新型コロナウィルスを自己主張の道具に利用するな

あるとき、こんな記事が流れてきた。
政治的、思想的な論争に加わろうというわけではない。ただ、そのタイトルに惹き寄せられた。しかし読み始めてすぐに後悔することになる。筆者は「不安を共有する社会を選ぶ」とタイトルに記しているが、コラムに書かれていた内容は、すべてのひとにとって厄災になっている新型コロナウィルスの蔓延に対し、世代を分断させようと、視野の狭い複数の対立構図を書き立てたものだった。
さらに筆者の自己中心的な論調は続く。
自粛などまっぴらごめんだ。みんな自粛などせずに、自ら感染リスクを背負い、さらに周りにも感染させればいい。どうせ若い世代は生き残るのだから。
そんな暴論で結ばれていた。

この赤木というひとが、本当にジャーナリストなのであるとしたら、そもそも”ジャーナル”の意味を見返した方がいいのではないか。彼はどんな事実を伝えたいというのだろう。

政治の責任を声高に言い、政府がどう対応すべきなのかを、不十分な情報しか持たないフリーランスのジャーナリスト(それは僕も同じだ)が語る段階ではないことは火を見るよりも明らかだ。
何を優先すべきなのか、自分にとって、自分の大切なひとにとって何が大切なのか。その優先順位、自分にとって本当に必要な大切なことは何かを問われているのが現在だ。
この赤木というジャーナリストが自粛を拒否し、他の多くの若者に自粛をやめ、経済を回せと声をかけ、感染しても死ぬのは年寄りだけだと叫ぶことで、一体何が起きるのか。その想像力が欠けたものに、愛する誰かを守るという基本的な思想は感じられているのだろうか?

危機感の低さ、現状認識の甘さ、軽率な行動は、自らの健康だけではなく、まわりの大切なひとたち、愛する人たちを危険に晒す。
経済が壊れ、会社がなくなり、あるものは作り上げてきた店を失い、職や財産を失うだろう。しかし軽率な行動をとり続ければ、あなたはもっと大切なものを失っていき、そして”自分にとってもっとも大切なひと”、”大切なひとが大切にしているひと”を失うことになる。
そしてそれは、もう二度と取り戻すことはできない。

医療機関は患者で溢れかえり、本来、受けられるはずの治療を受けられないひとがはじき出され、病院に通うことができない日々が想像できないのだろうか。
自らの思想、主張を広げるために、新型コロナウィルスという厄災を利用しないで欲しい。
新型コロナウィルスを通じて主張を行うことで、赤木というジャーナリストの訴えに同調するひとが生まれることで感染者が広がり、医療体勢の脆弱さを少しでも前に進んでしまったら、何の罪もない別の誰かの命が危険にさらされる。
世代間の分断。彼にとっては大きなテーマなのだろう。しかし、新型コロナウィルスの明白な危険性を過小評価して、たぶらかすべきではない。

いま訴えるべきこと、いまみんなに考えてほしいと伝えるべきことは「本当に大切なものを守ろう」ということだ。
その解釈は各々が行えばいい。そしてそれぞれに本当に大切なひと、あるいは本当に大切なものを守るために行動しよう。
必要なのは分断ではない。過去に経験したことがない危機を乗り越えるための連帯である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?