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5月28日(日) | 下西風澄×森田真生 「心の『弱さ』とともに生きる」

《オンライントークイベント》
下西風澄×森田真生
「心の『弱さ』とともに生きる」

【出演】
下西風澄 × 森田真生

【日時】
5/28(日)
14:00-16:30(開場 13:45 予定)
*途中10分程度の休憩を挟みます。
対談終了後には質問を受け付け、可能な限りお二人にお答えいただきます。

【参加費】
4400円(税込)
(申し込み方法はページ下部に記載)

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 ホメロスからソクラテス、デカルトやカントを経て、メルロ=ポンティやフランシスコ・ヴァレラに至るまで、壮大な「心の思想史」を描き出してみせる下西風澄さんの『生成と消滅の精神史』(文藝春秋)は、ホメロスからヴァレラ、あるいは「心の発明」から「認知科学の心」に至る精神史の旅を「第1部 西洋編」で走り抜けたうえで(ここまでですでに300ページ!)、そこで筆を置くことなく、さらに「第2部 日本編」へと果敢に突入していく。

 この「西洋編」に続く「日本編」は、単に西洋に東洋を対置させ、それまでの議論を相対化するだけの内容ではない。彼は、日本を「東洋と西洋の奇妙な接触点」として、あるいは「東西の文明と思想に引き裂かれた歪な文化圏」として読み解いていくことを試みていく。そこに浮かび上がってくるのは、日本とアメリカ、あるいは「漱石とサイバネティクス」とのあいだを繋ぐ意外な「物語(story)」だ。

 「目の前の自然を愛しながらも、機械技術によってそれを切り崩さなければならない」という矛盾のなかで、「自然と機械の折り重なる風景を愛する」という「歪な文学・思想」(p.413)を生み出していったのがエマソンやソロー、ホイットマンら、19世紀のアメリカの文学者たちであった。
 他方で漱石の心もまた、近代の意識と自然のあいだで引き裂かれていた。花鳥風月とともにあり、むしろ、花鳥風月とともにしか存在できなかった日本の心は、江戸末期から明治にかけての近代化の運動のなかで、にわかにその「自然」を奪われはじめていたのだ。
 時代の矢面に立つ漱石は、「新たなる自律的な心を創造する必要」に正面からぶつかっていく。それはいわば、「西洋が数千年をかけて徐々に経験してきた心の歴史を、たったの数十年に圧縮して」(p.372)引き受けるかのような、想像を絶する過酷な経験だった。

 日本の心と西洋の心の苛烈な化学反応 —— それは、単に個人の苦悩でも個人の悲劇でもない。それは、「歴史の悲劇」であり、「心の歴史のひとつの終着駅としての悲劇」でもあった。それが下西風澄さんの本書での見立てである。その意味で、漱石が経験したこと、格闘したことのなかには、日本という特殊な文脈を超え、アメリカが経験したこと、あるいはアメリカの文学者たちが苦闘し、現代のサイバネティシャンたちが引き受けなければならなかった矛盾や葛藤にも通じる普遍性があったのではないかというのだ。

 日本もアメリカも、機械や理性という近代の成果物だけを輸入し、かつそれを急速に身体化しなければならない圧力を経験した。意識と自然を、性急に統合しなければならない歴史の必然的な帰結として、日本やアメリカでは、自然と科学についての思想が清潔に切り離されることのないまま、「混合して同居しながら反発しあうというキメラ的なもの」にならざるを得なかった。

 孤立した意識を全体へと連関させようと苦闘し続けた漱石の文学、コンピュータや生命論の新しい道具立てを提げ、新たな経路で、自然へと回帰していこうとするサイバネティクスの思想も、本書によれば、こうした歴史の条件が生み出した「キメラ」にほかならない。それは、「理性/霊性」あるいは「科学/人間」を清潔に切り分けられない「厄介」さのなかで育まれた「歪な毒花」(p.433)なのであった

 意識とは本来、複雑で多様で、容易に一つのモデルに収束するようなものではない。何千年もかけて育まれてきた「西洋の心」が、非ヨーロッパの文化圏と出会って引き起こされる苛烈な化学反応(あるいは「アレルギー反応」)は、その何よりの証左だ。
 問題は、僕たちがどこまでこの心の厄介さを手放さずにいられるかではないか。無理に「反応」を鎮めるのではなく、すぐに矛盾を「超克」してしまうのでもなく、矛盾の発現、「アレルギー」の諸症状を通して、一つのモデルに容易には収束しない、意識の複雑さと多様性を発見し直していくことである。

 『生成と消滅の精神史』の「第2部 日本編」で、風澄さんが描き出そうとしているのは、心の強さを勝ち取る道ではなく(なぜならその先にあるのは希望ではなく逃避でしかないから)、心の弱さとともにあり続ける道だ。

 もしかすると、西洋の精神史が望んできた「強い心」というのは、私たちが若く健康で、そして豊かな場所に生まれついた状況がたまたま可能にしていた、例外にすぎなかったものを、理想的に理念化したものだったのかもしれない。

