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7月21日(日)|下西風澄×森田真生 「心」と「風」のこれからを考える

《オンライントークイベント》

下西風澄×森田真生

「心」と「風」のこれからを考える

【出演】
下西風澄
 ×森田真生

【日時】
 7/21(日)
19:00-21:00(開場 18:50 予定)
*途中10分程度の休憩を挟みます。
対談終了後には質問を受け付け、可能な限りお二人にお答えいただきます。

【参加費】
4400円(税込)

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 今月21日(日)に、『生成と消滅の精神史』(文藝春秋)の著者で、哲学者・詩人の下西風澄さんを一年ぶりに鹿谷庵にお招きして対話をします。
 今回は、「心と風」がテーマです

 下西さんは『生成と消滅の精神史』のなかで、古代ギリシアのホメロスの文学をひもときながら、かつて「心は風のようなものだった」と論じています。

 古代のギリシアの人々は現代の私たちが「心/精神(mind/soul)」と呼んでいるものを「プシュケー(psyche)」と呼んでいた。プシュケーは「呼吸」や「風」の意味を持っており、日本語では「魂」と訳されることが多いが、文脈によっては「気息」と訳されることもある。またプシュケーと極めて近い語としても使われていた「プネウマ(pneuma)」も、同じく風や空気を意味する言葉で、これはラテン語の「spiritus(呼吸、微風、霊)」や現代欧米語の「精神(英:spirit 独:Geist 仏:esprit)」の語源でもある。古代ギリシアにおける心とは、「風」のようなものだったことは間違いない。

『生成と消滅の精神史』(p.45)
『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)

 彼はまた、「古代ギリシアの心は、身体という境界にはまったく囲われておらず、身体への侵入も流出も当たり前に行われる」ものだった、と指摘します。意外なことにホメロスの『イリアス』には、「身体(body)」に相当する言葉が出てこない。腕や足、皮膚や骨といった身体の各部位を指す言葉はあっても、その「全体」を統合されたものとして指し示す言葉がなかったというのです。
 身体諸器官のバラバラな集合体を、風のように吹き抜けていく —— このようなものとして下西さんは、ホメロスの時代の「心」を描きます。

 「風のような心」というイメージを根本的に刷新し、「分割 - 不可能(in-dividual)」な「統一体として心」のモデルを構築しようとしたのがソクラテスでした。ソクラテスこそ、「心のモデルの最初のプロトタイプを創った」人であるという立場から、この本で下西さんは、その後の心の2500年の西洋史を描き出していきます。

 本書を読んでいてあらためて考えさせられるのは、心、そして「心の宿主」としての身体の分割不可能性あるいは統合性という、いまではほとんど常識のように受けとめられているヴィジョンが、実際にはいかに当たり前ではないかということ、そして、このイメージを浸透させていくことが、いかに時間のかかる、困難なプロセスだったかということです。
 実際、現代の自然科学の知見を踏まえると、「一人の統合的な個体」というヴィジョンの非現実性を私たちはすでに知ってしまっています。目に見えないレベルで身体内部の臓器と対話し(たとえば、「腸は消化管の感覚受容体を通じた情報処理のシグナルを、巨大な情報バイパスである迷走神経によって脳へと伝達し、その感情や意思決定に影響を与え続けている」)、ほかの生物たちと共生(「人間の体内に常在する微生物の細胞数は、一人の人間の細胞数の10倍にあたり、遺伝子はおよそ百倍にあたる」)しながら感情を生んだり意思決定をしたりする私たちの身体は、分割不可能な統一体というよりも、むしろ一つの「緊密な生態系」のようです。その「生態系」はもちろん、皮膚という境界だけには閉ざされていません。
「心とは試みだった」(p.30)という『生成と消滅の精神史』のメッセージを踏まえるならば、心のモデルはさらなる「試み」による更新の可能性に開かれているはずです。

 一方で、「一人の統合的な個体」というイメージ(下西さんの言葉でいえば「メタファ」)を共有することを基盤として現代の社会はつくられています。いかにこのイメージが科学的な事実に照らし合わせて粗雑だとしても、統合された個人というアイディアをすぐに手放すことは難しいでしょう。
 問題は、心を身体という境界のなかにあまりにも性急に閉じ込めてしまったこと、一人の個としての統合性を「風」の不確実性や制御不能性から清潔に切り離してしまおうとしたこと、こうした心のモデルが当初より抱えていた限界が、さまざまな形ですでに顕在化しはじめていることです
 
特に、風の変調、大気の異常、「熱」や「流れ」の問題として顕在化している現代の様々な「環境」の問題は、かつて風から切り離されるところから出発した心のモデルが孕む根元的な矛盾の一つの表れなのではないか。最近僕は、このようなことを考えています。
 
今回の下西さんとの対話では、こうした問いかけから出発し、「心」と「風」のこれからについて、思考と想像を広げてみたいと思っています。

 下西さんにはこれまですでに2回、鹿谷庵にゲストとして来てもらって対話を重ねてきました(それ以前に一度、オンラインでの対話もしています)。
 2023年1月22日 『生成と消滅の精神史』刊行記念対談
 2023年5月28日 心の「弱さ」とともに生きる

『生成と消滅の精神史』刊行記念対談 「心に生命を取り戻す」の一場面

 著書の刊行から約一年半の歳月を経て、さらに思索を深め、広げている下西さんとともに、新たな思考の可能性を切り開く時間になればと思っています。
 対話はリアルタイムでのオンライン配信となります。ご縁がありましたらぜひご参加ください。当日の時間をいまからとても楽しみにしています。

2024年7月8日 森田真生

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開催に寄せて(下西風澄)2024.7.18

 僕は『生成と消滅の精神史』のなかで、心を「風のようなもの」と捉えるホメロスの世界観や、心を「コンピュータのようなもの」と捉えうるカントの視座までを追いながら、私たちの転変する心の自画像を掴もうとした。

 人間が世界を認識するということは、その眼差しそのものを自覚するという行為に他ならない。 近年の科学の明らかにする自然現象は、微小世界や銀河世界など、かつて人間が世界を眼差すスケールを超えた視線からも理解することができる。それは、人間が生まれ持った眼や耳の知覚する世界とは途方もなく離れている。風は精霊の息吹であることをやめる代わりに、流体力学の計算過程のなかで新しい運動の流れとして認識できるようになった。

 私たちは新しい認識を獲得したことで、何を手にして、何を失ったのか。そして人間の存在はどのように変わり得るのか。 僕はその答えについて分からないが、認識と存在が不可分な生物である人間において、重要な問いになることは間違いないだろう。

 認識がどれほど存在を変えるのか、存在の変容がどのような認識をもたらすのか、それを問いかけつつ語り合う中で考えてみたい。


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