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1月22日(日) | 下西風澄×森田真生 『生成と消滅の精神史』 刊行記念対談 「心に生命を取り戻す」

《オンライントークイベント》
下西風澄×森田真生
『生成と消滅の精神史』 刊行記念対談
「心に生命を取り戻す」

【出演】
下西風澄 × 森田真生

【日時】
1/22(日)
15:00-17:30(開場 14:45 予定)
*途中10分程度の休憩を挟みます。
対談終了後には質問を受け付け、可能な限りお二人にお答えいただきます。

【参加費】
4400円(税込)
(申し込み方法はページ下部に記載)

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 下西風澄さんのデビュー作『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)がついに発売になりました。大学や組織に所属せず、ひとり淡々と思索・執筆に没頭し続けていた彼の姿を近くで見てきた友人として、まずは、その思索の時間が1冊の本として見事に結実し、こうしてたくさんの読者のもとに届き始めていることを心から嬉しく思っています。

『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)

 本書の大きな魅力の一つは、その佇まいの静かさとは裏腹な、構想の大胆さと率直さです。何しろ、古代ギリシアから現代の認知科学と人工知能まで、さらには万葉集から夏目漱石まで、著者は「語るべきことは、すべて語らずにはいられない」という強烈な欲望に、抵抗するのでも、蓋をするのでもなく、「ままよ」と素直に身を委ねてしまいます。道半ばで溺れてもおかしくないこの途方もない冒険から、無事に著者が生還したことを、まずは本当に、心から祝福したいと思います。

 僕は本書を入手してすぐに三度、熟読しました。そして、一人で書斎で立ち上がり、誰もいない部屋でしばらく、スタンディングオベーションをしました(笑)。独立した詩人・哲学者として歩み続けてきた下西さんが、まさに、自分の足で歩んでいるからこそ紡ぐことができる、彼自身の声で語られた「物語」を生み落とすことができたのは、驚くべきことであり、本当に素晴らしいことだと思います。

 本書は著者の知識をただ披瀝するような本ではなく、何よりもまず「治癒」の書であると思います。著者もみずから打ち明けている通り、本書の執筆のプロセスそのものが、著者自身による自己治癒の過程だったのであり、だからこそ、その歩みを著者とともにたどる読者の心もまた、ゆっくりと解け、綻び、癒されていくのです。心の荷を下ろし、魂の傷を修復していく―― 本書はそのために、著者が自身の心をかけて挑んだ、一つの壮大な「試み」なのです。

 僕もまた下西さんと同じように、特定の組織に所属することなく、独立研究者として思索・執筆を続けてきました。ひとりで歩むということの手応えと厳しさ、難しさを日々痛感している一人としても、本書の誕生は、大きな励みです。
 実際、昨年僕は『計算する生命』(新潮社)という本を書きました。ここで僕が目指しながらも届かなかった思索のいくつかに、風澄さんは今回の本で、別のルートから接近しています。特に、生物学者・認知科学者のフランシスコ・ヴァレラに代表させて「心に生命を取り戻す」思想の生成と展開が語られる章は、本書全体の白眉と言えるでしょう。古代ギリシア以来の壮大な「精神史」のなかに位置づけられることで、フッサール、ハイデガー、メルロ・ポンティ、そしてヴァレラへと至る、「心に生命を取り戻す」かずかずの試みの系譜が、人工知能への欲望と期待に象徴される性急な「精神のアウトソーシング」に対するオルタナティブとして、実に鮮やかに浮かび上がってくるのです。

 本書を読み、僕は『計算する生命』の次の思索の旅へ出発する強い意欲が湧いてきました。今回は、風澄さんを鹿谷庵にお招きし、あらためて本書で描かれる精神史の物語を振り返りつつ、さらにその先へ、ともに思索の歩みを続けてみたいと思います。

 風澄さんの本をすでに読了した方はもちろん、未読の方も歓迎です。当日、ご縁のあったみなさんとともに、新たな「心」の可能性を描く「試み」をご一緒できることを、楽しみにしています。

2022年12月25日 森田真生

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開催に寄せて(下西風澄)2023.1.18

 もしもかりに、人間の思考の歴史としてただひとつ意義深いものを書く必要が起るとすれば、思考の相つぐ悔恨と思考の無力との歴史を書かなければならぬであろう。

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』

 僕は先月、はじめての単著となる『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)という本を刊行しました。この本は「意識の哲学史」を書いた本で、ホメロスやソクラテスといった古代ギリシアの心から、現代のAIや認知科学の心のモデルまで、3000年の人類の意識論を語る、という無謀な本です。

 意識の歴史について書くこと。僕はそのひとつのテーマを自分に抱えたとき、真っ先に思ったのは、意識を持つことの素晴らしさも、意識を持つことの不幸も、同時に書かなければならない、ということでした。

 アルベール・カミュは、心の挫折を書くことこそ人間の精神史を理解する鍵だと直観していました。冒頭に引用した言葉は、本書を書き終えたあとに、あとひとつ足りていなかったエピグラフを探すなかでふと目にした言葉で、最終的には本書には書かれなかったのですが、いま思えば僕は明らかに意識の挫折に自分自身の実存を重ねてこの本を書いていたと思います。

 それは、僕の個人的な意識というものに対する思いも関係しているのですが、それだけではありません。西洋の意識の哲学史を眺めてみると、どうもその中心には「強い心」を支える理論は多いけれど、「弱い心」を支える理論は多くないように思えたからです。そしてまた同時に、その精神史においては「弱い心」はあくまで個人的なものであって歴史的なものではないかのように扱われているようにも感じました(別の言い方をすれば、そのような「弱い心」は哲学の正史(知の歴史)のなかにではなく、文学や芸術の歴史(感情の歴史)に、あくまで「周縁」な存在として位置づけられようとしているのではないか、と)。

 そういう風にして僕は、たとえばデカルトやカントの意識の哲学について書けば書くほど、どうも自分の考えているような意識とはずいぶんと違うことを感じ始めて、それならばいっそと、より自分の実感からは遠い、ある意味では冷徹な心のモデルとして描いていくというように造形していきました。そうすることで、あえて「強い心」と「弱い心」という、自分のなかにある心のイメージをはっきりと感じることができてきたのです。

 その意味で、本書の(西洋編の)最後に、西洋の大哲学者たちの紡ぐ正史を引き継ぐかのように、フランシスコ・ヴァレラというチリ出身の生物学者を(無理やり)位置づけたのは、彼の思想に、心の強さと弱さの関係を書き換える可能性を、僕自身が感じてきたからでもあります。それは、「意識に生命を取り戻す」という思想です。

 僕たち人間は、人間であると同時に生命である。その当たり前の事実が、逆に西洋哲学史のなかでは忘れられ、忘れられるどころか忌避され、排除されてきたのではないか、この本を書く中で僕はそう思うようになりました。人間は自らのアイデンティティのために、自分が生命であることを否定してきたのかもしれません。そしてそのことで、人間の心は過剰な役割を引き受けてしまうことになった。そんな人間の「宿命」に僕たちはいかに向き合うべきか。

 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)や『偶然の散歩』(ミシマ社)で、人間を生態学的な網の目から捉えようとする思想を書いた森田くんと、長い歴史の果てに儚く存在する、人間の宿命について考えたいと思っています。

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