下西風澄「生まれ消える心――傷・データ・過去」(『新潮』2023年5月号)

 『生成と消滅の精神史』が描く「終わらない心」とは、強く、壊れない、不滅の心ではない。それは脆く、崩れやすく、いつでも「傷つき得る」心だ。『新潮』(4月号)に掲載された論考「生まれ消える心――傷・データ・過去」のなかで風澄さんは、『生成と消滅の精神史』で論じられた「強い心」と「弱い心」を、「無傷な心」と「傷つき得る心」と呼び直してみたうえで、終わらない心を生きるということは、強く新たに無傷に立ち上がることではなく、傷つきながらも、それを修復しながら生きていくことではないかと問う。
 無から創造していくことではなく、失われたものから再生していくこと。無傷な同一性を保とうとすることではなく、傷を修復しながら、変容し続けていくこと。それこそが、終わらない心を生きるということ、心の弱さとともに生きることではないか。

 『生成と消滅の精神史』の刊行直後に開催された1月22日の対話「心に生命を取り戻す」に続き、5月28日(日)、ふたたび下西風澄さんを鹿谷庵にお招きして、対話「心の『弱さ』とともに生きる」を開催します。
 創造から再生へ、無傷な同一性から修復と変容のプロセスへ。初回の対話に参加された方もそうでにはない方も、本をすでに読まれた方もそうでない方も、ご縁がありましたらぜひご参加ください。

 一期一会のひとときを、心から楽しみにしています。

2023年5月8日 森田真生

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開催に寄せて(下西風澄)2023.5.26

 私たちは、認知システムの中に取り込まれており、そこから逃れることもできなければ、どこから始まり、どのように機能させるかを選ぶこともできないのです。

——フランシスコ・ヴァレラ

 僕たち人間が主体的であるということはどういうことか。それは、生命が自律性を持って運動していることと同じなのだろうか。
 主体は傷を負い、挫折を繰り返すことではじめて主体化し、生命は傷の修復プロセスそのものを根本原理としているように思える。

 別の言い方をすれば、生命が運動プロセスの継続によって自らを強化・学習しながら、自らの欠損を修復しているとすれば、人間は主体化のプロセスにおいて傷を抱え、学習しながらもその記憶を保持し続ける。
 身体を持たないAIが、無傷のままに情報処理という画一的なデータの送受信とデータベースの更新を続けていく時代に、生命の自己修復プロセスや、人間の傷を抱えた主体化はどのような意味を持つのだろうか。

 僕は『生成と消滅の精神史ー終わらない心を生きる』のなかで、「漱石とサイバネティクス?」という章を書いた。
 サイバネティクスは、AI研究や認知科学が成立した戦後アメリカで生じた情報科学と、ヒッピーカルチャーやビートニク文学などが奇妙なかたちで結びついた思想だ。意識を計算と捉えてコンピュータのなかにそれを実装しようとする思想と、意識の扉を開いて自然と一体化するという思想がなぜ共通した運動のなかで育まれたのか。

 もしかしたらこれから、情報処理が無際限に行われる<機械の世界>と、固有な経験が過剰に物語化される<人間の世界>と、社会システの外部で生命が跋扈する<自然の世界>の、分断され並行する世界が来るかもしれない。機械・人間・自然、これらの三つの世界は、それぞれの力学で動き、どの世界もが別の世界を利用しようとする。機械は自然をエネルギー源として収奪しながら、人間の思考や行為を代替していき、人間は道具として機械を利用しながら自然に癒やしを求めるように開発し、自然はときおり巨大な災禍によって機械・人間の社会システムを破壊する。

 サイバネティクスの思想家たちが捉えようとした、機械・人間・自然の関係性は、これから来るべき混沌とした世界の前哨戦だったのかもしれない。私たちは機械が情報を無数に生産し、自然が決壊しながら失われようとするこの時代に、主体的であることができるだろうか。あるいはこのような時代において、主体的に生きるということはどういうことなのだろうか。

 またこうした問いは、日本という自然と心を一体に捉えてきた文化圏が、近代によってそれを失ってしまったという歴史の中からも学びなおすことができるかもしれない。明治近代という巨大な歴史の切断は、日本にとっての傷であり、夏目漱石はそれをまるで独りで引き受けようとするかの如く、苦悩した作家だった。歴史が断絶することと、新しい歴史が始まることのあいだで、ただ文学や思想や制度を無機質に更新するのではなく、かつてあった文学・思想を修復するようにして、あるいはその傷を保持し続けようとして、物語のなかにまだ見ぬ新しい人間の行き方を創造しようとした。

 主体化の失敗、という日本の最大の問題とも語られるその重要な起源は、夏目漱石という作家に象徴される。しかしそれを単なる明治時代の負の遺産として忘却するのでなく、これからの全面的な情報化時代における課題の先駆けとして思考してみたい。

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【お申し込み方法】
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