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ガールは庭をでて




子どもの頃に思い描いた20代の自分は理想の投影のようなものではなく、ピチューがピカチュウへ、ピカチュウがライチュウへと進化していくように、流れのさきを思い浮かべるようなものだった。
どこかで突然、グラードンにチコリータにミュウツーになれないかなと思ったりしたけれどそんな願いは届くことはなく百マンボルトを習得する道半ば、ライチュウになる日を夢みるようになった。


色んなことがあったけれど、色んなところに行ってみたけれど、かならず自分に帰ってくる。日常という庭をでて、少しの勇気がくれる距離のなかで出会う自分が好き。それでまた、自分はまだまだやなあと、ぼんやり思いはじめられるときに、アイアンテールを習得した。ピ、ピカチュウ!..



"あの頃"の話の中にしかないものはいつも眩しいけれど、いろんな時をこの体に詰め込ん生きている精一杯私である私を誰かに可愛いらしいと思ってもらいたい。わたしはわたしの中にわたしの影を残し、わたしになる。格好はつけない、わたしは限界まで私だから。

ほどけた靴ひもを結びなおせなくなったまま走っていたら、急ぐ足をとめて結んでくれる友だち。結び目に支えられて、幼いことを認めたら、もっと長く走れる気がした。速度は速くはないけれど、自分の呼吸のリズムを知ったとき、もっと遠くが見えて、走って行ってみたくなった。行けるかもしれないという微かな希望が心拍数をあげて、少しだけ速く走れる。



切実に生きる日々はあの人のうたがお薬みたい。
いくつになっても帰ってくるはじめの線。
不安定な気持ちがボールのように返ってくるほど忘れられない日に溶かそうよ。
空が美しいとおもえる心の隙間におたのしみを思い描くの。
しわくちゃになってくほどうつくしいのは、目尻のシワも優しいゆびさきもテキストもおなじだから。



どんなにがんばっても有限の海に無限を重ねてしまう程の小さな生きもののわたしだから、この海はあまりにも広すぎるけれど、限りなく深い海の色に憧れをいだけるこの胸は、膨大な命を抱えた海よりも豊かなものかもしれないし。わたしには海より大きな心があるから、わたしには無限の豊かさがあるから、海に彼方を重ねる生き物たちはみんな海の心を抱いているから。だから、すこし擦れても大丈夫、今日もちょっとそこまで庭を出る。

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