったとかそういうわけではなく、「心構え」として、「陣痛=わたしの身体的な変化」としてでなく、「これはコミュニケーションである」としっかり認識した、というだけの話。

彼の繊細なディレクションを、しっかりと受け止めよう、という気持ちで、日々過ごしていたのです。

すると不思議なことに、赤ちゃんが生まれてくる日が、何となく事前にわかっていたような気がしていた。
「この日に生まれるよ」という声を聞いた(というと表現的にスピリチュアルすぎるか!)ような。。。

なので、やはり予定日よりも早いその日の朝、じわじわとお腹にくる痛みが、教科書的な「規則的」なものではなかったけれど、そうなんじゃないか、と妙に納得する感じがしていたし、
だから、「陣痛かも」とオットに告げつつ(「え、ほんと!?きた?きたきた!?ほんと!?」と興奮するオットを冷静にあしらいつつ)、もしやに備えて家族の朝食の準備(助産師さんには、「朝食準備してきたんかい!」と言われたけど、第二子以降の妊婦さんはだいたいそんな感じだと思う…上の子のお世話はマスト!)をしていたら、「つーっ」と体の中を液体が伝う感じがして、それが出血だとわかったとき、「あ、もう、これは絶対そうだ」という確信があって、
病院に電話したときも、客観的にどう、というプロの判断は仰ぎつつも、わたしと赤ちゃんの「自分たち」の気持ちとして、「病院に行きたい(診てもらいたい)」を率直に伝えることができた。

結局、その日、そのまま入院となり、子どもは当日に無事生まれたわけだけれど、わたしとしては、1人目の時のような、「わー、今日生まれたー!」という驚きに満ちた熱っぽさでなく、「あぁ、今日生まれたなぁ」という落ち着いた感想で。

1人目と2人目の興奮度の違い、と言われてしまうかもしれないけれど、
そこにあるのがドラマチック感というより予定調和感、なのは、それまで1ヶ月近く続けられた赤ちゃんとわたしとの「いつ出てくるよ?会議」の賜物なのではないかなぁと、思うのです。

生まれてからは、おぎゃーおぎゃーと泣くばかりの赤ちゃんに「何で泣いてるんだ?」の理由を探る日々だけれど、これもまた、彼は「泣いている」んじゃなくて「話している」と思えば、見る目も変わる。
(疲れるのは…変わらないけれど。でもこれは、バーバルなコミュニケーションでも一緒のこと。言葉のわかる大人とだって、話し続けていたら疲れるのだ。)

まだまだ意思疎通は、ツーともカーとも行きませんが、世界に出るタイミングを一緒に推し測ってきたわたしたちだもの、これからも話し合って、いきましょ。

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